著者
足立 広明
出版者
奈良大学史学会
雑誌
奈良史学 (ISSN:02894874)
巻号頁・発行日
no.30, pp.163-194, 2012

アレクサンドリアにヒュパティアという名の女性がいた。彼女は哲学者テオンの娘であった。彼女は高い教養を修め、とくにプロティノスによって引き出されたプラトンの研究を成功裏に継承し、意欲を持って集まった人々にあらゆる哲学的学芸を開示した。
著者
鎌田 道隆
出版者
奈良大学史学会
雑誌
奈良史学 (ISSN:02894874)
巻号頁・発行日
no.29, pp.11-30, 2011

いくつかの家出の実態を見ながら、江戸時代に多発した家出事件の背後をのぞいて、当代の社会が抱えていた問題を解明するのが本稿の課題である。
著者
佐々木 克
出版者
奈良大学史学会
雑誌
奈良史学 (ISSN:02894874)
巻号頁・発行日
no.28, pp.1-37, 2010
著者
堀内 一徳
出版者
奈良大学史学会
雑誌
奈良史学 (ISSN:02894874)
巻号頁・発行日
vol.7, pp.82-90, 1989-12

トリアー、リヨン、アルルのローマ帝国のガリアの造幣所は五世紀に公の貨幣鋳造を中止し、メロヴィング・フランク王国ではローマ帝国の模造貨が発行されたが、六世紀にはビザンッ皇帝アナスタシウス、ユスティヌス一世、ユスティニアヌス一世、ユスティヌスニ世などの貨幣を模した金貨ソリドゥス(solidus)とその三分の一のトレミシス(tremissis)芭貨が鋳造された。五世紀末からマルセーユで発行された青銅貨はテウデリヒ一世、テオデベルト一世、テウデバルトの諸王によって鋳造が試みられたが、その後絶え、銀貨もクローヴィスの長子テオドリックからアウストラシァのジギベルト一世の時代まで鋳造されたのち発行を停止した。六世紀後半にジギベルト、グントラムによって王名を刻銘した金貨が発行されるとともに、多数の造幣人(moneta-rius)によって金貨が鋳造され、七〇〇年頃にアングロサクソン・フリースランド人のスケアタス(sceattas)貨やデナリウス(denarius)銀貨が流通し始めるまで、造幣人の鋳貨トレミシス貨ないしはトリエンス(triens)貨が主要な通貨として流通した。本稿では、造幣人の貨幣鋳造の盛期である七世紀を中心にトリエンス貨の鋳造とメロヴィング朝アウストラシァの流通経済および租税との関係を古銭学の成果にもとついて検討してみたい。
著者
足立 広明
出版者
奈良大学史学会
雑誌
奈良史学 (ISSN:02894874)
巻号頁・発行日
vol.30号, pp.163-194, 2013-01

アレクサンドリアにヒュパティアという名の女性がいた。彼女は哲学者テオンの娘であった。彼女は高い教養を修め、とくにプロティノスによって引き出されたプラトンの研究を成功裏に継承し、意欲を持って集まった人々にあらゆる哲学的学芸を開示した。
著者
坂東 俊彦
出版者
奈良大学史学会
雑誌
奈良史学 (ISSN:02894874)
巻号頁・発行日
vol.16, pp.59-84, 1998-12

「情報化社会」といわれる今日の情況を反映して、「情報」というものに注目が集まっており、その意義などについて各分野での考察が盛んに行われている。近世史の分野でも従来からの街道、飛脚といった交通史、黄表紙、絵草紙やかわら版といった出版文化史など「情報」を素材とした研究が数多くなされている。また幕末期における「情報」の情況についても、嘉永六年(一八五三)六月のペリーの来航やアヘン戦争などの海外情報をはじめとする政治・社会情報を中心として、和親・開国、穰夷・鎖国の両論の政局、政策的な論議の推移を対象とした研究がなされ、一定の成果を挙げている。それはペリi来航時におけるアメリカ大統領の国書の諸大名から庶民層にまでへの開示・意見聴取をおこなったように、幕府上層部など特定の階層での「情報」の独占、隠匿ということはなくなった。そして「情報」の上から下、横への広がりや情報交換のための人的なネットワークの形成がなされて、各地で一般民衆のレベルでも海外情報をはじめ多種多様な政治・社会情報をかなり自由に入手することのできる「情報化社会」へと幕末の社会構造が変化していったとされる。また一方で宮地正人氏は、ペリーの来航情報に始まったこれら十九世紀後期の、「情報」が民衆の問で蓄積されていく情況を「風説留的社会」の成立とし、幕末期の政治問題を開国、鎖国の政策論議のレベルではなく、急速に形成されつつあった国民的輿論11「公議輿論」と幕府の専制的・家産制的政治支配との構造的矛盾のレベルに存在していたとしており、この「公論」世界の成立が近代社会成立の条件の一つであるとしている。そこで本稿ではこれらの成果を踏まえつつ、中央での政治的発言力、権力を持たなかった山城地域における在地有力者層が、いかにしてペリーの来航などの海外情報やそれ以降の政治・社会情報を入手、分析、理解し、近代「公論」世界の担い手としてその形成に関わりを持っていったかについて、石清水八幡宮社十・河原崎家を例にとり、考察をしようとするものである。
著者
久保 文武
出版者
奈良大学史学会
雑誌
奈良史学 (ISSN:02894874)
巻号頁・発行日
vol.6, pp.29-51, 1988-12

徳川秀忠の息女和子が元和六年(一六二〇)六月十八日、後水尾天皇の女御として入内したが、武家側よりの入内は約四百年前平清盛の女徳子(建礼門院)入内以来のことで、この件が決して円滑にはこばなかったことは周知の事実として、江戸初期の朝幕関係を物語る格好の史料とされている。そして、後水尾天皇の再三にわたる拒絶とも解せられる譲位の意志を醜意させた、最後の詰めの段階での画策、奔走は幕府側では京都所司代板倉勝重と一外様大名の藤堂高虎であった。しかも、事の紛糾後はむしろ高虎の奔走が中心的役割を果したといえる。和子入内に至る経緯については、徳川家の正史ともいえる「徳川実紀」も何らふれず、元和六年五月八日の和子江戸出発より、六月十八日の入内当日の記事のみが華々しく記述されているのみである。和子入内は家康の遠望と秀忠の政略によるものであるが、詰めの段階での紛糾の解決についてはほとんど記述された論稿がない。ことに武家側の史料を根拠にした論稿は全くなかったともいえる。昭和五一年度の京都大学文学部研究紀要16号に、朝尾直弘氏が京大国史研究室蔵の「元和六年案紙」をもとにの発表せられたのが唯一のものといえる。同論稿は元和六年案紙を武家側当事者の有力な根本史料として、公家側の日記類に匹敵する価値ある史料として、史料考証をまじえながら、従来、明らかにされていなかった重要事実を説述している。本稿ではこの朝尾教授の学恩を蒙りつつ、畿内の数ある有力な親藩・譜代の大名を差しおいて、何故、一外様大名の藤堂高虎がこの難しい交渉の任に選ばれたかの疑問を追求してみることにする。
著者
印牧 信明
出版者
奈良大学史学会
雑誌
奈良史学 (ISSN:02894874)
巻号頁・発行日
no.29, pp.31-54, 2011

本稿は、平成二十年十月刊行の福井市立郷土歴史博物館特別展図録『福井藩と江戸』に掲載した、拙稿「福井藩主の参勤交代について」の一部を抜粋し、修正の上で加筆したものである。福井藩の参勤交代の研究は緒に就いたばかりであり、本稿では同藩の参勤交代の実施状況など基礎的なデータを提示して分析すると共に、福井藩主松平慶永(春嶽)などの道中記録から、幕末の参勤交代の旅程と旅行中の藩主の行動などを紹介するものである。
著者
横出 洋二
出版者
奈良大学史学会
雑誌
奈良史学 (ISSN:02894874)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.55-92, 1995-12

健康ブームと言われて久しい。最近では健康食品以外の通常食品に栄養素を特別に加味した商品が多く販売されているが、それは現代の日本人の健康に対する関心の高さを反映している。またスポーツをして健康維持をはかる人も最近多い。スポーツジムで老若男女関係なく水泳やエアロビクスなどで汗を流したり、マラソンを日課としたりする人も多い。各地でマラソン大会が開かれるとたくさんの参加者で賑わい、中には一〇〇キロマラソンといった苛酷なものに挑戦する人も少なくない。こうしたスポーツを通じて太り過ぎ、脂肪過多、腰痛、体力増強など健康維持、増強を図るわけだが、しかし最近では健康以上に体型維持を目的とする場合も多い。ジムのロッカールームの鏡の前で若者は日々鍛えられる身体をナルシスティクに眺め、中年は意志に関係なく貯まる脇腹の脂肪をつまむ。そうしたしぐさに、健康嗜好も含めて最近の自己の身体そのものへの関心の高さがうかがえる。以上の傾向はマスコミや企業戦略による過剰な健康・身体維持の情報提供による個人の身体への介入も要因の一つであるが、他に村落協同体や「家」の崩壊による現代社会の中での個人の孤立も自己や自己の身体への関心の高めているのではなかろうか。共同体なり家の中で個人は有機的に絡った存在であり、その身体は所属集団のものでもあり、個別的な一個人に属するものとしての意識は薄かったのではないかと考える。現在は心身を埋没させる共同体的集団はなく学校から家庭の中まで個人は孤立を意識し、さらには個性豊かで独立した人格が称賛され、他者と同じが否定される風潮、またそうした教育が推進される中で自己や他者のまなざしに対し過敏に意識せざるを得なくなっている。
著者
鎌田 道隆
出版者
奈良大学史学会
雑誌
奈良史学 (ISSN:02894874)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.46-63, 1992-12

三代将軍徳川家光に将軍職をゆずりながら、なお大御所として幕府政治の実権をにぎっていた徳川秀忠が、寛永九年(一六三二)一月二十四日没した。この二日後の出来事として、『徳川実紀』は次の記事をかかげている。又此日、目付宮城甚右衛門和甫京坂に御使し、こたび御大喪により、関西の諸大名江戸にまかるべからず、各封地堅固に守り、前令違犯すべからずとの御旨をつたえしめ、女院の御方にも御使をつとめしめらる。前将軍であり、大御所としてなお実際に幕政の最高実力者であった人物の葬儀に際し、その直臣にもあたる関西の諸大名に対して、葬儀への参列無用と在国とが、幕府の命令として発せられたというのである。この場合の関西とは、関西地方という意味ではなく、西日本全体のことと解すべきであろうし、またこの命令が三代将軍家光の名において発せられたものであることも注目しておくべきことではないかと思う。西日本の諸大名は、なぜ江戸に駆けつけ秀忠の大喪に参列することが許されなかったのであろうか。もちろん、この時期西日本の大名のみが在国し領政につとめなければならないような国内・国外の特別な異変も見あたらない。秀忠の葬儀参列にかこつけて、西日本の諸大名が大挙して出府してくれば、江戸においてどんな大事件が企てられるかわかったものではない、という危惧と疑念が将軍家光を擁する江戸の幕閣をとらえたのではないか。西日本の諸大名を充分に統制できていないという認識と、大御所という実力者を失ったところからくる幕政への不安が、西日本諸大名への出府停止令となってあらわれたのではないか。元和九年(一六二三)七月二十七日に三代将軍に就任して以来、家光の将軍在位は秀忠死没の寛永九年正月まで、八力年余にわたる。この八年余におよぶ幕藩制支配が決して将軍家光による単独施政でなかったことを、この事件はものがたっている。将軍が、あるいは将軍を中心とする幕閣が、しっかりと統治できていたのは東日本だけであったといえば言いすぎであろうか。西日本支配をも含めた全国統治という点では、大御所秀忠の力量によりかかっていた八年余だったといえるのではないだろうか。ともかく、寛永年間前半の時期に、東日本と西日本の政治的差違が歴然としていまだ存在していたことと、将軍と大御所とによる協同幕政があったことは確認できよう。しかも、将軍と大御所との協力による幕府政治という形態は、慶長十年(一六〇五)四月十六日の二代秀忠の将軍就任から大御所家康が没する元和二年四月十五日までの期間にもみられた。そして、この慶長年間の後半に行われた将軍と大御所とによる幕府政治を、北島正元氏らは二元政治とよんでいる。ならば、寛永前期の将軍家光と大御所秀忠とによる幕府政治も、二元政治とよぶことができるのではないだろうか。もちろん、この場合にも将軍と大御所という二大権力者の存在形態に依拠した考え方ということになる。しかし、北島正元氏は、単に将軍と大御所との二大権力者の存在をもって二元政治とよんでいるのではない。むしろ、大御所家康と将軍秀忠は対立しているのではなく、一元的な方向にあったと、次のように記している。慶長八(一六〇三)年の江戸開幕は、徳川氏の全国政権としての地位を明確化したが、その政治組織にも当然それに応じた整備が必要であった。同十年に将軍職を秀忠にゆずった家康は同十二年に駿府に退隠したが、実際には「大御所」として幕政を裏面から動かし、将軍秀忠も父の意志に柔順であった。これはこれ以後の公文書にも家康の名で出されたものが多く秀忠の出した公文書はたんにそれを裏づけるにすぎないものが少くないことでもわかる。家康の強力な指導と支援のもとに、秀忠を盟主とする幕府政治が展開されたという認識を北島氏は示されている。ここには幕政が二元であったという論理は、成立しないかのように見える。それでは、何をもって二元政治論が主張されるのであろうか。北島氏や藤野氏の所説によると、問題は慶長十年に将軍職を退いた家康が、本多正純を側近として、「江戸の幕府を小規模にしたような政治機構を駿府につくった」ことにあったという。すなわち、江戸の幕閣と駿府の政府との対立・抗争の経緯を二元政権または二元政治とみているのである。大御所となった家康は、江戸の将軍補佐役として家康腹心の本多正信をこれにあて、正信の子正純を駿府において、本多父子を軸とする統一政治をめざしたが、江戸の幕閣では大久保忠隣・酒井忠世・酒井忠利・土井利勝らの譜代勢力が成長して本多正信はしだいに疎外され孤立するようになった。こうした譜代大名による江戸政権の形成に対して、駿府政権の構成は能力主義的で対照的であった。たとえば、本多正純と若干の譜大名以外に天海・崇伝・林羅山の僧侶や学者、大久保保長安・伊奈忠次らの代官頭、後藤庄三郎・茶屋四郎次郎・亀屋栄仁らの豪商、外国人の三浦按針らといった多彩な顔ぶれがその中枢にあったというものである。藤野保氏は、駿府政権を分類して四つのグループから構成されていたとした。その第一グループは新参譜代・近習出頭人、第ニグループは僧侶と学者、第三グループは豪商と代官頭、第四グループを外国人としている。そして、この駿府政権は、政治の実権をもつ大御所家康の直下ということから、発言力が強く、全国支配に深くかかわったと指摘している。これに対して江戸政権は徳川家臣団の系譜を優先する譜代勢力が結集して、関東地方を中心とする幕府政治を固めていたという。こうした二元的政権のかたちが、両政権に結集する勢力の対立となって激化したが、家康の強大かつ巧妙な統制力は、その矛盾を幕府の危機にまで表面化させることはなかった。しかし、慶長十七年の岡本大八事件ころからかなり顕在化し、大久保長安事件では政争の形をとり、元和二年の大御所家康と本多正信の死を契機として、駿府政権は解体され、二元政治も解消されたという。そして、この駿府政権の解体と江戸政権の強化というかたちでの慶長政治の終結は、譜代勢力を中心とする将軍政治が確立する元和政治への方向を決めたと、藤野保氏は整理している。すなわち、「幕府それ自身の組織の整備」と、「統一権力として諸大名を統治し、かつ幕藩体制を組織する」という二つの課題に応える方策としてとられた二元政治11慶長政治を否定したのが、元和政治であったとしている。慶長期の二元政治についての以上のような理解は、北島正元、藤野保両氏に共通しており、その限りでは幕政初期における二元政治論は元和以降再登場することはないと判断される。ところが、藤野保氏は元和政治ののち、寛永初期政治において「二元政治の再展開」があったことを分析されている。藤野氏の二元政治再展開論をみておこう。藤野氏は、「秀忠は将軍職を譲与したのちも、家康と同じく大御所(西丸居住)として、政治の実権を掌握したため、ここに幕政は再び将軍政治(家光)と「大御所政治」の二元政治の形をとって展開することとなった」として、大御所11西丸派と将軍11本丸派の構成について言及してい㍍胱具体的な大名についてここでは列記しないが・西丸老職が秀忠の側近グループを中心としたのに対し、本丸老職は新旧の譜代層から構成され、このなかから家光側近の新譜代層が台頭していくという整理をされている。経緯から先に追えば、寛永九年正月秀忠の死によって西丸老職は解散して二元政治も解消した。そしてこの二元政治の解消は「慶長政治における二元政治も含めて、初期幕政における特殊政治形態としての二元政治そのものの解消を意味した。このことは幕府の組織の整備に伴う将軍独裁権の確立を意味し、家光の寛永政治はこのような体制の確立の上に展開した」と、その意義について言及している。こうした二元政治論が、初期幕政における幕閣の構成とその派閥抗争の理解に一定の意義づけをできた点においては評価できるが、二元政治という概念そのものや、その二元政治の前提要件という面ではほとんど解明されておらず疑問を禁じえない。むしろ、初期幕政における二元政治論そのものを根本から問いなおす必要さえ覚える。以下、論点を整理しながら、新しい二元政治論を提起してみたい。
著者
中川 貴皓
出版者
奈良大学史学会
雑誌
奈良史学 (ISSN:02894874)
巻号頁・発行日
no.30, pp.58-83, 2012

一般的に松永久秀と言えば、下剋上の申し子であり、戦国時代を象徴するようなイメージでよく語られる。しかし、そのもとになった逸話は、江戸時代に形成されたものであり、久秀の実態とは、かなりかけ離れている。ただ留意したいのは、久秀が当時の武士のあり方とは異なる経歴を持つということだ。彼は先祖伝来の所領・経済的基盤・人的関係を持たず、己の才覚で「大名」にまで登りつめた人物なのである。そのため、出自はわからず、まさしく戦国の世を体現したかのような実力者という従来の評価の一部分は、あながち間違っているとは言えない。
著者
森 紀子
出版者
奈良大学史学会
雑誌
奈良史学 (ISSN:02894874)
巻号頁・発行日
no.2, pp.62-78, 1984-12

万暦四十六年(一六一八)、巡塩御史竜遇奇の奏により提出された塩政綱法は、実際のところ両准塩法疏理道哀世振の提言にかかるものであり、その実行も「丁巳年(万暦四十五年)の塩法をもって疏理の始めとなす」ものであったことはよく知られている。この綱法は、これによって「商専売の制度が確立し、それが清代に継承された」ものとして、すなわち、「商人には永久に塩引占有権が認められ、子々孫々にその権利を継承させることが許された」点をもって、塩法史上に画期的な意味をもつものとされている。しかし、この効果はいわば結果論的なものであり、綱法成立の意図はあくまでも、万暦年間に積滞した塩引を消化することにあったことは、先学も指摘し、何よりも裳世振自身がその議論において詳述しているところである。綱法実施の前年、やはり衰世振の起草にかかる戸部十議の疏が、戸部尚書李汝華によって奏上されている。この戸部十議の提案が、そのまま綱法として成立実施されたわけではないが、目前の塩政上の問題点に詳しく、我々が当時をうかがうよすがとなる。本論ではこれらの議論を参照しつつ、綱法成立前の、とりわけ嘉靖、万暦期における両潅塩政上の問題を整理しようとするものである。
著者
菅野 正
出版者
奈良大学史学会
雑誌
奈良史学 (ISSN:02894874)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.44-77, 1985-12

一九一九(中華民国八、大正八)年の五四運動が、中国近現代史上において、重要な意義を有するものであることについては、殆んど異論がないと思う。その運動は一五年の二十一ケ条要求、世界大戦への中国の参戦・勝利、大戦終結後のヴェルサイユ会議での中国側の要求の拒絶という背景の中で発生したものであるが、より直接的にはその前年の一八年五月に、日中間に締結された日中共同防敵軍事協定に対して、帰国在日留学生を中心とする学生や各界が反対運動を展開したことが一つの基盤をつくったものと思われる。この反対運動については、黄福慶、笠原十九司両(1)氏の研究があるが、軍事協定反対運動の経過をたどり、五四運動の前奏としての意義をみようとするのが小論の目的である。日中軍事協定は、元来日中陸軍共同防敵軍事協定と日中海軍共同防敵軍事協定との総称であるが、以下陸軍協定を中心に考察し、それを単に軍事協定と略称することにする。
著者
辻 克美
出版者
奈良大学史学会
雑誌
奈良史学 (ISSN:02894874)
巻号頁・発行日
no.3, pp.31-43, 1985-12
著者
鎌田 道隆
出版者
奈良大学史学会
雑誌
奈良史学 (ISSN:02894874)
巻号頁・発行日
no.20, pp.41-55, 2002

享和元年(一八〇一)年に生まれ、立身出世して幕末政界で人間味あふれる活躍をした川路聖護は、慶応四年(一八六八)の江戸城開城の日に自殺して果てた。江戸幕府にもっとも忠実な官僚であったといってよい。この川路聖護の事蹟については、四番目の妻さととはじめた夫婦交換日記以来の膨大な日記風近況報告の書簡があって、これによって個人的な喜怒哀楽や政治担当者としての悩みや苦しみも含め、生き生きとした歴史叙述が自らの筆で今日に伝えられている。そして、その多くは『川路聖護文書』全八冊のかたちで公刊されている。川路聖護の伝記としては、川田貞夫氏の『川路聖護』がすぐれている。川田氏は早くから川路聖護に注目され、実に詳細にその事蹟をわかりやすく解説されている。惜しむらくは、その著書が公刊されるよりも早く平成七年に川田氏が亡くなられたことである。奈良奉行川路聖護については川田氏の著書で詳しく論じられており、また『奈良市史』通史三でも若干記述されている。私もかつて「遠国奉行の着任と離任-奈良奉行川路聖護」および「奈良奉行川路聖摸の民政』の二論文で部分的に言及したことがある。本稿では、川路聖護の奈良における事蹟のうち、とくにいわゆる奈良公園の植樹事業について考察しておきたい。この植樹事業についても、『奈良市史』通史三および川田貞夫氏『川路聖護』でもとりあげられているのであるが、単なる事蹟の紹介だけでなく、植樹事業の分析を通して、名官僚川路聖護が奈良において成長したこと、奈良が川路聖護を育てたことに言及しようと思う。
著者
鎌田 道隆
出版者
奈良大学史学会
雑誌
奈良史学 (ISSN:02894874)
巻号頁・発行日
vol.2, pp.21-40, 1984-12

幕藩体制の成立段階に、二つの内乱があったことは、周知のことである。一つは慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原合戦であり、もう一つは慶長十九年(一六一四)および同二十年の大坂の陣である。この二つの内乱については、関ヶ原合戦で事実上の徳川政権が樹立されたが、反徳川勢力がなお残存したため、その盟主とされた大坂城の豊臣秀頼を抹殺したのが大坂の陣であるといった理解が、大方の了解を得ているように見える。すなわち、徳川政権は、関ヶ原合戦で成立し、大坂の陣で確立されたという考え方である。しかし、この「成立」と「確立」の内容については深く検討されたことはなく、大坂の陣で確立という場合、明らかな敵対勢力を軍事的に一掃したという意味がこめられているにすぎないようである。大坂の陣の軍事的結末があまりにも明白であるため、軍事的側面以外については、その経過や意義もほとんど研究されたり言及されたことがない。むしろ、研究者の眼は、軍事的に自明な結果を前提として、そのうえに展開される「武家諸法度」等の制定など元和以降へと向けられているといえよう。一方、慶長期が世相史的に特異な注目される時代だという研究もでてきている。守屋毅氏は、慶長期に出現し一世を風靡する「かぶき」の風潮に着目し、慶長期を「かぶき」の時代と呼びたいと提唱しているほどである。そして、守屋氏は東京国立博物館蔵の「洛中洛外図屏風」(舟木本)をその象徴としてあげているが、氏はこの屏風は、左隻に徳川氏のシンボルニ条城、右隻に豊臣氏のシンボル方広寺大仏殿を対峙させ、この両隻にまたがって対角線状に鴨川の流れを配し、町並みも画面に傾斜して描いており、名所や旧跡のかわりに画面の主人公として登場する群衆の動きも、異様な興奮をただよわせていると評し、この屏風自体を「かぶき」の所産とみている。かぶき者と「かぶき」の世相については、北島正元氏の「かぶき者1その行動と論理」と守屋毅氏『「かぶき」の時代』が注目すべき研究である。かぶき者の評価については、両氏とも単なる愚連隊暴力団とは見ていない。北島氏は、かぶき者こそ下剋上の論理を楯にとって変革主体としての民衆と連携し、幕藩権力の人間的諸権利剥奪に抵抗する役割をになったと評価し、守屋氏はかぶき者の行動論理の深層には戦国乱世への回帰願望があったが、現実には喧嘩三昧に命をかける乱世の仮構のなかで、反時代的であることによって逆説的にもっともよく時代の趨勢を体現した存在であったとみている。本稿のねらいの一つは、先学の研究に導かれながらも、自分なりに慶長期のかぶき者についての歴史的位置づけを試みることであるが、もうひとつは「かぶき」たる世相の背景として、大坂の陣を頂点として伏線的に立ち現われる近世的秩序形成の政治状況を、垣間見ることである。近世封建社会の成立期における第二の内乱として仕組まれた大坂の陣は、決して軍事的意味だけで重要なのではなく、むしろ社会史的・政治史的な側面でこそ実に大きな意味をになっていたのではないか。大坂の陣を中心とする慶長・元和期に焦点を合わせながら、民衆の動向を分析することによって、政治状況の方向を推定してみようと思う。