- 著者
-
河原 典史
Kawahara Norifumi
- 出版者
- 神奈川大学 国際常民文化研究機構
- 雑誌
- 国際常民文化研究叢書1 -漁場利用の比較研究-=International Center for Folk Culture Studies Monographs 1 -Comparative Research on Fishing Ground Use-
- 巻号頁・発行日
- pp.173-184, 2013-03-01
第二次世界大戦以前、カナダ西岸における塩ニシン製造業は、日本人漁業者による独占的な産業として重要であった。本稿は、1920 年頃のカナダ・バンクーバー島西岸におけるニシン漁業の漁場利用を考察したものである。分析にあたって、1919 年に農商務省から発行された『加奈陀太平洋岸鰊・大鮃漁業調査報告』を活用した。この報告書には、解説文とともに様々な実測図が掲載され、漁場利用が理解されやすい。また、有力な塩ニシン製造業者の一つである嘉祥家が所蔵する古写真の読解と、当時のニシン漁に携わった日系二世へのインタビュー調査も実施した。 この漁業に関わる漁船は、ニシン群を漁獲する2 隻の網船のほか、曳船・手船・スカウ(Scow・無動力の平底船)から構成されていた。網船やスカウを曳行する曳船には船長(漁撈長)と機関長のほか、漁場利用に大きく関与する2 人の沖船頭が乗船した。そして、前日に準備された漁具を積んだ2 隻の網船には、25 人ずつが分乗した。つまり、二隻曳巾着網漁業は、55 名程度で操業されていたのである。 曳船に載った沖合船頭の2 名は、海上を見渡せる船首に位置してニシン群を追った。その方法について、昼間には海上に浮上してくるニシンを空中から狙うカモメの動向や、魚群が映る海水の色、さらに海中のニシンが発する気泡にまで気が払われた。それに対し、視覚に頼れない夜間ではニシン群の発する水音が手掛かりとなった。 魚群を発見すると曳船に乗っていた漁業者は手船に乗り移り、網船の位置取りの指示をした。それを受けた2 隻の網船には、役割毎に17 名がそれぞれの漁船に分乗し、魚群を取り囲んだ。そして、推進機関を用いて網締めが開始されると、スカウに移った漁業者は2 人1 組となり、たも網を利用してニシンを掬い入れた。この作業には日本人だけではなく、ユーゴスラビア系移民も関わっていたようである。