著者
菅野 正
出版者
奈良大学史学会
雑誌
奈良史学 (ISSN:02894874)
巻号頁・発行日
vol.14, pp.76-100, 1996-12

一九〇五年(清国光緒三十一年、乙巳年、明治三十八年)中国は転換の年を迎えた。八月、革命派は、東京において、中国同盟会を結成し、革命運動は新たな段階を迎え、革命は政治日程にのぼってきた。九月、千有飴年継続されてきた科挙が廃止され、官僚体制は変化した。若い知識層は、新しい学問を求めて日本に留学し、その数もこの年八千人にも増加してきた。留学生が革命運動を始めるに及んで、日本政府は清朝政府の要請を入れ、十一月、所謂「清国留学生取締規則」を公布して、その政治活動を取締らんとし、留学生は猛烈に反揆して、陣天華は東京大森海岸に入水自殺して抗議の意を示し、留学生も続々「綴学帰国」して日本批判を始めていた。一方、米国がその労働市場を守るべく、中国人労働者を排除しようとしたことから、初夏より米貨排斥運動が中国各地で組織された。さらに、満州を中心に展開された日露戦争に、日本が勝利して、八月ポーツマス講和会議が開かれ、条約が締結された。満州を清国に還付し、露国が満州において所持していた利権を継承すべく、日清両国間に交渉がもたれ、同年十二月二十二日、北京において、「満州還付に関する条約及び附属協定」が締結された。ところが、この九月のポーツマス条約締結より十二月の日清協定締結に至るまでの十月、十一月に、日本が、満州還付の代償に、福建割譲要求をしたとの風説が伝えられたことから、これに反対して、日本商品排斥・大阪商船排斥・工場、学校採用の日本人技師、教員の解雇を呼びかける民族運動がおこりかけた。これが即ち、「割閲換遼」反対運動である。この割閏換遼をめぐる民族運動については、以前これをとりあげて検討したことがあるが、今、ここでは、前稿より後、知り得たことより、湖南での運動状況、その中心人物禺之護について、および風説の出所由来等の表題に係る関係資料等を紹介してみようとするのが本稿の目的である。

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こんな論文どうですか? 「割閩換遼」要求風説と湖南・禹之謨(菅野 正),1996 https://t.co/ha2ak3qGtQ 一九〇五年(清国光緒三十一年、乙巳年、明治三十八年)中国は転換の年を迎え…
こんな論文どうですか? 「割閩換遼」要求風説と湖南・禹之謨(菅野 正),1996 https://t.co/7A5WJzX5V7 一九〇五年(清国光緒三十一年、乙巳年、明治三十八年)中国は転換の年を迎え…

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