著者
丸山 幸彦
出版者
奈良大学史学会
雑誌
奈良史学 (ISSN:02894874)
巻号頁・発行日
no.24, pp.79-104, 2006

はじめに-問題の所在天正十三年(一五八五)の蜂須賀氏入部に対する反対運動については、阿波国百姓一揆についての研究の先駆けをなした桑田美信氏がその著『阿波国百姓一揆』で[天正度仁宇・大粟・祖谷山一揆」という項目をたて、つぎのように整理しているのが研究の出発点になっている。①天正十三年八月に那賀(仁宇谷)・名西(大粟山)・美馬(祖谷山)の山間部豪族が反乱を起こした。②藩主家政は仁宇谷と祖谷山に使を派遣したが、いつれも抵抗され殺害された。③後に北(喜多)六郎三郎が祖谷山の土民を説服し、木屋平(美馬郡種野山)の松家長大夫が名西郡上山村(大粟山)の反民を鎮め、山田宗重が仁宇谷を平定した。④ただ、祖谷山のみ抵抗がつづき六年間に及んだが、天正十八年(一五九〇)には平静に帰した。この説が提出されてから八十年近くたつが、この間この説にたいする批判的な検討は管見の限りではなされておらず、定説として定着している。二〇〇〇年代に入り『大日本史料』第十一編之二十が公刊され、天正十三年九月二日「是ヨリ先、蜂須賀家政、阿波二入ル、是日、国内ノ土冠ノ平定二奔走セシ森正則・伊澤頼綱等ノ功ヲ褒ス」の項に関係史料が整理されているので、あらためてこれにもとづき桑田説をみなおしてみたい。この項におさめられた史料は基本的には二つのグループに区分される。第一のグループは仁宇谷・大粟山・種野山での反対運動にかかわる由緒書・系図類である。このうち仁宇谷(現那賀郡鷲敷町・相生町など)にかかわっては「湯浅先祖相伝次第之事」(木頭村湯浅氏蔵)、「仁宇先祖相続次第之事」(仁宇村柏木氏蔵)、などが収められており、「仁宇谷之民不服者」「仁宇谷溢者一党」が蜂須賀氏に抵抗し、それへの鎮圧行動に参加したとしている。また仁宇谷に隣接する大粟山(現名西郡神山町)と種野山(現麻植郡美郷村・美馬郡木屋平村)については、[伊澤文三郎系図」が収められており、天正十三年八月国中の仕置きのために目付として兼松惣左衛門・久代市丘ハ衛・黒部兵蔵が仰付けられ、見分していたところ、仁宇山・大粟山の者が一揆を企て、大粟山で兼松惣左衛門が殺害された、また木屋平も大粟の者と行動をともにしたが、三木村(種野山内の村)などは一揆に同心せず、伊澤らと上山村の粟飯原源左衛門も久代・黒部に加担し一揆を追い払い両人を無事徳島に送り届けたとされている。第二のグループは『蜂須賀家政公阿波国御入国井御家繁昌之事』および『蜂須賀家記』の「瑞雲公」項である。いつれも蜂須賀家由緒書ともいうべきものであるが、仁宇谷.祖谷山の賊が服さなかったので、家政公は梶浦与四郎を仁宇谷に、兼松惣左衛門を祖谷山に遣わしたが、いつれも抵抗する賊のために殺されたので、家政は援軍を送りそれら逆徒を平定したとする。さらにこの第一・第二のグループの後に『大口本史料』は「ナホ阿波祖谷山ノ百姓抗拒シ、家政之ヲ鎮ムルコト、其年次ヲ詳ニセズ、姑ク左二掲グ」として『祖谷山善記』(以下『奮記』と略記する)の関連部分を収める。『善記』は延享元年(一七四四)年に祖谷山政所喜多源治が藩に提出した、中世にさかのぼる喜多家の由緒書であり、『大日本史料』に収められているのは、蜂須賀氏入部直後の動向についての記述、すなわち「私先祖北六郎三郎同安左衛門美馬郡一宇山に罷在、兼而祖谷山案内の儀に御座候へは、悪徒謙罰奉乞請、方便を以、過半降参仕候、…不随族は、或斬捨或搦捕罷出候、…」として蜂須賀氏入部直後、喜多家が蜂須賀氏にしたがわぬ祖谷山豪族を鎮圧し、これが喜多家が祖谷山を専制的に支配する契機なっていることを述べている部分である。『大日本史料」所収史料のあり方をふまえてみると、桑田説の①・②は第ニグループの『蜂須賀家記』の記述をそのままうけいれており、③は『蜂須賀家記』と第一グループの『伊澤文三郎系図』および『善記』を接合させておりそして④は『藷記』に天正十八年十二月北六郎三郎が定使に任命されたとあることをもって祖谷山一揆の終末としている。そしてこの桑田説については、つぎの三点が問題点として浮かびあがってくる。第一点は入部反対運動のなかで重要な位置を占めている祖谷山における動きについて、『奮記』が由緒書として書かれているにもかかわらず、その記述について史料批判をおこなわないままに、その記述に全面的に依拠してしまっている問題である。これは桑田氏以降も同様であり、上記の記述がそのまま事実として使われ続けている。第二点は入部反対運動が長宗我部元親の秀吉への降伏、それにつづく秀吉の四国国分の結果として阿波国に蜂須賀氏の入部がなされたことにたいして起こっていることを見落としている問題である。入部反対運動は阿波一国内の動きとしてのみとらえることはできないのであり、阿波・土佐・讃岐・伊予四国またがる四国山地全域での動きの一環としてとらえる必要がある。第三点は反対運動を近世の百姓一揆の初発としてとらえ、中世からの連続面についての分析がないという問題である。大粟山・種野山・祖谷山・仁宇谷などは平安時代末以来高度な展開をとげてきている中世の山所ら領であるという事実にしめされているように、反対運動は中世を通して独自な山の世界として中世村落が豊かに展開してきている場で起こっている。このような中世的な村を拠点に活動する在地豪族の存在を前提にしなければ、この運動は正当に評価できないはずである。本稿はこの三点から桑田説の見直しをおこなう。その際、第一点について、『善記』における蜂須賀氏入部に反対する天正祖谷山豪族一揆の記述については、史料批判をぬきにしてはそのままでは使えないということをふまえて、本稿では分析対象からは除外し、祖谷山については『善記』以外の史料からみるという方法をとる。

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