著者
吉水 清孝
出版者
日本印度学仏教学会
雑誌
印度學佛教學研究 (ISSN:18840051)
巻号頁・発行日
vol.60, no.2, pp.867-860, 2012-03-20
著者
吉水 清孝
出版者
Japanese Association of Indian and Buddhist Studies
雑誌
印度學佛教學研究 (ISSN:00194344)
巻号頁・発行日
vol.61, no.3, pp.1085-1092, 2013-03-25 (Released:2017-09-01)

知行併合(jnanakarmasamuccaya)論とは,輪廻を脱して解脱するためには,梵我一如の知のみならず,ヴェーダが定める祭式をはじめとする行が必要であるとするヴェーダーンタの立場であるが,『マヌ法典』の註釈家のうち,8世紀頃のBharuciと,9世紀のMedhatithiも,林住期と遊行期の生活規範を定めた第6章の註釈の中で,知行併合を唱えている.Medhatithiは,祭式が特定の果報をもたらすのとは別に,解脱の達成にも資することを立証しようとして,Satapathabrahmana 10.2.6.13を引用し,また「結合の別異性」(samyogaprthaktva)という解釈定理がこれには適用可能であり,祭主が自他の区別にこだわっているか自他を平等に見ることができるかに応じて,同じ祭式が有限な果報をもたらしもするし,ブラフマンとの合一に導くとも言えるとした.しかしMedhatithiによれば,祭式が解脱の達成に資する真の理由は,それがヴェーダ学習と子供の養育とともに,Taittiriyasamhita 6.3.10.5に説かれた「生得的負債」(rna)の返済手段となるからである.ヴェーダ学習により共同体の過去を継承し,祭式により共同体の現在の絆を強め,子供の養育により共同体の未来を確保することが人の果たすべき義務である.Medhatithiは,主人の横暴さに嫌気がさして奉公を辞めたがっている召使の姿を思い描いて人生を瞑想するよう勧める.ただし召使はけなげにも先に主人から得ていた幾ばくかのお金の分を働いて返そうと決意すると言い,家長としての義務遂行の必要性を強調している.さらにMedhatithiは,「瞑想に熟達した遊行者は,自分の善業を好ましい者たちに,悪業を好ましくない者たちに転移する」と述べる第79詩節を,「好ましい経験を得たことを自分の善業のせいに,好ましからざる経験を被ったことを自分の悪業のせいに帰すべきこと」を述べると読み替えて,修行の一環としての忍耐の重要さを説くものとした.しかしこのような解釈は,A. Wezlerが論じているように,後代の『マヌ法典』註釈家Kullukaによって,規範を恣意的に解釈していると批判された.Medhatithiによるこの解釈は彼の独創ではなく,Bharuciを継承している.また知行併合論者を自任するヴェーダーンタ学派のBhaskaraは第79詩節本来の趣旨を擁護して,RgvedaとMahabharataから,行為の結果を他人が被ることを認める詩節を引用する.知行併合論は世俗社会での義務を重視する思想家に広く受け入れられていたが,因果応報を厳密に自業自得で捉えるかどうかは見解が分かれていた.
著者
吉水 清孝
出版者
日本印度学仏教学会
雑誌
印度學佛教學研究 (ISSN:00194344)
巻号頁・発行日
vol.55, no.2, pp.820-814,1265, 2007

On the fourth section of the <i>Mimamsasutra</i> 3.4, Kumarila gives an extensive commentary whereby he criticizes the view that a finite verb denotes an agent. The original theme of this section, however, is to determine whether the Vedic injunction &ldquo;One should not tell an untruth&rdquo; (<i>nanrtam vadet</i>) embedded in the chapter of the new and full moon sacrifices prescribes a mode of performing a sacrifice or enjoins one to follow one's duty as a human being. The present paper elucidates how the linguistic discussion started by Sabara and developed by Kumarila with regard to a finite verb is related to the original theme of this section. Sabara and Kumarila have recourse to a grammatical maxim &ldquo;A base (<i>prakrti</i>) and a suffix (<i>pratyaya</i>) express the meaning of the suffix together.&rdquo; Pata&ntilde;jali quotes this maxim once with a modification of its meaning, and Paniniyas do not recognize the general validity of this maxim by confining its application to the rules of suffixes. Following <i>Astadhyayi</i> 3.4.69 and this maxim, however, the opponent of Kumarila asserts that the personal ending of &ldquo;<i>vadet</i>&rdquo; indicates an agent as the main element of the meaning of this verb. Kumarila, in retort, emphasizes that the agent of a Vedic sacrifice is an agent of the thinking prior to an action (<i>buddhipurvakarin</i>), who thinks what kind of result is expected to follow the action (<i>phalasankalpana</i>). If, by its personal suffix, the verb &ldquo;<i>vadet</i>&rdquo; denotes an agent to which the act of telling becomes subsidiary, one is inclined to keep away from telling an untruth in order to purify oneself and take the injunction out of context (<i>prakarana</i>) because one does not expect the injunction to have any indirect efficacy that may result from the contribution to the sacrifice. As a result of this self-centered interpretation, however, most injunctions would be prevented from their integration into the text. If, on the other hand, one convincingly refutes the theory that a finite verb denotes an agent, it becomes possible for the verb with a personal ending to denote <i>bhavana</i>, the general form of intentional actions, which requires the purpose (<i>sadhya</i>) and the requisites (<i>itikartavyata</i>) of the action. Both requirements are fulfilled by relevant injunctions within the context of the Veda. By criticizing the opponent's view, Kumarila intends to integrate Vedic injunctions in order to construct a unitary system of the sacrifice.
著者
細田 典明 藤井 教公 吉水 清孝
出版者
北海道大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2004

インド哲学・仏教思想においてヨーガ・禅定の修習は重要な修行法であるが、その起源は必ずしも明確になっているとはいえない。本研究では最も成立の古い『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』第1・2章を解読し、その内容が、古ウパニシャッドにおける内観によるアートマンの認識を瞑想の問題として捉え得るものであり、他のウパニシャッドにも影響していることを明らかにし、研究発表を行った。仏教において四禅・四無色定と八解脱・八勝処、四念処をはじめとする三十七菩提分法、止観など様々な修行法が知られるが、それらはどのようにして体系化されたのかという問題について、阿含・ニカーヤの中で『雑阿含』「道品」を中心に考察し、三十七菩提分法による修行の体系化とともに、三学(戒・定・慧)の構成は禅定の意義が、修道の要であることを、律蔵文献や仏伝などを広く参照して解明し、研究発表を行った。本研究によって、従来不明であった『雑阿含』の禅定に関する漢訳語彙のサンスクリット原語やチベット訳語の多くが判明し、原始仏教研究の資料論に貢献した。以上、本研究は、古代インドにおける瞑想・禅定の問題点の解明に寄与したが、研究成果報告書の論文篇として、「『雑阿含』道品と『根本説一切有部毘奈耶薬事』」と、研究期間以前に公刊されたが、『雑阿含』「道品」の持つ様々な問題点を整理した「『雑阿含経』道品の考察 -失われた『雑阿含経』第25巻所収「正断相応」を中心に-」を参考として掲載する。さらに、資料篇として、『雑阿含』「道品」について、『瑜伽論』「摂事分」のチベット訳を入力し、玄奘訳と対照したものを提示し、今後の阿含研究の資料に供するとともに、データベースとして公開する準備を進めている。
著者
吉水 清孝
出版者
日本印度学仏教学会
雑誌
印度學佛教學研究 (ISSN:18840051)
巻号頁・発行日
vol.62, no.3, pp.1124-1132, 2014-03-25

Mimamsasutra 2.1.14への註釈においてシャバラは,Jyotistoma祭でYajurveda(YV)祭官がソーマ液を捧げる神格が,その前にstotra (Samaveda (SV)の詠唱)とsastra(Rgveda (RV)の朗誦)で称えられる神格と異なる場合があると言い,stotra歌詞の実例としてRV 7.32.22冒頭を引用する.これは朝昼夕のソーマ祭のうち昼の第2回セッションに関し,YV文献がいずれも神格としてMahendraを指定しているのに,その際のstotraとsastraで用いるRV詩節ではIndraが「偉大な」(mahat)の形容なしに呼格で称えられていることに基づいている.シャバラは,MahendraがIndraとは別の神格であることを証明するために,Mahendraに捧げるソーマ一掬を表すmahendraは形容詞mahatと神格名indraと接辞aNより成ると分析できない,そう分析すると一語としての統一がとれなくなるから,と論ずる.しかしクマーリラは,もしそうであるならagnisomiyaもAgniとSomaを神格とする祭式と見なせないことになるし,パタンジャリも複合語の主要支分は外部の語を期待しつつ従属支分と複合すると認めていることを挙げて,シャバラの証明は成り立たないと批判する.そして,語の内部構造分析に終始する文法学の方法に代えて,ミーマーンサー独自の,語が文脈において果たす役割の分析を提起する.まず文は既知主題の提示部(uddesa)と,その主題に関する未知情報の陳述部(upadeya/vidheya)とに分析できるとした上で,仮に当該のYV規定文において,予め祭式に組み込まれていたIndraが主題であったなら,この規定文は既知のIndraに対し何を為すべきかという問いに,ソーマを献供すべしと答えることになる.この場合にはIndraが形容されていても,その形容は意図されたものではない.しかし実際にはこの規定文はsukra杯に汲んだソーマを主題として,それをどの神格に捧げるべきかという問いに答えており,mahatによる形容は,ここで規定されるべき神格の同定に必要不可欠であるから意図されたもの(vivaksita)である.従ってmahendraにおいて「偉大性」はIndraから切り離せないから,Mahendraは形容なしのIndraとは別神格であると結論を導く.クマーリラはこの論証において,日常の命令文においても,同じ語であっても文脈の中で意図されている場合と意図されていない場合があるという語用論的考察を行っている.
著者
吉水 清孝
出版者
東北大学文学会
雑誌
文化 (ISSN:03854841)
巻号頁・発行日
vol.75, no.3, pp.109-114, 2012
著者
吉水 清孝 藤井 教公 細田 典明 沼田 一郎
出版者
北海道大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2002

本研究において研究代表者は,研究分担者の協力の下に,『ミーマーンサー・スートラ』第2巻および第3巻の構成分析を行い,それを基にして以下の4点にわたる研究成果を発表した。1.ヴェーダ祭式の主要規定文(教令)は祭式開始に向けた命令を規定文動詞の語尾により発し,その命令が,他の個々の儀礼規定文に遷移する。この遷移によってヴェーダのテキスト内の階層的構造が成立する。2.「定期祭は昇天のための手段である」という見解と「定期祭は果たすべき義務である」という見解とは両立する。なぜならばこの規定文は「天界を望む者は祭式すべし」という教令(B)とは独立の教令だからである。この独立性は,テキスト解釈における簡潔性を重んずる解釈法によって証明される。AはBに従属し,Bで命ぜられた祭式の開催期間の規定であると仮定すると,Aの動詞は祭式挙行を命ずるのみならず,生涯に渡り挙行を反復することをも間接的に命じていることになり,動詞の果たす機能を複雑にしてしまうからである。3.クマーリラは,個人の意識における祭式遂行の側面とテキスト解釈の側面を区別している。彼は,場所・時間・機会・果報・浄化対象という5種の,個人により祭式挙行のうちに「統合し得ないもの」(anupadeya)を挙げ,規定文は原則として,これら統合し得ないもののうちの一つを前提(ud-dis)して,祭式のうちに「統合すべきもの」(upadeya)を規定する(vi-dha),と主張した。4.二つの祭式構成要素間の階層をテキスト解釈により確定することが「配属」(viniyoga)と呼ばれ,祭式の会場で実際に観察される「助力」(upakara)と対比される。事実関係に着目する「助力」の理論は,祭式の意義の相対化に繋がる恐れがあるとみなされ,「祭式の効力は人が来世でどこに生まれるかを決定できない」と主張した初期の解釈学者バーダリに帰せられた。