- 著者
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大賀 郁夫
- 出版者
- 宮崎公立大学
- 雑誌
- 宮崎公立大学人文学部紀要 (ISSN:13403613)
- 巻号頁・発行日
- vol.15, no.1, pp.1-20, 2008-03-07
元禄三年九月、日向国延岡藩領臼杵郡山陰・坪屋両村の百姓一四〇〇人が、隣藩高鍋領へ逃散する事件が起こる。百姓たちは高鍋藩を仲介して延岡藩と交渉を続けるが、途中交渉が難航し結果的に帰村するまで一〇カ月にも亘ることになる。従来の研究では、百姓たちの提出した「訴状」をもとにして、延岡藩の農政を「苛政」と評価する研究がほとんどである。しかし、当時領主は「御百姓」を撫育し「御救」することが、また百姓も年貢上納に出精する「御百姓」であることが求められた。しかし災害の続くこの時期そうした「仁政イデオロギー」の実現は困難を極めた。小稿では、百姓側の「訴状」と領主側の「子細書」の内容を具体的に比較し、何が問題となっているかについて考察した。 「御百姓」への「介保」「百姓勝手」のために奔走する郡代の政策は、百姓たちにとっては「迷惑」でしかなかった。そうした双方の思惑の「ズレ」が、逃散事件の根源的要因であったことを明らかにした。