- 著者
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ベルテッリ ジューリオ・アントーニオ
- 出版者
- イタリア学会
- 雑誌
- イタリア学会誌 (ISSN:03872947)
- 巻号頁・発行日
- no.59, pp.209-236, 2009-10-17
1871年。明治維新から僅か三年後に、駐日アメリカ公使チャールズ・E・デ・ロング(Charles E. De Long)は日本北部の地域(東北地方および蝦夷の内地)への視察旅行の計画を立てた。この旅行の主な目的はその地に眠る資源とその開発に関する情報を収集すること、先住民(アイヌ)の気性や生活様式を観察すること、そして貿易の可能性を計ることだった。いわゆる「不平等条約」の規定により、外国人は居留地およびその周辺以外に足を踏み入れることが禁じられていたため、北海道の内地や東北地方における外国人の視察旅行は全く前例のないものだった。デ・ロングの一行は9月5日の深夜、郵便船「エリエール号」に乗船し、函館に向かって出港した。函館に入港し、そこで内地旅行の支度のため、一週間程度滞在した。そこからデ・ロングたちは陸路で旅を続け、馬にまたがり、18日間で北海道の内地を視察した。まず、一行は内浦湾沿いにある長万部、室蘭、勇仏などのアイヌの集落を訪れてから、内陸へと進み、札幌へ到着した。そこから北に進み、小樽・岩内経由で函館に戻った。その後、一行は函館にしばらく滞在し、ロシア軍艦「セーブル号」で津軽海峡を渡ってから、陸路(主に駕籠)で23日かけて、青森、盛岡、一関、仙台、福島、郡山、宇都宮経由で11月5日に東京に到着した。さて、本稿は三部に分かれている。第一部には、この視察旅行に関係する数々のアメリカ側史料を検討する。その中で、最も興味深いものは、この視察旅行の一員だった若者チャールズ・A・ロングフェロー(Charles A. Longfellow)の日誌や書簡(私文書)である。この日誌に目を通すと、一行には「ピサ」(Pisa)というイタリア人も加わっていたことがわかる。日誌によると、ピサは「イタリアの書記官」であり、「ドクター」と呼ばれていたことが明らかになるが、彼の経歴や身元に関して詳細な情報は把握できない。とはいえ、ロングフェローは頻繁にピサを話題にしている。日誌によると、ピサは北海道や東北で登山中に転んだり、北海道の暴れ馬に鞍から落とされたり、馬を盗まれたり、川に溺れそうになったりと、様々な困難や小さな事故に遭遇し、しばしば視察団の間に笑いを巻き起こしていた。また、彼は不適切な行動や発言によって、一行の反感を買ってしまうことになったのである。第二部には、イタリア側史料(先行研究、二次史料、そしてイタリア外務省歴史外交史料館(ASDMAE)で収集した未刊の公文書)を利用しながら、ピサの生涯と経歴、来日した理由、そしてデ・ロングの一行に加わった経緯を追究する。ウーゴ・ピサは1845年にイタリア北部の都市フェッラーラ(Ferrara)に生まれた。彼の父親ルイージ・イスラエーレ(Luigi Israele)は大変裕福なユダヤ系商人で、兄弟と共に「ザッカリア・ピサ」銀行を経営していた。パヴィア大学法学部出身で、卒業後、1869年7月10日に、私費・無報酬で、外務省に出仕した。翌年はイタリア公使の任命を受けたアレッサンドロ・フェ・ドスティアーニ伯爵と共に中国、そして日本に向けて出発した。ピサが日本で過ごした期間は1870年10月から1872年5月までに及ぶ。公文書によると、ピサは多忙を極めていたフェ・ドスティアーニ伯爵の代わりにデ・ロングの視察旅行に参加することになった。この任務を受けたピサはフェ伯爵の指示に従い、公式な報告書を書いた。この未刊の報告書は本稿の第三部の中心となる。この手稿は11枚(全21ページ、32×22センチ)からなり、デ・ロングの視察旅行に関する史料の中で、ロングフェローの日誌の次に最も長いものである。報告書の序文に、ピサは旅行の目的およびルート、走行距離、交通手段について簡潔に述べている。そこからピサは二部に分かれている本文に入る。第一部の題名は「函館と札幌の間を往復」で、その中に北海道の内地の実情に関する記述がある。ここで、詳しいルートの説明を行い、北海道の漁業(鮭、海草などの生産)、狩猟(毛皮の生産)、そして林業(木材の生産)や鉱業(貴金属や石炭の採掘)などの点を相次いで注意深く検討していく。報告書の第二部の題名は「青森湾から江戸まで」で、ピサはここで東北地方についての情報をまとめ、主に盛岡や仙台およびその主な産業や特産物について言及し、開港や貿易の可能性を検討している。ピサはもちろん、ここでも土地の肥沃さや農産物(米、小麦、綿、桑など)について述べている。さらにピサは旅行中に青森から東京まで走行した奥州街道の状況(盛岡までは悪いが、進めば進むほど良くなる)にも触れながら、東北地方における新たな交通網の必要性を強調している。ピサの報告書は公文書であるためであろうか、デ・ロングの一行との摩擦に関する記述は一切現れない。ロングフェローはピサの短所を強調し、不器用で礼儀を知らない卑怯な人間として描いている一方で、フェ伯爵はピサを高く評価しているだけでなく、彼を信用し、後年の日伊関係に大きな影響を及ぼす可能性のある重要な任務を与えた。デ・ロングの視察旅行が短い期間に亘って行われたものの、ピサは、書いた報告書からも窺えるように、注意深く訪れた地域を観察し、その洞察力を証明する多くの情報を集めることができた。この面で、彼はフェ伯爵の信用を裏切らず、受けた任務を見事に成し遂げたと言える。また、ピサが遺した報告書は、北日本における初めての視察旅行に関するイタリア人による唯一の公文書であるため、大変価値の高いものであると言えよう。