著者
田畑 真美
出版者
富山大学人文学部
雑誌
富山大学人文学部紀要 (ISSN:03865975)
巻号頁・発行日
no.58, pp.1-22, 2013

本稿の大きなねらいは「国学」という学問について考えることであるが,現代の我々が一様に「国学者」として括る学者達ことに近世の学者達は自身の学問を様々に言い表していた。近世では「和学」(倭学)が主流であったようであるが,この呼称を「国学」の呼称同様忌避する者も多くいた。たとえば矢野玄道や,今回主に取り上げる大国隆正は,『古事記』序の記述に基づき「本学」もしくは「本教学」と呼び,先述の宣長も,「国学」及び「和学」の呼称を「いたくわろきいひざま」(同p.21)と忌避し,「古学」という語を使用している。かれらが「和」や「国」を嫌い「古」や「本」という語を使用する意図はどこにあるのだろうか。それにはおおよそ2つの意向があったといえる。ひとつは,和歌の研究に留まらず,人間(日本人)のよりどころとしての古の道の探究こそが学問であるという認識,もうひとつは,「国」や「和」にまとわりつくニュアンスの思避である。後者は異国を意識した異国に対しての相対的呼称への忌避でありこの感覚は我が国の学問こそが真の学問であるという認識に裏打ちされている。これら2つの意向はしかし結局のところ「道」という人間存在にとっての拠り所の探究が我が国においてなされているもしくはその探究の源が我が国にこそ残されているというふうに考えれば1つに集約していく。この意向をさしあたり自らを「国学」の徒とする者が共有する,と仮定すれば,彼らの使用する「古」や「本」の語は次のような意味を帯びると考えられる。つまりそこに根差すべき基盤,もしくは戻るべきキャノンのありかということである。このことは特に「本」という語において,顕著に現れているように考えられる。そこで本稿では,幕末の国学者大国隆正を取り上げ,その「本学」の位置付けを「本」のニュアンスに即して明らかにすることを目的とする。またそれを通して,隆正自身が「国学者」としての立ち位置をどう定めていたのか何をねらいとして学びをしていたのか,その輪郭を明らかにしたい。そしてそのことを近世から近代に連なる「国学」の立ち位置を探る1つの手がかり,ひいては「国学」という学問そのものを「近代」において考える際の糸口としたい。

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