- 著者
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小川 功
- 出版者
- 跡見学園女子大学
- 雑誌
- 跡見学園女子大学マネジメント学部紀要 (ISSN:13481118)
- 巻号頁・発行日
- vol.6, pp.115-131, 2008-03
筆者は近年は主に大正期に取付・破綻した銀行・企業群とその実権者のリスク選好の分析を進めつつあるが,今回はこれまであまり紹介されてこなかった佐賀貯蓄銀行が対象である.本稿は明治29年「佐賀財閥」の共同経営の庶民貯蓄機関として設立され,「葉隠武士」で名高い旧佐賀藩主・鍋島家元重臣の旧士族人脈で構成された佐賀貯蓄銀行のビジネス・モデルの変容を取り上げる.当初の「所謂士魂商才と云った様な型」の堅実なビジネス・モデルが,大正初期から次第に破綻に繋がるようなハイリスク・モデルに変容する契機を,主に田中猪作というハイリスク選好者としての「虚業家」との抜き難い因縁によって仮説的に説明しようという試論である.田中は政治家を志し,代議士に立候補する一方で,数多くの新設企業の創業に関わる職業的発起人であり,同行とは別に中央生命保険(別稿を予定)を自己の機関金融機関として収奪しようと乗取りを敢行した「山師」的人物と評されている.旧士族としての教養もあり,「佐賀財閥」の名流に連なる銀行幹部連が揃ってアウトサイダーに取り込まれ,虚偽の預金証書多数を乱発し同行を破綻に陥れる犯罪行為に何故に走ったのかが筆者の主たる関心事である.同時期の地方銀行の不祥事件として大相場師・石井定七に巨額の架空預金証書を提供した高知商業銀行が著名であるが,石井は過去に何度も同行を救済した大株主で重役は石井の無理な要求にも従わざるを得ない因縁にあった.しかし田中は佐賀貯蓄大株主でもなく,とりたてて深い義理も感じられない.「予審決定理由書」など参照し得た資料の限界から十分に実証するには至らないが,銀行幹部が大戦景気・大正バブルの中で「虚業家」の言葉巧みな甘言に煽られ,投機的利益を獲得すべく,新設企業群(結果として泡沫企業)への創業金融という一種の投資銀行的なハイリスク・モデルに自ら転換し,株式担保金融の占率を異常に高めていったのではないかとの現段階での仮説を紹介する.