著者
宮本 敬子
出版者
日本福祉大学
雑誌
現代と文化 : 日本福祉大学研究紀要 (ISSN:13451758)
巻号頁・発行日
no.127, pp.25-51, 2013-03

18 世紀ドイツ啓蒙思想には大別して二つの潮流が存在する.「第一の啓蒙」は,言論の自由を重視し,「理性」以外のいかなる権威にも屈せず,物に光を当ててすみずみまで観察するようにあらゆる物事を「自分で」考察し理解を深め,科学的観点から真理の探究を試みるものとしての啓蒙である.「第二の啓蒙」は,出自こそ第一の啓蒙と同じだが,徐々に国民国家を形成する方向へ進展したプロイセンに特有の,端的には「官製の」ともいうべき啓蒙である.第二の啓蒙は,それまで聖職者が司っていた社会規範や教育を国家が主導すべく奪取した際に利用され,紀律的軍隊的規範の構築を助けるものとなった.第一の啓蒙は「世界」における正しさを探求し,第二の啓蒙は「国民国家」形成の足がかりとなった.この二つの啓蒙は18 世紀末のドイツにおいて併存し,両者の均衡に心を砕いた思想家も多数存在した.しかし,18 世紀最後の10 年間から19 世紀の初頭にかけて,第一の啓蒙が要請した世界市民思想や,これに連なるイマヌエル・カントの「理性の公共的使用」のような思想は「現実的ではない」として否定され,これが自国の弱体化をもたらしたとさえ考えられるようになる.さらに時代が下ると,歴史家が第一の啓蒙の意義を隠蔽するかのような議論を展開する.こうして第一の啓蒙は思想史的に埋没し忘却されていった.本論文は,最終的にイマヌエル・カントの世界市民思想に結実する「第一の啓蒙」に関する論考である.そして,ドイツ語の「アウフクレールング」を「啓蒙」と訳すことで生じる問題について考察した.日本語の「啓蒙」は「第二の啓蒙」に相当し,「第一の啓蒙」を説明する語としては適切でないためである.さらに論文の後半では,第一の啓蒙が後世の研究者によって埋葬される様子を描いた.

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"他律的構制の表現である啓蒙という訳語は,「自分で考える」勇気を教えるカント哲学にはふさわしくない.日本語で行われる研究の場合,二重のバイアスがかかっている" →では、どんな訳語がいいか(考え中)

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