- 著者
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木村 裕一
- 出版者
- 学習院大学
- 雑誌
- 学習院大学人文科学論集 (ISSN:09190791)
- 巻号頁・発行日
- vol.17, pp.183-200, 2008
1904年に最初の稿(いわゆる「A 稿」)が成立したフランツ・カフカの『ある戦いの記録』は、他の代表的な作品と比べそれほど注意を払われてこなかった。分析されたとしても、もっぱら注目されてきたのは、枠物語として展開されている「太った男」および「祈る男」の部分のみであった。その際この枠物語は、同時代の「言語危機」現象を背景とした現実に対する認識論的批判や、あるいは「書かれたもの(エクリチュール)」の自律的運動性と結び付けられることで、物語の文脈から切り離されて読まれてきた。本論で試みるのは、このようにして一部が切り離されて読まれてきたこの作品を、全体的なコンテクストを考慮に入れながら読み直していく作業である。とりわけ注目しているのは、この作品の最後のシーンで繰り広げられる自傷行為である。作中で展開される枠物語において、言語とその指示対象とのあいだの関係は、恣意的に変更可能なものとして撹乱される。身体は確固とした実体的存在としてではなく、知覚を前提とした記録行為によって構成されるものとして現れてくる。また、事物や世界は名づけによって(再)構成可能なものとして描かれている。そして、枠物語をはさんで本筋の物語の登場人物である「私」と「知人」のあいだの関係は変化する。枠物語以前の「私」による言語行為は、「知人」による直接的な身体行為によって阻害されてしまう。しかし枠物語を通じて、「私」の言語行為は「知人」の身体的行為と同等の確実さを持つように描かれている。この関係を再度撹乱してしまうのが「知人」による自傷行為である。自傷行為は言語によらない行為であり、言語行為が決して到達することのできない限界点を提示する。言語行為によって展開されてきたはずのテクストが、最終的には言語によらない行為によって破綻し、終焉するという構造は、この作品における最も重要な特徴である。しかしこのような構造は、決して単純に同時代的なコンテクスト、すなわち「言語危機」と結び付けられるものではない。「言語危機」現象の例として挙げられる数々の言説において、「危機」は最終的には、芸術的表現という言語行為によって克服される、あるいはそれを前提とした演出にとどまっている。それに対し、カフカのこの作品において「危機」は言語と行為のあいだの架橋不可能な断絶を、危機の表現の(不)可能性を指し示しているのではないか。その意味で、『ある戦いの記録』はカフカ研究においてのみならず、文化的現象としての「言語危機」を分析する際の新たな視点を用意してくれるテクストとして、非常に重要であるということができる。