- 著者
-
村田 宏
- 出版者
- 跡見学園女子大学
- 雑誌
- 跡見学園女子大学文学部紀要 (ISSN:13481444)
- 巻号頁・発行日
- no.42, pp.19-37, 2009-03
本稿は、一九二〇年代のパリで「画家」となったアメリカ人ジェラルド・マーフィー(一八八八―一九六四)に焦点を合わせ、その芸術的特質について「移動」と「パリのアメリカニスム」の観点から再検討するものである。\n 絵画の門外漢マーフィーが、一九二〇年代のパリの美的動向、具体的には摩天楼とジャズへの憧憬に彩られた「アメリカニスム」に大きな意義と役割を担う画家へと変貌してゆく経緯とその史的背景について、筆者が決定的意義をもつと考える問題に即しながら検討を加える。端的には、1「マーフィーとナターリア・ゴンチャローヴァ」2「マーフィーとパブロ・ピカソ」3「マーフィーとフェルナン・レジェ」という三つのトピックをとおして、考察が進められることになる。\n 筆者は、さしあたって議論の端緒を、画家が回想で語る「モンパルナスの仮装舞踏会」や「バレエの初演」に求めることとした。これら二つのイベントがいかなる内容のものであったか、さしあたって不明であるが、今日に伝わる断片的な事実や資料のいくつかをつきあわせるならば、新来のアメリカ人マーフィーが身を置いた時代と場所の特性を測定することが可能となるからである。「仮装舞踏会」「バレエ」は、いずれもパリに到来した多くの外国人芸術家がいくつもの場面で「主役」を演じるようになった一九二〇年代特有の現象であり、より限定的には、絵画の門外漢マーフィーが画家として世にあらわれるに際し、どのような啓示をいかなる人々から受けていたか間接的に示唆する挿話となっているといえよう。\n 暫定的に得られた結論を記せばつぎのようになる。すなわち、絵画の初心者マーフィーが、パリ在住のロシアの芸術家ナターリア・ゴンチャローヴァを最初の芸術上の師とするという経路を辿りながら、パリの前衛芸術家のサークルへとその交友の輪を広げていったということであり、その交渉はパブロ・ピカソ、フェルナン・レジェに及ぶということである。本号の考察は、第一章「マーフィーとナターリア・ゴンチャローヴァ」と、第二章「マーフィーとパブロ・ピカソ」第一節までとし、以下は次号に掲載を予定している。