著者
田中 圭子
出版者
同志社大学
雑誌
社会科学 (ISSN:04196759)
巻号頁・発行日
vol.80, pp.43-58, 2008

日本の球体関節人形は、1960年代に澁澤龍彦、瀧口修造らシュルレアリストたちによって紹介されたハンス・ベルメールの人形写真との邂逅に始まる。人形には「人形としてのかたち」があるという発見から生まれた四谷シモンの人形は、それまでの叙情的で愛らしい創作人形の概念を覆すものであった。70年代の四谷シモン、土井典らの活躍によって、球体関節人形は工芸の一部としては収まりきらないものとの認識が高まり、新たな文脈の中で独自の発展を遂げてゆく。80年代、天野可淡、吉田良らが制作した耽美で幻想的な人形作品と写真集は、その後の人形表現に大きな影響を及ぼし、多くの追随者を生むこととなった。また、球体関節人形に関する出版物の増加、人形教室の開設などにより、球体関節人形制作は短期間で全国に波及し、多くの作家を輩出していった。近年では、西欧のビスクドールに影響を受けた恋月姫の登場以降、玩具性やファッション性を重視する傾向が強まり、球体関節人形文化はサブカルチャーと係わりあいながら新たなひろがりを見せている。
著者
岩坪 健
出版者
同志社大学
雑誌
社会科学 (ISSN:04196759)
巻号頁・発行日
vol.101, pp.1-17, 2014-02

西洋音楽に使われる楽器とジェンダーに関する研究は、すでに欧米において進められていて、男性/女性向けの楽器や、男性/女性らしい楽器に分かれる。平安時代にもジェンダーの概念があり(千野香織氏の説)、源氏物語に描かれた絃楽器にもジェンダーが見られるか考察する。当時の絃楽器には和琴・箏の琴・琵琶・琴(きん)の琴(こと)の四種類があり、このうち和琴だけが日本原産で、ほかの三種は外来である。千野氏の論によると、中国は男性性-日本は女性性に分けられるので、日本産の和琴は女性性の楽器と仮定できる。また、和琴は東琴(あづまごと)とも呼ばれ、東国は都より下に見なされていた。よって和琴には、女性性と下位の要素が共存している。これは上位の中国は男性性、下位の日本は女性性と説く千野説にも合う。次に箏の琴は、源氏物語では「あやしう昔より箏は女なん弾きとる物なりけり。」(明石の巻)とあり、女性向きの楽器と捉えられていた。逆に琵琶は、「琵琶こそ、女のしたるに憎きやうなれど、」(少女の巻)により、女性には似合わない、と見なされていた。最後に琴(きん)の琴(こと)は、中国では君子の嗜む楽器として尊ばれていた。以上により、琴(きん)の琴(こと)と琵琶は男性性、箏の琴と和琴は女性性の楽器と定義され、それにより物語の新たな読みが拓かれるのである。
著者
板垣 竜太 戸邉 秀明 水谷 智
出版者
同志社大学
雑誌
社会科学 (ISSN:04196759)
巻号頁・発行日
vol.88, pp.27-59, 2010-08

論説(Article)本稿は国際的な視野から日本植民地研究を再考した。その際、「比較帝国研究」の枠組とは一線を画すことに留意し、日本帝国を他の植民地帝国と比較するというよりは、日本植民地研究の史学史と現況に焦点を合わせた。すなわち、マルクス主義、近代化論、ポストコロニアル論などの欧米の学界に由来する歴史研究の枠組が、日本植民地研究にどう受容され、対話がおこなわれ、批判され、鍛えられてきたかに注目し、議論を展開した。This essay reviews Japanese colonial studies from an international perspective. The essay, however, is not intended as yet another example of so-called 'comparative empire studies'. Rather than comparing the Japanese empire with others, it focuses on the past and present of the historiography of Japanese colonialism. It discusses a range of theoretical issues by examining how the historiographical frameworks developed in the Euro-American academia was received, discussed, and critiqued by scholars of Japanese colonialism.
著者
大友 達也
出版者
同志社大学
雑誌
社会科学 (ISSN:04196759)
巻号頁・発行日
vol.79, pp.187-203, 2007

昭和43年11月駐車場500台を持った日本最初の本格的なダイエー香里ショッピングセンターがオープンした。その後、ダイエーが同じ型の店舗を太平洋ベルト地帯に次々オープンすると、ジャスコの店は面白いように閉店させられた。ジャスコは慌ててダイエーが出店しない北陸、東北、山陰へ出店する「逃げの戦略」に切り替えた。そのため、ダイエーは平均30万人の商圏に対して、ジャスコの店舗のお客様は8万人が平均だった。こんな小さな商圏なので、ジャスコは高占拠率が取れるノーハウを努力して蓄積していった。これが今ジャスコの最大の武器になっている。平成に入って、ジャスコはダイエーの店がある太平洋ベルト地帯へ、蓄積したノーハウで千台以上の駐車場を持つ大型店を出店して来た。そうすると、ダイエーの店舗は戦いに敗れ、次々潰れた。私はこの現象を「イオンの弔い合戦」と名づけた。これに対して、ダイエーはアメリカのウオルマートやフランスのカルフールの店舗を研究し、新型の「ハイパーマート」でイオングループに対抗した。だが、結果は惨敗。中内さんは責任を取って、ダイエーを去った。次の若い社長は「ハイパーマート」の店に修正を加えて対抗したが、駄目だった。政府は巨額負債のダイエーの倒産を恐れ、強圧的に産業再生機構を適用し、丸紅主導でダイエーの再建を計ったが上手く行かず、丸紅はイオンに助けを求めた。5月24日のダイエー株主総会はイオンから2名の取締役を受け入れた。昭和40年代馬鹿にしていたあの弱小ジャスコ(現イオン)の軍門にダイエーが入ると誰が想像したであろうか。
著者
田村 雲供
出版者
同志社大学
雑誌
社会科学 (ISSN:04196759)
巻号頁・発行日
vol.79, pp.1-30, 2007

第一次世界大戦後のドイツ・ヴァイマル共和国では、開放は同時に消費指向性をもたらした。まず「性」の解放が進む。これは産児制限への欲求となって「性相談所」の設立をうながす。1919年から1932年までに400件以上の相談所ができ、そのうちのほぼ400件がベルリーンに集中していた。20年末には最高潮となる。フェミニスト、ヘレーネ・シュテッカーは精力的に相談所設立にかかわり、「性の民主化」をおしすすめた。しかし、1926年以降には公営の「結婚相談所」が設けられ、その方針は社会ダーウィン主義的な選別的断種においていた。「性科学」と「優生学」への両極化へのプロセスがはじまる。しかし、ナチズムはすべての成果を破壊する。
著者
井ヶ田 良治
出版者
同志社大学
雑誌
社会科学 (ISSN:04196759)
巻号頁・発行日
vol.76, pp.31-52, 2006

黒住教は江戸時代後期に黒住宗忠(1780-1850)によって岡山で組織された神道系の民衆宗教である。宗忠は自己の全生命と太陽神天照大神が合一する神秘体験から、神人不二の妙理を悟り、天照大神を万物の根源年、人間すべて平等に神の子であるとする現世利益の教説を説いた。彼の死後、弟子の努力で宗忠にたいし吉田神社より大明神号をうけることができた。黒住教は岡山藩内から次第に教線をひろげたが、その布教は丹後田辺藩領にもひろがっていた。その実態を田辺牧野家領の裁判記録を通じて明らかにすることができる。民衆の歴史史料として、裁判記録の利用がいかに有効であるかを実験してみた。記録自身は為政者の手になるもきてはあるが、そこに反映されているのは、吟味を受けた領民の信仰の姿である。それを通じて江戸後期の民衆の精神活動と行動がいかに活発てあったか,その行動範囲がいかに広かったかをしることができた。また、信仰を通じて血縁・経済活動などの民衆のネットが存在したことや、村を追放された罪人が父母や家族への孝養・介護の為に御構い場所にたちかえっている実態なども明らかになった。丹後田辺藩は他藩と比べて、異常なまでに他国からの宗教者の入国を拒否した藩であるが、その田辺藩にあってさえ、領民の新興民衆宗教への受容熱我根強かったことは驚くほどである。以上のように、裁判記録は民衆史の史料として大いに役立つことがあきらかである。The Kurozumikyo was a Shinto-oriented religious sect, founded by Kurozumi Munetada in Okayama. He went through on a mysterious experience, in which all his life was united with Amaterasu-omikami as God of the Sun. So he preached that God and human-being are one, and that Amaterasu-omikami is the root of creation all, and all human-being are chldren of God equally, and can enjoy happiness of this world. After his death he was receipt dignity of God by Yoshida shrine in Kyoto. The Kurozumikyo were expanding out round of Okayama, reached into Tango-Tanabe clan. I look at the mission of the Kurozumikyo in Tango-Tanabe clan through some legal records of the clan governmental office.
著者
趙 義成
出版者
同志社大学
雑誌
社会科学 (ISSN:04196759)
巻号頁・発行日
vol.102, pp.113-125, 2014-05

本稿の目的は,朝鮮民主主義人民共和国(以下「共和国」)の朝鮮語学において,旧ソ連言語学のいかなる影響があったのかについて,とりわけ政治・思想的な側面と文法論的な側面に関して考察することである。第2次世界大戦以前のソ連言語学界ではN.Ja.マールの理論すなわちマール主義が「マルクス主義言語学」として,絶対的な地位にあった。共和国の言語学界がソ連の言語学を受容することは衛星国としての公的な方針であり,金寿卿が紹介した論文はほとんどがマール主義に関連づけられたものであった。しかし,共和国の朝鮮語研究それ自体はいたって常識的な言語学に基づいた研究活動であり,マール主義は共和国に根ざすことがなかったと推測される。1949年刊行の『朝鮮語文法』(以下『49年文法』)は,音声学と音韻論を区分せずに音論として扱う点,造語論を形態論の中で扱う点,統辞論で単語結合を扱う点などは,当時のソ連言語学と軌を一にしている。『49年文法』は,従来の文法論で同義の用語だった「助詞」と「ト([ト])」を別個のものとして扱っていた。朝鮮語の格を表示する要素を「助詞」という単語と見ずに「ト」という形態形成の形態素と見たのは,ロシア語文法における名詞の格の捉え方を参考にしたものと考えられる。一方,「助詞」は,ロシア語文法における「小詞」の概念と関連づけ得る。また,『49年文法』では,旧ソ連言語学における単語結合が「語詞結合」という用語で扱われているが,この時点では文法理論をまだ十分に吸収することが困難だったと考えられる。スターリンによるマール批判(1950年)とマール主義を否定したソ連言語学は,朝鮮戦争休戦までには共和国にもたらされていたと見られる。1958年,共和国言語学界の主導的立場にあった金枓奉批判する論文が掲載され,6字母などの金枓奉の業績はことごとく否定され,金寿卿も公式に批判を受けた。金枓奉の失脚が政治的な動機によるものであった一方で,金寿卿は「追従者」と受動的な立場に位置付けられていることから,金寿卿に対する批判はあらかじめ「逃げ道」の用意されていたもののようにも思われる。金寿卿が執筆に関わった1960年刊行の『朝鮮語文法1』(以下『60年文法』第1巻)と,1963年刊行の『朝鮮語文法2』(以下『60年文法』第2巻)には,1952年と1954年に刊行されたアカデミー版『ロシア語文法』(以下『ソ連60年文法』)が大きな影響を与えたと推測される。セクションを区切る書式,「序論」と称して形態論の諸問題を広く検討する手法,音論において国際音声記号を用いず固有文字で発音を表記する手法などは,『ソ連60年文法』の手法をそのまま踏襲している。『49年文法』から『60年文法』第1巻への大きな変更点は,すべての「助詞」を認めなくなった点である。文法形態素として語根に膠着する要素をことごとく「ト」とするこのような見解は,その後の共和国のあらゆる文法論に原則的に引き継がれていく。『60年文法』第1巻では,ソ連言語学と同様の単語結合の概念を認めているが,3年後に刊行された『60年文法』第2巻では,「諸単語の文法的連結」というより広い概念を設定し,その下位範疇として「結合」,「接続」の2つを設定した。ソ連言語学の「単語結合」だけでは処理しきれない問題があったためであると見られる。1960年代までの共和国の言語学界が学問的に健全に活動を行ってくることができたのは,金寿卿をはじめとする研究者の真摯な学問的姿勢に拠るところが大きいといえよう。
著者
森 涼子 モリ リョウコ Mori Ryoko
出版者
同志社大学人文科学研究所
雑誌
社会科学 (ISSN:04196759)
巻号頁・発行日
vol.44, no.1, pp.57-66, 2014-05-30

書評(Book Review)2012年出版の邦訳書『自然と権力』の書評である。内容紹介にとどまらず、本書の議論が、現在ドイツにおける自然・環境保護の歴史学研究においてどのような意味をもつのかを考察している。とくにラトゥカウの「現代環境意識」論に焦点をあて、この意識の特性、その新しさと限界とに検討を加えている。さらに2000年初版後に修正・加筆された部分が邦訳されていることの意義を高く評価している。Diese Rezension geht nach einer kurzen Zusammenfassung des Buches der Frage nach, welche Bedeutung Radkaus historische Sichtweise auf die natürlichen Ressourcen und die von ihr herausgezogenen Argumente für die Historiographie über Natur- und Umweltschutz in Deutschland haben. Die Rezensentin konzentriert sich auf die Darstellungen der Gegenwart und erörtert, wie das von Radkau vorgestellte „moderne Umweltbewusstsein" zu charakterisieren ist und inwieweit diese Gesinnung für „global" bzw. für „deutsch" gehalten werden kann.
著者
中山 俊
出版者
同志社大学
雑誌
社会科学 (ISSN:04196759)
巻号頁・発行日
vol.101, pp.83-108, 2014-02

1887年3月30日,フランスにおいて建造物と美術品の保護にかんする法律が初めて成立した。歴史的,美術的見地から「国民の利益」を有する不動産と動産,いわば歴史的記念物を指定することで,中央政府の許可のない修復工事,譲渡等を抑止することが立法の目的であった。以後,地方の学術団体は,指定するに値する文化遺産を推薦するよう求められた。トゥールーズでは,郷土史家団体のフランス南部考古学協会(SAMF)がそれに対応した。彼らは芸術の町としての過去の栄光を誇り地元の作品を保護するため,トゥールーズ独自の建造物,美術品をも指定しようとした。しかし,とくに動産にかんしては,指定に対する所有者の消極的な態度によりSAMFは情報を十分に収集することができなかった。「国民の利益」にこだわる政府と地方の連携もまた容易ではなかった。それでも,指定された建造物,美術品はSAMFが推薦したものであった。1887年法に基づいて行われた指定事業は,文化遺産を「大きな祖国」の国民芸術として保護するためのものでは必ずしもなかった。郷土史家は指定を通じて,「小さな祖国」に特有の文化遺産の保護に貢献したのである。
著者
居安 正
出版者
同志社大学
雑誌
社会科学 (ISSN:04196759)
巻号頁・発行日
vol.56, pp.219-254, 1996-01

論説
著者
北村 陽子
出版者
同志社大学
雑誌
社会科学 (ISSN:04196759)
巻号頁・発行日
vol.87, pp.55-75, 2010-05

第二次世界大戦後のドイツにおける戦争障害者をめぐる状況を確認することは,大変困難な作業となる。なぜなら,第二次世界大戦直後のドイツは,四つの国によって分割統治されており,それぞれの占領地区では戦争障害者を含む戦争によって損害を被った犠牲者への対応が全く違っていたことに加えて,こうした違いに起因して,1949年に成立した二つのドイツ国家の政策が異なっていたためである。これらの方針の違いを理解するには,それ以前の,戦間期における戦争犠牲者(おもに第一次世界大戦の戦争障害者・戦没兵士遺族)をめぐる援護政策や彼らの置かれた境遇をふまえた上で精査し評価することが必要である。本稿では,第二次世界大戦後の戦争障害者をめぐる状況を理解するための準備作業として,戦間期の戦争障害者の社会的な位置を描き出すことを課題とし,先行研究の成果を整理することとする。その際には,戦争障害者援護を規定する法令,戦争障害者の意見を代弁する組織,戦争障害者の自己意識と他者からの認識という三つの分野に限定して行なう。
著者
柴田 広志
出版者
同志社大学
雑誌
社会科学 (ISSN:04196759)
巻号頁・発行日
vol.104, pp.93-114, 2014-11

セレウコス朝の第6代国王アンティオコス3世(位:前223〜187年)は,その治世初期に多くの内憂と外患への対処を迫られた。そのひとつが,小アジアで反旗を翻した王族小アカイオス(以下アカイオス)の反乱である。この有力王族は,アンティオコス3世の兄セレウコス3世の暗殺時の混乱収拾後に王に推戴されたが辞退,後に反乱を起こした際には麾下の軍の反対によって頓挫した。同時代に類例をほとんど見ないこの事例から,以下の事実が指摘できる。まず,王族による王国統治の分担という,セレウコス朝の支配体制が抱えていた問題である。このため,傍系の王族であっても,王家直系の男子の経験や年齢が不足とみられた時,他の王族が推戴される,あるいは反乱を起こす可能性があったのである。推戴直後にアカイオスが王位を辞退したのは決して忠誠心のあらわれではなく,王家直系のアンティオコス3世に取って代わる意志を当初から有し続けたものと思われる。後の王位宣言は,その現れである。これに対して,王位を継いだアンティオコス3世の軍事能力,とりわけ北方の蛮族に対する軍事的功績は,アカイオスが獲得し得なかったものであり,若い王の権威確立を可能にするものだった。アカイオスとアンティオコス3世の決定的な差は,セレウコス朝王家内における直系・傍系の差のみならず,バルバロイすなわち蛮族とされた集団に対する戦果の有無にあったことを推測し得るのである。
著者
黒川 伊織
出版者
同志社大学
雑誌
社会科学 (ISSN:04196759)
巻号頁・発行日
vol.89, pp.133-158, 2010-11

「第一次共産党」とは,1992年7月に創立され,1924年春に解党したとされる日本共産党を指す呼称として使用されている。しかしながら,この呼称の含意は,この呼称が成立する歴史的な経緯とあわせて,いまだ十分に検討されていないままである。 そこで本稿では,徳田球一の予審訊問(1930年)に端を発する「第一次共産党」という「記憶」が流布してゆく過程を,日本共産党公判闘争(1931年-1932年)に即して跡づけたうえで,敗戦後はじめて合法化された日本共産党が,「第一次共産党」以来の連続性を誇示するべく行った「党創立記念日」確定の過程と,これに連動した「党史」成立の過程を,「記憶」の再構築という視点から整理する。そして,日本共産党第6回全国協議会(1955年)を契機とした党内言論の開放空間の成立と,そこにおいてわきあがった「党史」再検討の動きが開放空間の閉塞化によって途絶する経緯を,「記憶」の神話化という視点から整理する。そのうえで,学問的な「第一次共産党」史という研究領域の成立過程を,党内における「記憶」の神話化が進められる過程との連動に注目しつつ跡づけ,この両者の関係がのちの「第一次共産党」史研究に決定的影響をおよぼしたことを明らかにする。
著者
岡本 真希子
出版者
同志社大学
雑誌
社会科学 (ISSN:04196759)
巻号頁・発行日
vol.89, pp.95-131, 2010-11

本稿では,日本の植民地統治下におかれた台湾在住者の政治参加要求をめぐる,植民地社会および本国における相剋の過程を検討する。対象は,1914〜1915年の間に台湾人の権利獲得を目的とした「台湾同化会」成立から壊滅までで,台湾人・内地人双方の動向を視野に入れ,とりわけ在台湾内地人(総督府および民間内地人)の動向を明らかにしながら,政治参加と民族問題,植民地統治体制の相関関係について考察する。