- 著者
-
菊地 良夫
KIKUCHI Yoshio
- 出版者
- 岩手大学人文社会科学部
- 雑誌
- 言語と文化
- 巻号頁・発行日
- pp.213-230, 1993-03-20
「ところで,わたしの意図とは,メヒコ民族やその民族の惨憺たる悲惨な最期について話す(parler)以外のなにものでもないのですから,スペイン人の征服について(…)ことこまかに語る(raconter)べきではなく」(下線筆者)(Récits,p.347)。これはドミニコ会土ドウランDiego Duranの文章である。彼はセビーリァ生まれのスペイン人であったが,すでに「六,七才」(Récits,p.38)の頃からメキシコのテスココで育った。後年,彼の大著『ヌエバ・エスパーニャのインディアス史および大陸付属諸島史』Histoire des Indes de Nouvelle Esagne et des Iles de la Terre ferméeが生まれるのだが,引用文は,コルテスによって征服されるアステカ帝国の歴史を語っている最中に,ふと漏らしたドウラン自身の言葉である。<話す>(parler)と<語る>(raconter)はどちらも人間による情報伝達の行為であり,共通部分が多い。しかし,コンテクストからも分かるように,この発話は実際は作品の中に書かれているものである。<書く>(écrire)行為をしながら,作者ドウランはなぜ読者に対して<語る>のではなく,<話す>という態度を示したのであろうか。本論はこの疑問点を手がかりにして,「語り」における「接続法」的様態(modalité)1)を問題にしようとするものである。