- 著者
-
松本 健一
- 出版者
- 麗澤大学
- 雑誌
- 麗澤学際ジャーナル (ISSN:09196714)
- 巻号頁・発行日
- vol.5, no.1, pp.A27-A33, 1997
二十一世紀は「アジアの世紀」だ、といわれる。これは十八、九世紀が「ヨーロッパの世紀」で、二十世紀が「アメリカの世紀」であったことを意識しつつ、「こんどはアジアの隆盛の時代だ」、という期待をこめていわれる言葉である。たしかに、二十世紀末の現在、アジアそれも東アジアは、世界経済のエンジン部分を構成しはじめている。ところが、そのアジアは十九世紀半ばの世界史にあっては、「停滞」のイメージで捉えられていたのである。それがこの一世紀あまりのあいだに、アジアのイメージは「停滞」から「抵抗」へ、そうして今や「発展」へと、百八十度の転換をとげている。これにはむろん、帝国主義の終焉、ならびにその変形としての覇権国家アメリカの衰退(これに対抗したソ連の解体)、という外的な状況が大きく関わっていよう。しかし、アジアがその世界史的イメージを、「停滞」から「発展」へと百八十度の転換するためには、それを可能にしたアジア自身の内的な本質が存在しなければならない。その内的な本質こそ、アジアがその文化、歴史、宗教、民族において多様でありながらも、一様に農耕文明に発する「内に蓄積する力」をもっていた事実が、まず認識されなければならない。しかし、アジアの「内に蓄積する力」としての共質性は、かつてヨーロッパ・アメリカ文明の牧畜文明を基底とした「外に進出する力」のまえに無力であった。ところが、二十世紀半ばに、日本をふくむ帝国主義が終焉した。そして、そのあと覇権国家のテリトリー・ゲームも終わって-これを終わりへと導いたのが、戦後日本のウェルス・ゲームであった-ゆくと、アジア諸国の「内に蓄積する力」が発展へと爆発しはじめたのだった。