著者
菊地 良夫 KIKUCHI Yoshio
出版者
岩手大学人文社会科学部
雑誌
思想と文化
巻号頁・発行日
pp.385-401, 1986-02-05

ボーヴォワールSimone de Beauvoirのテーマとなるのは自由とか他者であり,この観念的テーマの分析には,実存主義の視点から検討されるのが一般的である。『招かれた女』L'invitee のテーマもまたそのタイトルの示すように「招待されたよその人,つまり他人」1)であることは明白であり,その上,題辞として使われたヘーゲル Hegel の「おのおのの意識は他者の死を求める」Chaque conscience poursuit la mort de l'autreという引用文が,この作品への接近法をますます実存主義哲学の視点へと向わせている。ところで本稿で注目したことは,鏡あるいは鏡像の使用が単なるエクリチュールの装飾にとどまっているのであろうか,という点である。ボーヴォワールが用いた鏡や鏡像の手法がどんな役割を果しているのかを追跡するのが本稿の目的である。スタンダール Stendhal の「小説,それは往来に沿って持ち歩かれる鏡である」 Un roman:C'est un miroir qu'on promene le long du chemin 2)に示されるように,鏡は現実の忠実な反映を示すものであったり,マニエリスムの鏡3)のように現実のゆがめられた反映であったり,その諸相は人間の歴史と共にさまざまな役割を果しつつ変遷している。時代をさかのぼれば,ギリシャ神話のナルシスは典型的な鏡のテーマを示すものである。ボーヴォワールと鏡については,オーデ Jean-Raymond Audet がナルシスムのテーマなどと一緒に鏡のテーマが,作品に見られることを指摘しているが,それは主要テーマではなく,副次的テーマであると言及するにとどめている4)。視線と鏡の役割を指摘したガニュバン5), あるいは,ムーニエ Emmanuel Mounier の援用によって,他者の視線のもつ「衝撃的視線」un regard bouleversant について語るジャカール6)等に見られるものは,ギリシャ神話のメドゥーサの視線が見る者を石化するというイメージに示される主体と客体との間に発生する物化現象についての実存主義的分析である。本稿の目的とするところは,実存的視線-見る-の行為に焦点をあてるのではなく,視線の反映-鏡-の役割についてである。メドゥーサの視線の興味深い点は,その視線それ自体で石化できるのではないこと,つまりメドゥーサを「見る人」がメデューサによって「見られる人」になったとき「メデューサ現象」すなわち石化が完成するところにある。これこそ鏡の本質ではないだろうか。鏡それ自体は無の作用である。鏡像があって,はじめて鏡はその機能を発揮する。そこでは「見る人」は「見られる人」という無限反復が繰返されている。

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