- 著者
-
松岡 寛子
- 出版者
- 日本印度学仏教学会
- 雑誌
- 印度學佛教學研究 (ISSN:00194344)
- 巻号頁・発行日
- vol.60, no.3, pp.1242-1247, 2012-03-25
『タットヴァ・サングラハ』「外界対象の検討」章では,外界対象の存在が不合理であることと,認識が所取・能取という二相を欠いていることを根拠として唯識説が確立されることが説示される.シャーンタラクシタはv.118(TS_B 2082)において次のように述べる.能力が直前の認識にあるとき,所取分に関して〔認識〕対象が確立される(ab).〔しかしながら,所取分に関する認識対象の確立を〕我々は真実のものとしては認めない.したがって〔我々は〕それ(認識対象の確立)を支持しない(cd).認識の一部分に認識対象を設定するというab句の見解が『観所縁論』におけるディグナーガの主張に一致することは『パンジカー』に『観所縁論』を引用するカマラシーラによって指示される.両師弟はこのディグナーガ説をいかなるものとして言及しているのか.西沢史仁氏は,師弟がディグナーガの唯識説をそれとは異系統の唯識説を奉じる立場から批判しているとみなしている(「カマラシーラのディグナーガ批判」『インド哲学仏教学研究』3(1995):21).しかし,師弟は認識対象の設定を全面的には否定しておらず,ましてや唯識論師ディグナーガを批判していない.『パンジカー』,及び『観所縁論釈』等によれば,ディグナーガが『観所縁論』において認識の所取分に認識対象を設定したのは世俗的真理の観点からであって究極的真理の観点からではない.そしてこの所取分に認識対象を設定すること,認識に所取・能取という二相を設けることこそが唯識説における「垢」である.この「垢」が真実の観点から除去されることにより,最終的に唯識説は「無垢」(119b': vimala)となる.シャーンタラクシタの見解において,唯識説はこのように認識の無二性に帰着するのである.