- 著者
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中島 淑恵
- 出版者
- 富山大学人文学部
- 雑誌
- 富山大学人文学部紀要 (ISSN:03865975)
- 巻号頁・発行日
- no.57, pp.165-189, 2012
筆者は近年,ルネ・ヴィヴィアン(1877-1909)の作品における日本文化の影響を中心に論考を行なってきたが小論もその一部を成すものである。ルネ・ヴィヴィアンの生きたベル・エポックのヨーロッパ,とりわけパリやロンドンでは,数次の万国博覧会を経て絵画や工芸上のジャポニスムの波はすでに退潮期を迎え,日本趣味はごくありふれたものとなっていたとされているが,それでも日本の文物に対する興味は,様々なかたちで文学作品に投影されており,それはヴィヴィアンにおいても例外ではない。というよりもむしろ,ジャポニスムの影響は,美術や工芸における直接的な影響よりも少し遅れて,より深く広く文学の世界へと浸透して行ったのではないかと思われる。小論は,ヴィヴィアンが,当時恋人であり保護者(パトロンヌ)でもあったエレーヌ・ド・ジュイレン・ド・ニーヴ、エルト男爵夫人(Hélènede Zuylen de Nievelt,1863-1947)と共同の筆名であるポール・リヴェルスダール(Paule Riversdale)として1904年の1月と9月に発表した,中篇小説『二重の存在(L'Être double)』および、掌編小説集『根付(Netsuké)』において言及される日本の3人の女流詩人,すなわち小野小町,清少納言,加賀千代女について,これらの人物についての知識が,ベル・エポックのパリにどのようにもたらされ,それは作品にどのような効果をもたらし,ひいてはリヴェルスダールすなわちルネ・ヴィヴィアンの創作活動にどのような影響を及ぼしているのかということについて論考を試みるものである。