著者
吉水 清孝
出版者
日本印度学仏教学会
雑誌
印度學佛教學研究 (ISSN:18840051)
巻号頁・発行日
vol.62, no.3, pp.1124-1132, 2014-03-25

Mimamsasutra 2.1.14への註釈においてシャバラは,Jyotistoma祭でYajurveda(YV)祭官がソーマ液を捧げる神格が,その前にstotra (Samaveda (SV)の詠唱)とsastra(Rgveda (RV)の朗誦)で称えられる神格と異なる場合があると言い,stotra歌詞の実例としてRV 7.32.22冒頭を引用する.これは朝昼夕のソーマ祭のうち昼の第2回セッションに関し,YV文献がいずれも神格としてMahendraを指定しているのに,その際のstotraとsastraで用いるRV詩節ではIndraが「偉大な」(mahat)の形容なしに呼格で称えられていることに基づいている.シャバラは,MahendraがIndraとは別の神格であることを証明するために,Mahendraに捧げるソーマ一掬を表すmahendraは形容詞mahatと神格名indraと接辞aNより成ると分析できない,そう分析すると一語としての統一がとれなくなるから,と論ずる.しかしクマーリラは,もしそうであるならagnisomiyaもAgniとSomaを神格とする祭式と見なせないことになるし,パタンジャリも複合語の主要支分は外部の語を期待しつつ従属支分と複合すると認めていることを挙げて,シャバラの証明は成り立たないと批判する.そして,語の内部構造分析に終始する文法学の方法に代えて,ミーマーンサー独自の,語が文脈において果たす役割の分析を提起する.まず文は既知主題の提示部(uddesa)と,その主題に関する未知情報の陳述部(upadeya/vidheya)とに分析できるとした上で,仮に当該のYV規定文において,予め祭式に組み込まれていたIndraが主題であったなら,この規定文は既知のIndraに対し何を為すべきかという問いに,ソーマを献供すべしと答えることになる.この場合にはIndraが形容されていても,その形容は意図されたものではない.しかし実際にはこの規定文はsukra杯に汲んだソーマを主題として,それをどの神格に捧げるべきかという問いに答えており,mahatによる形容は,ここで規定されるべき神格の同定に必要不可欠であるから意図されたもの(vivaksita)である.従ってmahendraにおいて「偉大性」はIndraから切り離せないから,Mahendraは形容なしのIndraとは別神格であると結論を導く.クマーリラはこの論証において,日常の命令文においても,同じ語であっても文脈の中で意図されている場合と意図されていない場合があるという語用論的考察を行っている.

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