- 著者
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鎌田 道隆
- 出版者
- 奈良大学史学会
- 雑誌
- 奈良史学 (ISSN:02894874)
- 巻号頁・発行日
- vol.10, pp.46-63, 1992-12
三代将軍徳川家光に将軍職をゆずりながら、なお大御所として幕府政治の実権をにぎっていた徳川秀忠が、寛永九年(一六三二)一月二十四日没した。この二日後の出来事として、『徳川実紀』は次の記事をかかげている。又此日、目付宮城甚右衛門和甫京坂に御使し、こたび御大喪により、関西の諸大名江戸にまかるべからず、各封地堅固に守り、前令違犯すべからずとの御旨をつたえしめ、女院の御方にも御使をつとめしめらる。前将軍であり、大御所としてなお実際に幕政の最高実力者であった人物の葬儀に際し、その直臣にもあたる関西の諸大名に対して、葬儀への参列無用と在国とが、幕府の命令として発せられたというのである。この場合の関西とは、関西地方という意味ではなく、西日本全体のことと解すべきであろうし、またこの命令が三代将軍家光の名において発せられたものであることも注目しておくべきことではないかと思う。西日本の諸大名は、なぜ江戸に駆けつけ秀忠の大喪に参列することが許されなかったのであろうか。もちろん、この時期西日本の大名のみが在国し領政につとめなければならないような国内・国外の特別な異変も見あたらない。秀忠の葬儀参列にかこつけて、西日本の諸大名が大挙して出府してくれば、江戸においてどんな大事件が企てられるかわかったものではない、という危惧と疑念が将軍家光を擁する江戸の幕閣をとらえたのではないか。西日本の諸大名を充分に統制できていないという認識と、大御所という実力者を失ったところからくる幕政への不安が、西日本諸大名への出府停止令となってあらわれたのではないか。元和九年(一六二三)七月二十七日に三代将軍に就任して以来、家光の将軍在位は秀忠死没の寛永九年正月まで、八力年余にわたる。この八年余におよぶ幕藩制支配が決して将軍家光による単独施政でなかったことを、この事件はものがたっている。将軍が、あるいは将軍を中心とする幕閣が、しっかりと統治できていたのは東日本だけであったといえば言いすぎであろうか。西日本支配をも含めた全国統治という点では、大御所秀忠の力量によりかかっていた八年余だったといえるのではないだろうか。ともかく、寛永年間前半の時期に、東日本と西日本の政治的差違が歴然としていまだ存在していたことと、将軍と大御所とによる協同幕政があったことは確認できよう。しかも、将軍と大御所との協力による幕府政治という形態は、慶長十年(一六〇五)四月十六日の二代秀忠の将軍就任から大御所家康が没する元和二年四月十五日までの期間にもみられた。そして、この慶長年間の後半に行われた将軍と大御所とによる幕府政治を、北島正元氏らは二元政治とよんでいる。ならば、寛永前期の将軍家光と大御所秀忠とによる幕府政治も、二元政治とよぶことができるのではないだろうか。もちろん、この場合にも将軍と大御所という二大権力者の存在形態に依拠した考え方ということになる。しかし、北島正元氏は、単に将軍と大御所との二大権力者の存在をもって二元政治とよんでいるのではない。むしろ、大御所家康と将軍秀忠は対立しているのではなく、一元的な方向にあったと、次のように記している。慶長八(一六〇三)年の江戸開幕は、徳川氏の全国政権としての地位を明確化したが、その政治組織にも当然それに応じた整備が必要であった。同十年に将軍職を秀忠にゆずった家康は同十二年に駿府に退隠したが、実際には「大御所」として幕政を裏面から動かし、将軍秀忠も父の意志に柔順であった。これはこれ以後の公文書にも家康の名で出されたものが多く秀忠の出した公文書はたんにそれを裏づけるにすぎないものが少くないことでもわかる。家康の強力な指導と支援のもとに、秀忠を盟主とする幕府政治が展開されたという認識を北島氏は示されている。ここには幕政が二元であったという論理は、成立しないかのように見える。それでは、何をもって二元政治論が主張されるのであろうか。北島氏や藤野氏の所説によると、問題は慶長十年に将軍職を退いた家康が、本多正純を側近として、「江戸の幕府を小規模にしたような政治機構を駿府につくった」ことにあったという。すなわち、江戸の幕閣と駿府の政府との対立・抗争の経緯を二元政権または二元政治とみているのである。大御所となった家康は、江戸の将軍補佐役として家康腹心の本多正信をこれにあて、正信の子正純を駿府において、本多父子を軸とする統一政治をめざしたが、江戸の幕閣では大久保忠隣・酒井忠世・酒井忠利・土井利勝らの譜代勢力が成長して本多正信はしだいに疎外され孤立するようになった。こうした譜代大名による江戸政権の形成に対して、駿府政権の構成は能力主義的で対照的であった。たとえば、本多正純と若干の譜大名以外に天海・崇伝・林羅山の僧侶や学者、大久保保長安・伊奈忠次らの代官頭、後藤庄三郎・茶屋四郎次郎・亀屋栄仁らの豪商、外国人の三浦按針らといった多彩な顔ぶれがその中枢にあったというものである。藤野保氏は、駿府政権を分類して四つのグループから構成されていたとした。その第一グループは新参譜代・近習出頭人、第ニグループは僧侶と学者、第三グループは豪商と代官頭、第四グループを外国人としている。そして、この駿府政権は、政治の実権をもつ大御所家康の直下ということから、発言力が強く、全国支配に深くかかわったと指摘している。これに対して江戸政権は徳川家臣団の系譜を優先する譜代勢力が結集して、関東地方を中心とする幕府政治を固めていたという。こうした二元的政権のかたちが、両政権に結集する勢力の対立となって激化したが、家康の強大かつ巧妙な統制力は、その矛盾を幕府の危機にまで表面化させることはなかった。しかし、慶長十七年の岡本大八事件ころからかなり顕在化し、大久保長安事件では政争の形をとり、元和二年の大御所家康と本多正信の死を契機として、駿府政権は解体され、二元政治も解消されたという。そして、この駿府政権の解体と江戸政権の強化というかたちでの慶長政治の終結は、譜代勢力を中心とする将軍政治が確立する元和政治への方向を決めたと、藤野保氏は整理している。すなわち、「幕府それ自身の組織の整備」と、「統一権力として諸大名を統治し、かつ幕藩体制を組織する」という二つの課題に応える方策としてとられた二元政治11慶長政治を否定したのが、元和政治であったとしている。慶長期の二元政治についての以上のような理解は、北島正元、藤野保両氏に共通しており、その限りでは幕政初期における二元政治論は元和以降再登場することはないと判断される。ところが、藤野保氏は元和政治ののち、寛永初期政治において「二元政治の再展開」があったことを分析されている。藤野氏の二元政治再展開論をみておこう。藤野氏は、「秀忠は将軍職を譲与したのちも、家康と同じく大御所(西丸居住)として、政治の実権を掌握したため、ここに幕政は再び将軍政治(家光)と「大御所政治」の二元政治の形をとって展開することとなった」として、大御所11西丸派と将軍11本丸派の構成について言及してい㍍胱具体的な大名についてここでは列記しないが・西丸老職が秀忠の側近グループを中心としたのに対し、本丸老職は新旧の譜代層から構成され、このなかから家光側近の新譜代層が台頭していくという整理をされている。経緯から先に追えば、寛永九年正月秀忠の死によって西丸老職は解散して二元政治も解消した。そしてこの二元政治の解消は「慶長政治における二元政治も含めて、初期幕政における特殊政治形態としての二元政治そのものの解消を意味した。このことは幕府の組織の整備に伴う将軍独裁権の確立を意味し、家光の寛永政治はこのような体制の確立の上に展開した」と、その意義について言及している。こうした二元政治論が、初期幕政における幕閣の構成とその派閥抗争の理解に一定の意義づけをできた点においては評価できるが、二元政治という概念そのものや、その二元政治の前提要件という面ではほとんど解明されておらず疑問を禁じえない。むしろ、初期幕政における二元政治論そのものを根本から問いなおす必要さえ覚える。以下、論点を整理しながら、新しい二元政治論を提起してみたい。