- 著者
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趙 義成
- 出版者
- 同志社大学
- 雑誌
- 社会科学 (ISSN:04196759)
- 巻号頁・発行日
- vol.102, pp.113-125, 2014-05
本稿の目的は,朝鮮民主主義人民共和国(以下「共和国」)の朝鮮語学において,旧ソ連言語学のいかなる影響があったのかについて,とりわけ政治・思想的な側面と文法論的な側面に関して考察することである。第2次世界大戦以前のソ連言語学界ではN.Ja.マールの理論すなわちマール主義が「マルクス主義言語学」として,絶対的な地位にあった。共和国の言語学界がソ連の言語学を受容することは衛星国としての公的な方針であり,金寿卿が紹介した論文はほとんどがマール主義に関連づけられたものであった。しかし,共和国の朝鮮語研究それ自体はいたって常識的な言語学に基づいた研究活動であり,マール主義は共和国に根ざすことがなかったと推測される。1949年刊行の『朝鮮語文法』(以下『49年文法』)は,音声学と音韻論を区分せずに音論として扱う点,造語論を形態論の中で扱う点,統辞論で単語結合を扱う点などは,当時のソ連言語学と軌を一にしている。『49年文法』は,従来の文法論で同義の用語だった「助詞」と「ト([ト])」を別個のものとして扱っていた。朝鮮語の格を表示する要素を「助詞」という単語と見ずに「ト」という形態形成の形態素と見たのは,ロシア語文法における名詞の格の捉え方を参考にしたものと考えられる。一方,「助詞」は,ロシア語文法における「小詞」の概念と関連づけ得る。また,『49年文法』では,旧ソ連言語学における単語結合が「語詞結合」という用語で扱われているが,この時点では文法理論をまだ十分に吸収することが困難だったと考えられる。スターリンによるマール批判(1950年)とマール主義を否定したソ連言語学は,朝鮮戦争休戦までには共和国にもたらされていたと見られる。1958年,共和国言語学界の主導的立場にあった金枓奉批判する論文が掲載され,6字母などの金枓奉の業績はことごとく否定され,金寿卿も公式に批判を受けた。金枓奉の失脚が政治的な動機によるものであった一方で,金寿卿は「追従者」と受動的な立場に位置付けられていることから,金寿卿に対する批判はあらかじめ「逃げ道」の用意されていたもののようにも思われる。金寿卿が執筆に関わった1960年刊行の『朝鮮語文法1』(以下『60年文法』第1巻)と,1963年刊行の『朝鮮語文法2』(以下『60年文法』第2巻)には,1952年と1954年に刊行されたアカデミー版『ロシア語文法』(以下『ソ連60年文法』)が大きな影響を与えたと推測される。セクションを区切る書式,「序論」と称して形態論の諸問題を広く検討する手法,音論において国際音声記号を用いず固有文字で発音を表記する手法などは,『ソ連60年文法』の手法をそのまま踏襲している。『49年文法』から『60年文法』第1巻への大きな変更点は,すべての「助詞」を認めなくなった点である。文法形態素として語根に膠着する要素をことごとく「ト」とするこのような見解は,その後の共和国のあらゆる文法論に原則的に引き継がれていく。『60年文法』第1巻では,ソ連言語学と同様の単語結合の概念を認めているが,3年後に刊行された『60年文法』第2巻では,「諸単語の文法的連結」というより広い概念を設定し,その下位範疇として「結合」,「接続」の2つを設定した。ソ連言語学の「単語結合」だけでは処理しきれない問題があったためであると見られる。1960年代までの共和国の言語学界が学問的に健全に活動を行ってくることができたのは,金寿卿をはじめとする研究者の真摯な学問的姿勢に拠るところが大きいといえよう。