著者
豊川 浩一
出版者
Japanese Society for Slavic and East European Studies
雑誌
Japanese Slavic and East European studies
巻号頁・発行日
vol.30, pp.45-58, 2010

ピョートル一世からエカチェリーナ二世までの間に、ロシアはヨーロッパの一員となった。それはロシアの知識人に活動の機会を与える啓蒙主義の時代でもあった。しかし、この時代をどのように理解すべきなのかということについては議論がある。17世紀以来の国家システムや社会組織をそのまま引き継いだという議論もあり、また18世紀ヨーロッパの同時代性のなかで開花した時代として理解すべきであるという考えもある。おそらくは、その両方の見方が必要になろう。実際には、18世紀ロシアはどのような時代だったのだろうか。確かにこの時代のロシアは17世紀の諸制度を引き継いでおり、また他方では、ピョートル一世が目指したように、貴族の国家勤務を柱に国家を建設し、秩序ある社会を目指そうとした時代であった。さらに重要なのは、ロシア人自身が「ロシア人」とは何者なのかを認識し、あるいは「ロシア人」を形成する時代でもあった。そこで役割を果たすのがピョートル一世の意を受けてその死後に創設された科学アカデミーの存在と活動である。特に、ロシア各地に派遣することになる遠征隊の役割が重要となる。ユーラシア大陸とアメリカ大陸の間に海峡が存在することを明らかにしたベーリングの遠征隊に代表されるように、各種の遠征隊はロシア=ユーラシア各地の地誌、歴史、自然を調べ上げる作業を行った点で際立っている。これらの遠征隊が行った作業は、ロシアが一体どういう国家であるのかということをロシア人自らが理解するうえで有効であった。ロシアが征服・併合した土地にはロシア人自身の知らない多くの民族が住んでいる。彼らはどういう人々なのか、また彼らに対してどのように対応しなければならないのか、ということを考えさせたのである。南ウラルへの遠征、特にI.K.キリーロフを隊長とするオレンブルク遠征隊は、そのような学術遠征の意味をも兼ね備えた遠征であった。もちろん、最終的な目的は中央アジアさらには遙かインドや中国との交易を念頭においたロシア南東地域の完全な制圧と防衛線の建設である。その遠征の成果の一端はP.I.ルィチコーフによる『オレンブルク県地誌』や『オレンブルク市史』となって現れる。しかし、地方住民-特にバシキール人-はこの遠征の動向に注目し、敏感に反応する。すなわち、イヴァン四世以来、自分たちとロシア国家の関係を契約によって成り立つ自由なものであるという認識を持っていた。しかし、遠征隊の活動は、16世紀以降の進んだロシア人による植民およびそれによる先の契約関係の崩壊、またより明確な形をとって現れる自らの土地の占拠とみなされたのである。そのため、それまでバシキール人が植民運動に対して示したと同様に、この遠征に対してもバシキール人は激しい武装蜂起でもって答えた。これに対して、当局は厳しい態度で臨むことになる。そうした遠征隊の行動に対して危惧する人もいたが、遠征隊長キリーロフはバシキール人を絶滅させても構わないとさえ考え、厳しい懲罰行動を行った。そうしたことも啓蒙主義時代の出来事であった。以上の問題を具体的に考えてみようとするのが本稿の課題である。

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