著者
小熊 正久
出版者
山形大学
雑誌
山形大學紀要. 人文科學 (ISSN:05134641)
巻号頁・発行日
vol.16, no.4, pp.1-28(148-121), 2009-02-15

序 メルロ=ポンティは『知覚の現象学』の序文の中で、「世界の統一性は、認識によって明白な認定作用のなかで措定されているよりも前にすでにつくられたものとして、あるいはすでにあるものとして生きられている」と述べている。さらに彼は、こうした「世界及びわれわれの生の自然的かつ前述定的統ーをつくっているもの」を「作動的志向性(l'intentionaliteoperante, fungierende Intentionalitat)」というフッサールの用語の内実と捉え、この点で現象学の主張する「志向性」がカント的な「ある可能な対象への関係」とは区別されると説いている。メルロ=ポンティは、こうした反省以前の世界経験としての「志向性」の概念を重視して、極端な主観主義と極端な客観主義を回避しながら、それを綿密に記述したが、フランシスコ・バレーラは、『身体化された心』において、認識についての「エナクティヴ(enactive)アプローチ行為からの世界と心の産出」を解明しようとするアプローチを展開するにあたって、メルロ=ポンティの考えを援用している。「本書の行程は一世代以上以前に-ーメルロ=ポンティによって基礎を据えられた研究計画の継続である」と。だが、バレーラの考察の基盤は「システム論的生命論」ないし「オートポイエーシス理論」である。両者の接点はどこに見いだせるのであろうか。また、その関連はどのように捉えられるべきであろうか。小論では、メルロ=ポンティの「運動的志向性」および「身体」の考えがバレーラのシステム論のなかでどのように扱われているか、また、扱われうるかを検討することをとおして、両者の思想の関連を探るとともに、「志向性」ならびに「身体」の概念を考察したい。

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