- 著者
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中島 淑恵
- 出版者
- 富山大学人文学部
- 雑誌
- 富山大学人文学部紀要 (ISSN:03865975)
- 巻号頁・発行日
- no.58, pp.183-210, 2013
エレーヌ・ド・ジュイレン・ド・ニーヴェルト(1863-1947,正式の名はHélène Betty Louise Caroline de Zuylen de Nyevelt de Haar)は,父方・母方ともにロスチャイルドの流れをくみ,1887年,24歳でエティエンヌ・ヴァン・ジュイレン・ヴァン・ニーヴェルト男爵のもとに嫁ぎ二児の母となるも,1901年以降ルネ・ヴィヴィアンと急速に親交を深め,社交界ではその豊満な容姿からブリオッシュの異名をとった貴婦人である。ヴィヴィアンとの関係は,慈愛に満ちた母のような愛情を注ぐ保護者であったとも,嫉妬に狂うサディスティックな束縛者であったともいわれているがヴィヴィアンの文筆活動がもっとも旺盛であった時期に寄り添い,その最期を看取った後に,かの女性詩人の墓にネオ・ゴシック様式の濡酒な霊廟を贈ったことでも知られている。ジュイレン自身もまたサッフォの園の住人であり,ヴィヴィアンの他ナタリー・クリフォード=パーネイらとも関係があったとされるが,大きな文学上の影響を相互に及ぼし合った相手としては,やはりヴィヴィアンのみがその文筆活動において重要な役割を果たしたことは明白である。1903年から1904年にかけて,ジュイレンはヴィヴィアンと共同の筆名であるポール・リヴェルスダール(Paule Riversdale)の名で,韻文詩集『愛の方へ』(Versl'amour, Maison des Poètes,1903)と『木魂と反映』(Èchos et reflets,Alphonse Lemerre,1903),中篇小説『二重の存在』(L'Être double,Alphonse Lemerre,1904)と掌篇小説集『根付』(Netsuké,Alphonse Lemerre,1904)を発表している。このうち,いずれも1904年に発表された『二重の存在』と『根付』について,日本の文化が様々なかたちで反映されている事実を筆者はこれまでに指摘してきたが,小論は,その延長線上にあるものと考えられるジュイレン自身の名で発表された作品において,日本なるものがどのような影響を及ぼしているかについて論考を試みるものである。