著者
志賀 市子 Shiga Ichiko
出版者
神奈川大学 国際常民文化研究機構
雑誌
国際常民文化研究叢書3 -東アジアの民具・物質文化からみた比較文化史-=International Center for Folk Culture Studies Monographs 3 -Comparative Cultural History from the Perspective of East Asian Mingu and Material Culture-
巻号頁・発行日
pp.151-167, 2013-03-01

本稿は2000年代の台湾において一種のブームとなっているQ版神仙のキャラクター商品に注目し、ブームの背景の分析を通して、台湾における信仰文化の商品化と消費をめぐる社会状況についての考察を試みるものである。Q版神仙のQは、英語のcute(キュート、かわいい)の諧音(発音をもじったもの)であり、Q版神仙とは、日本の漫画やアニメのキャラクターに見られるような「かわいい」形象に変身させた神仙キャラクターを指す。近年台湾の寺廟では、より多くの参拝客を呼びよせるために廟内に土産物ショップを設け、Q版神仙の公仔(フィギュア)やその携帯ストラップ、帽子、Tシャツなど、さまざまな商品を販売するところが増えてきている。本稿ではまずQ版神仙ブームがいつ頃から、どのような背景のもとに興ってきたのかを、一つはコンビニエンスストア競争が巻き起こしたブームから、もう一つは台湾政府が推し進める文化創意産業計画との関連から論じた。次に台湾中部の媽祖廟を事例として、Q版媽祖のキャラクター商品がどのように開発され、販売されているのか、その実態を明らかにした。最後に台中県の著名な媽祖廟、大甲鎮欄宮を事例として、近年の進香活動に見る新たな展開や信者層の変化に注目し、Q版神仙商品の売れ行きとの関連性について検討した。また結論部分では、台湾のローカルな文化とグローバルな形象をミックスさせたQ版神仙は、21世紀の台湾における新しい文化創出のひとつであると指摘した。
著者
坂野 徹 Sakano Toru
出版者
神奈川大学 国際常民文化研究機構
雑誌
国際常民文化研究叢書4 -第二次大戦中および占領期の民族学・文化人類学-=International Center for Folk Culture Studies Monographs 4 ―Ethnology and Cultural Anthropology during World War II and the Occupation―
巻号頁・発行日
pp.141-154, 2013-03-01

本稿では、戦前日本における縄文土器をめぐる研究をリードした研究者の一人である甲野勇の戦時中の活動を検討し、太平洋戦争と考古学の関係について考える。 東京帝国大学理学部人類学科選科で学んだ甲野は、1920 年代中盤以降、同窓である山内清男や八幡一郎らと協力しながら、縄文土器の編年に関する詳細な研究を推し進め、彼らはいつしか「編年学派」と呼ばれるようになった。「編年学派」は縄文土器の編年を確立することで、明治期以来、土器を残した「人種」の問題と関わっていた考古学研究を人類学研究から切り離すことを目指したが、一方、彼らの研究は、1910 年代後半に始まる「日本人種論」の新たな動きを前提にしたものでもあった。 甲野は、太平洋戦争期になると、厚生省研究所人口民族部で嘱託として勤務を始めるが(1942 年)、そこで彼が実施したのが、有名な『大和民族を中核とした世界政策の検討』と題する膨大な秘密文書中における考古学的解説の執筆である。そこでは、甲野自身が1935 年に発表した編年研究の成果が再掲されるとともに、かつて禁欲したはずの「日本人種論」についての議論が記されている。ここには、大東亜共栄圏構想下、戦争協力を行った考古学者として知られる後藤守一の影響がうかがえる。 戦後、かつての甲野の同志である山内清男は「縄文研究の父」として高い評価を受け、戦争協力者の代表格である後藤守一も復権を果たし、戦後考古学を率いていくことになる。だが、甲野勇は、戦後考古学の主流から距離を置き、博物館建設への尽力など独自な活動を進めていった。ここには甲野なりの戦争への反省の姿勢がみてとれる。
著者
野村 伸一 Nomura Shinichi
出版者
神奈川大学 国際常民文化研究機構
雑誌
国際常民文化研究叢書7 -アジア祭祀芸能の比較研究-=International Center for Folk Culture Studies Monographs 7 -Comparative Study of Asian Ritual Performing Arts-
巻号頁・発行日
vol.7, pp.19-66, 2014-10-01

祭祀は神を迎える行為である。神には中国でいう天神地祇(天地の神がみ)、人鬼(死者の霊魂)、祖霊などを含める。また朝鮮半島の雑鬼雑神、水中孤魂、妖怪(トッケビ)、日本でいう無縁仏や怨霊、悪霊も広い意味では神(かみ)である。これらの神(かみ)招きに伴う一定の身体行為を祭祀芸能とよぶ。それは狭義には神の振る舞い(神態かみわざ)だが、神(かみ)をよび招く特定の仕種、神歌、呪語の唱えも祭祀芸能である。東アジアではこうした祭祀芸能が多彩に展開されてきた。ところで、これを掬い取り、全体のなかに位置付けるためには基軸が必要である。筆者は先にそれを提示した(『東シナ海祭祀芸能史論序説』、2009年)。だが、批判も代案もなかった。それは何を意味するのか。祭祀芸能には庶民の精神世界が凝縮されているのだが、それを体系的にみようという意向がないということなのである。日本のアジア認識はまだ地域別、個別ということである。本稿ではそれを乗り越えるために新たに次のような基軸を設定した。全六章である。すなわち、「1.暦―神と暮らし」「2.担い手と伝承」「3.祭祀芸能の開始と末尾― 戯神、請神、神送り」「4.仏教、道教と祭祀芸能」「5.祭祀芸能の様態を特徴付ける要素 1)他界観の表現 2)祭場の光景 3)神・霊の表現 4)神のことば、祝願 5)性差 6)諧謔と悲哀 7)舞踊、振り、歌 8)火9)祭具」「6.まとめ―総括と課題」である。 以上のうち1 ~ 4 章はいわば総論、比較のための大枠提示である。一方、5章では個々の祭祀芸能の様態(芸態)を特徴付ける要素を取り上げた。これは各論に当たる。要素は仔細にみていけば限りがないが、ここにあげたものは基軸に準ずるものといえるであろう。6章では、課題として三点、記した。すなわち「1)東方地中海周辺地域と中国内陸部の文化の差異」「2)海、山、野の文化と祭祀芸能」「3)東アジア祭祀芸能の変容」である。1)は伝統的な比較の視点としていうまでもなく重要である。2)は、東方地中海周辺地域の文化を総体的に捉えるための視点である。琉球の御嶽(うたき)も朝鮮半島南部の堂山(ダンサン)も山(山神)、海(海神)とかかわる。つまり、この海域では「海、山、野の文化、とりわけそれらにかかわる祭祀は密接で不可分」なのである。3)では祭祀芸能の変容にとどまらない状況を「断絶した祭祀芸能の諸相」として述べた。都市はこの百年余り、一年中、「祝祭」をつづけるために神霊や無祀孤魂を語らないできた。しかし、その価値観は今、明らかに閉塞している。さいわい今日、東アジアの祭祀芸能はまだ基層のところで生きている。それを多くの人が想起できるようにしたい。基軸の提示はそのために必要である。これは本稿の結論でもある。同時にそれは容易ならざる課題でもある。
著者
小熊 誠 Oguma Makoto
出版者
神奈川大学 国際常民文化研究機構
雑誌
国際常民文化研究叢書3 -東アジアの民具・物質文化からみた比較文化史-=International Center for Folk Culture Studies Monographs 3 -Comparative Cultural History from the Perspective of East Asian Mingu and Material Culture-
巻号頁・発行日
pp.43-61, 2013-03-01

沖縄の亀甲墓は、近世福建の亀甲墓の墓型が導入されて成立したことは従来指摘されてきた。また、そういう経緯があるにもかかわらず、沖縄の亀甲墓は福建の亀甲墓とまったく同じではなく、異なる点があることも指摘されてきた。しかしながら、具体的な墓の構造や意匠などに注目して、両者を比較する研究は多くはなかった。それを本格的に行ったのは、平敷令治であった。その研究を基本として、ウーシ(臼)といわれる琉球・沖縄の亀甲墓の特徴がどのように創造されたのかを再検討する。 まず、琉球家譜に描かれた近世福州における亀甲墓と福州で実地調査した墓調査資料をもとに、福州における亀甲墓の歴史的展開とその特徴を亀甲墓に施された石獅子や仙桃、螺古などの意匠を中心に考察する。次に、近世琉球における亀甲墓について、写真や墓図をもとに、琉球士族、有力村役人層である久米島上江洲家の事例を整理する。さらに近代以降の亀甲墓について、津堅島の事例を検討する。そこから、ウーシがいつから、どの墓につけられるようになり、どのように展開したかを分析する。 福州における亀甲墓の歴史的展開と琉球・沖縄における亀甲墓の歴史的展開を対比することによって、ウーシは福州の意匠の影響ではなく、むしろ琉球第二尚氏王家の王墓である玉陵の円筒の影響があることを類推する。また、福州では中国的な風水や富貴願望の慣習から亀甲墓の意匠が展開したことを示す。 本稿の新しい方法論として、福州における歴史的展開と琉球・沖縄における歴史的展開を対比するという時間軸と空間軸と組み合わせた立体的な比較研究を提示した。そして、福建と琉球・沖縄の亀甲墓は、コンバージェンス(収斂)だとした平敷令治の指摘に対して、本稿では福州の石獅子などの意匠と琉球・沖縄のウーシという意匠の具体的な物質文化の対比によって、その意味とその違いを検討した。
著者
三浦 啓二 Miura Keiji
出版者
神奈川大学 国際常民文化研究機構
雑誌
国際常民文化研究叢書4 -第二次大戦中および占領期の民族学・文化人類学-=International Center for Folk Culture Studies Monographs 4 ―Ethnology and Cultural Anthropology during World War II and the Occupation―
巻号頁・発行日
pp.249-267, 2013-03-01

ルーマニア出身の宗教学者ミルチャ・エリアーデは、小説家や神話学者としても知られているが、ルーマニアやバルカンのフォークロアに関心を持った民俗学者であったことは、故国を除き、よく認識されていないので、エリアーデの民俗学研究の重要性を明らかにしたい。 エリアーデは、フォークロア研究は文化の様式やシンボルの解明に資すると認識したが、その背景には、3 年間のインド滞在経験や両大戦間期のルーマニア人の宗教性とアイデンティティーをめぐる知識人の論争があった。エリアーデのフォークロア研究は、建築をめぐる人柱伝説である「マノーレ親方伝説」のバラッドおよび羊飼いの謀殺と死を結婚に擬する儀礼をめぐる口承叙事詩「ミオリッツァ」の研究に集約される。 「マノーレ親方伝説」研究では、伝説の宗教的神話的意味を究明し、人柱となった妻の「犠牲としての死」と建築現場から飛び降りた親方の「非業の死」を、宇宙創造神話における巨人の創造のための犠牲としての死を反復したものであり、「創造性ある死」であるとの解釈を提示した。また、「ミオリッツァ」研究では、羊飼いの死は、死を前にした諦念を表しているとの伝統的解釈を避け、叙事詩に歌われる「神秘的結婚」は、自分の運命を変えたいとする羊飼いの意思を表しており、強大な周りの民族の侵入の恐怖に晒されたルーマニア人は、羊飼いの運命を自己の運命に重ね合わせていると解釈している。 日本の民俗学、民族学との関係については、呪術的植物である「マンドレーク」の伝説研究と、日本の霊魂観に関心を示した著作『永遠回帰の神話』を取り上げる。 エリアーデは、「マンドレーク伝説」研究で、植物学、民俗学者南方熊楠が、1880 年代に英国の雑誌『ネイチャー』において、欧州のマンドレークに関する民俗が、近東、アラブ世界を通じて中国にまで伝播したことを最初に論証したとその先駆的研究を高く評価した。 『永遠回帰の神話』では、民族学者岡正雄の論文『古日本の文化層』を間接的ではあるが参照し、日本の男性秘密結社、来訪者、新年の儀礼につき論じ、特に「タマ」等の日本人の霊魂観に強い関心を示しているが、岡論文の論拠の一つとなった柳田國男や折口信夫の業績には直接触れておらず、その研究は時代的制約を蒙っていたものと思われる。
著者
皆川 厚一 Minagawa Koichi
出版者
神奈川大学 国際常民文化研究機構
雑誌
国際常民文化研究叢書7 -アジア祭祀芸能の比較研究-=International Center for Folk Culture Studies Monographs 7 -Comparative Study of Asian Ritual Performing Arts-
巻号頁・発行日
vol.7, pp.115-138, 2014-10-01

バリ島は、イスラム教徒が圧倒的多数を占めるインドネシア共和国にあって唯一ヒンドゥ教徒人口の多い島であり、歴史的にもイスラム伝来以前のヒンドゥ=ジャワ文化を継承し、同時に中国文化の影響を含むヒンドゥ以外の文化的事例も多く現存する地域である。 本論文ではそのバリ島の文化的事例のなかから3 例をとりあげる。これらはいずれも現地バリ島社会において「中国から伝わった」という認識が定説化しているものである。 ( 1 )中国銭 中国銭は紀元前後から広く東南アジア地域で流通していたとみられる。インドネシアでは13 世紀以降、東ジャワに興ったマジャパイト朝時代に宋・明との貿易を通じて大量の中国貨幣が流通していった。これらは当初、国際貿易上の通貨として用いられていたわけであるが、バリ島では歴史のある時点からそれが儀礼のアイテムとしてその価値と重要性を増していった。この穴あき中国銭のバリ社会における意味と儀礼的機能を考察する。( 2 )バロン・ランドゥンバロンは観光芸能としても有名であるが、獅子型だけでなく、人間型のものも存在する。それはバロン・ランドゥンと呼ばれバリ社会では祖先のトーテムでと考えられている。 これは夫妻一対の巨大な人形で、その妻のキャラクターが中国由来と信じられている。即ちバリ人は先祖に既に中国人の血が入っていることを認めているわけである。その由来に関する伝説等を検討し、バリ島民の祖先に対する認識の中にある「中国」を探る。( 3 )ガムラン・ゴング・ベリとバリス・チナ バリ島南部のルノン地区には中国起源とされるガムランの一種ゴング・ベリが伝承されている。これは一般的なガムランと異なり、太鼓、シンバルなどの打楽器を中心としたアンサンブルで、儀礼の際にはそれに法螺貝などが加わる。 このガムランによって伴奏される儀礼が、バリス・チナすなわち「中国のバリス」と呼ばれるもので、神懸かりを伴う祭祀芸能である。これを伝承する人々はいわゆる華人・華僑ではなく、何世代もバリに暮らすバリ人でありヒンドゥ教徒である。この音楽と儀礼の由来を調べることでバリ社会の中の中国文化の古層を探る。
著者
中生 勝美 Nakao Katsumi
出版者
神奈川大学 国際常民文化研究機構
雑誌
国際常民文化研究叢書4 -第二次大戦中および占領期の民族学・文化人類学-=International Center for Folk Culture Studies Monographs 4 ―Ethnology and Cultural Anthropology during World War II and the Occupation―
巻号頁・発行日
pp.83-97, 2013-03-01

世界の民族学・人類学は、第一次世界大戦と第二次世界大戦の間、いわゆる「戦間期」に飛躍的な発展をとげた。第一次世界大戦後は、民族紛争やナショナリズムの隆盛で民族問題が関心をもたれ、フィールドワークの対象が世界各地の辺境まで及び、その地誌的情報、民族誌的知識は、単なる学問だけでなく、軍事情報として蓄積された。 そうした観点で人類学者の動きや民族誌の形成過程を見てみると、イギリスとアメリカで戦争と人類学の密接な関係が浮かび上がる。日本でも、戦略展開地域を想定して、その地域に住む民族の調査を推進していた。たとえば、帝国学士院東亜諸民族調査室では、日本周辺の少数民族に関して、それぞれ民族台帳を作成して、戦争のための必要な情報を整理していた。 民族台帳の作成は、対象となった民族の研究者に執筆を依頼していた。該当する民族を専門にする研究者がいない場合は、嘱託を募り現地調査をさせて民族台帳を作成する計画をしていた。この嘱託として採用されたのは石田英一郎であった。石田は、治安維持法で逮捕され、出所した後にウィーンへ留学して1939 年に帰国し、40 年から帝国学士院東亜諸民族調査室の嘱託となった経歴がある。石田は「蒙疆の回民」(現在の内蒙古のムスリム)と「樺太のオロッコ」(現在の民族名称ではウィルタ)の研究を嘱託され、現地調査をしていた。前者の報告書は、1945 年の東京大空襲のときに原稿が焼失してしまい、公刊されなかった。後者は一部が『民族学年報』に発表されただけで、全体は未刊である。 フィールドワークからおよそ無縁な石田英一郎が担当した民族調査が、彼のもっとも忌避すべき軍隊に利用される民族であったことを、当時の時代背景と歴史資料から明らかにして、欧米の人類学と同様に、日本でも民族誌がいかに軍事利用されたかという点を明らかにしたい。
著者
加藤 幸治
出版者
神奈川大学 国際常民文化研究機構
雑誌
国際常民文化研究叢書13 -戦前の渋沢水産史研究室の活動に関する調査研究- =International Center for Folk Culture Studies Monographs 13 -Research on the Activities of Shibusawa Fisheries History Laboratory in the Prewar Period- = International Center for Folk Culture Studies Monographs 13 -Research on the Activities of Shibusawa Fisheries History Laboratory in the Prewar Period-
巻号頁・発行日
vol.13, pp.57-193, 2019-02-25

アチック・ミューゼアムには、「未完の筌研究」として語られる研究がある。残存する筌研究にかんする基礎データの調査は、戦後の日本常民文化研究所に引き継がれ、筌研究会の枠組みで河岡武春らを中心とした追跡調査が行われた。今回の共同研究においては基礎データ類の翻刻作業や整理作業、標本資料の熟覧調査を行った。「未完の筌研究」関連資料には、戦前の調査の資料として、①通信調査による「筌調査資料」、②筌に関する通信調査の発受信簿、③筌の実物の標本資料、③地図化や分類を試みた下図や手紙、調査メモ等がある。今回の調査では、①の通信調査と、③の民具との関係を調査したが、そのふたつには結びつく要素が乏しいことがわかった。渋沢水産史研究室は、海を舞台とした漁撈にのみ焦点をあてていたのではなく、農山村における河川や湖沼での内水面漁撈や氷上漁撈なども対象に含んでいた。筌研究は、民具研究としての内容以上に、田や水路、池などで行われてきた内水面漁撈の調査の一環とも位置付けられる。 筌研究は、郵便を活用した通信調査(アンケート調査)による方言調査とその分析を中心としながら、構造や部位の数の違いによる形態分類と分布の調査、漁撈の対象や場所のバリエーションの把握を中心とした内容であった。通信調査は、アチック・ミューゼアムの特徴ある調査法のひとつであり、水産史研究の「鯨肉食通信調査」「鵜飼調査」にも適用された。筌の通信調査は、これに「民具蒐集調査要目」や「喜界島生活誌調査要目」のような項目立てによる比較研究のための「筌調査要目」を立てたうえで行われた。 本稿では、「未完の筌研究」で残された資料の整理作業から見えてきた、アチック・ミューゼアムの方法論的実験について紹介したい。
著者
安室 知
出版者
神奈川大学 国際常民文化研究機構
雑誌
国際常民文化研究叢書13 -戦前の渋沢水産史研究室の活動に関する調査研究- =International Center for Folk Culture Studies Monographs 13 -Research on the Activities of Shibusawa Fisheries History Laboratory in the Prewar Period- = International Center for Folk Culture Studies Monographs 13 -Research on the Activities of Shibusawa Fisheries History Laboratory in the Prewar Period-
巻号頁・発行日
vol.13, pp.203-213, 2019-02-25

研究者としての渋沢敬三は正当に評価されていない。それは渋沢の魚名研究に対する評価に端的に表れる。渋沢の場合、優れた研究者や技術伝承者を資金的にバックアップしたり、学問のハーモニアス・デヴェロップメントを推進するなど、研究のオルガナイザーとしての名声に比べると、彼自身がおこなった研究に関する学会の論評はあまりに貧弱といわざるをえない。渋沢はそれまで顧みられることのなかった民具や漁業史料といった常民の生活資料の学術的価値に着目するなど、すぐれた先見性はあるものの、研究者としての評価は第一次資料の発掘者・提供者に留まるもので、彼自身の研究はあくまで柳田民俗学(主流)を補完するもの(または傍流)という位置づけしかなされていない。それは、渋沢にとってもっとも精力を傾けたといってよい魚名研究が、きちんと民俗学・歴史学分野で評価されていないことに象徴される。 昭和戦前期、1930年代から40年代にかけておこなわれた渋沢の魚名研究は、生物分類の基礎たる同定(identification)に出発するもので、成長段階名への注目など新たな発想に富むものであった。また、同定への強いこだわりは同時期にやはり始動する民具研究にも当てはまることであった。そうした研究に対する渋沢の基本姿勢は、民俗学の主流たる柳田国男の語彙主義への暗黙の批判となっていた。さらには、1930年代、近代学問への黎明期にあった民俗学にとって、研究対象だけでなく、周圏論のような方法論についても再考を強く迫るものとなっていた。事実、渋沢にとって魚名研究の集大成といってよい『日本魚名集覧』が刊行されると、柳田は『蝸牛考』を改訂しそれまで民俗学において推し進めてきた周圏論の一般理論化を諦めている。このことは、渋沢の魚名研究が単に一次資料を発掘し記録するだけのものではなく、また柳田民俗学を補完するだけの存在ではなかったことを如実に物語っている。
著者
野村 伸一 Nomura Shinichi
出版者
神奈川大学 国際常民文化研究機構
雑誌
国際常民文化研究叢書7 -アジア祭祀芸能の比較研究-=International Center for Folk Culture Studies Monographs 7 -Comparative Study of Asian Ritual Performing Arts-
巻号頁・発行日
vol.7, pp.19-66, 2014-10-01

祭祀は神を迎える行為である。神には中国でいう天神地祇(天地の神がみ)、人鬼(死者の霊魂)、祖霊などを含める。また朝鮮半島の雑鬼雑神、水中孤魂、妖怪(トッケビ)、日本でいう無縁仏や怨霊、悪霊も広い意味では神(かみ)である。これらの神(かみ)招きに伴う一定の身体行為を祭祀芸能とよぶ。それは狭義には神の振る舞い(神態かみわざ)だが、神(かみ)をよび招く特定の仕種、神歌、呪語の唱えも祭祀芸能である。東アジアではこうした祭祀芸能が多彩に展開されてきた。ところで、これを掬い取り、全体のなかに位置付けるためには基軸が必要である。筆者は先にそれを提示した(『東シナ海祭祀芸能史論序説』、2009年)。だが、批判も代案もなかった。それは何を意味するのか。祭祀芸能には庶民の精神世界が凝縮されているのだが、それを体系的にみようという意向がないということなのである。日本のアジア認識はまだ地域別、個別ということである。本稿ではそれを乗り越えるために新たに次のような基軸を設定した。全六章である。すなわち、「1.暦―神と暮らし」「2.担い手と伝承」「3.祭祀芸能の開始と末尾― 戯神、請神、神送り」「4.仏教、道教と祭祀芸能」「5.祭祀芸能の様態を特徴付ける要素 1)他界観の表現 2)祭場の光景 3)神・霊の表現 4)神のことば、祝願 5)性差 6)諧謔と悲哀 7)舞踊、振り、歌 8)火9)祭具」「6.まとめ―総括と課題」である。 以上のうち1 ~ 4 章はいわば総論、比較のための大枠提示である。一方、5章では個々の祭祀芸能の様態(芸態)を特徴付ける要素を取り上げた。これは各論に当たる。要素は仔細にみていけば限りがないが、ここにあげたものは基軸に準ずるものといえるであろう。6章では、課題として三点、記した。すなわち「1)東方地中海周辺地域と中国内陸部の文化の差異」「2)海、山、野の文化と祭祀芸能」「3)東アジア祭祀芸能の変容」である。1)は伝統的な比較の視点としていうまでもなく重要である。2)は、東方地中海周辺地域の文化を総体的に捉えるための視点である。琉球の御嶽(うたき)も朝鮮半島南部の堂山(ダンサン)も山(山神)、海(海神)とかかわる。つまり、この海域では「海、山、野の文化、とりわけそれらにかかわる祭祀は密接で不可分」なのである。3)では祭祀芸能の変容にとどまらない状況を「断絶した祭祀芸能の諸相」として述べた。都市はこの百年余り、一年中、「祝祭」をつづけるために神霊や無祀孤魂を語らないできた。しかし、その価値観は今、明らかに閉塞している。さいわい今日、東アジアの祭祀芸能はまだ基層のところで生きている。それを多くの人が想起できるようにしたい。基軸の提示はそのために必要である。これは本稿の結論でもある。同時にそれは容易ならざる課題でもある。
著者
河原 典史 Kawahara Norifumi
出版者
神奈川大学 国際常民文化研究機構
雑誌
国際常民文化研究叢書1 -漁場利用の比較研究-=International Center for Folk Culture Studies Monographs 1 -Comparative Research on Fishing Ground Use-
巻号頁・発行日
pp.173-184, 2013-03-01

第二次世界大戦以前、カナダ西岸における塩ニシン製造業は、日本人漁業者による独占的な産業として重要であった。本稿は、1920 年頃のカナダ・バンクーバー島西岸におけるニシン漁業の漁場利用を考察したものである。分析にあたって、1919 年に農商務省から発行された『加奈陀太平洋岸鰊・大鮃漁業調査報告』を活用した。この報告書には、解説文とともに様々な実測図が掲載され、漁場利用が理解されやすい。また、有力な塩ニシン製造業者の一つである嘉祥家が所蔵する古写真の読解と、当時のニシン漁に携わった日系二世へのインタビュー調査も実施した。 この漁業に関わる漁船は、ニシン群を漁獲する2 隻の網船のほか、曳船・手船・スカウ(Scow・無動力の平底船)から構成されていた。網船やスカウを曳行する曳船には船長(漁撈長)と機関長のほか、漁場利用に大きく関与する2 人の沖船頭が乗船した。そして、前日に準備された漁具を積んだ2 隻の網船には、25 人ずつが分乗した。つまり、二隻曳巾着網漁業は、55 名程度で操業されていたのである。 曳船に載った沖合船頭の2 名は、海上を見渡せる船首に位置してニシン群を追った。その方法について、昼間には海上に浮上してくるニシンを空中から狙うカモメの動向や、魚群が映る海水の色、さらに海中のニシンが発する気泡にまで気が払われた。それに対し、視覚に頼れない夜間ではニシン群の発する水音が手掛かりとなった。 魚群を発見すると曳船に乗っていた漁業者は手船に乗り移り、網船の位置取りの指示をした。それを受けた2 隻の網船には、役割毎に17 名がそれぞれの漁船に分乗し、魚群を取り囲んだ。そして、推進機関を用いて網締めが開始されると、スカウに移った漁業者は2 人1 組となり、たも網を利用してニシンを掬い入れた。この作業には日本人だけではなく、ユーゴスラビア系移民も関わっていたようである。
著者
志賀 市子 Shiga Ichiko
出版者
神奈川大学 国際常民文化研究機構
雑誌
国際常民文化研究叢書3 -東アジアの民具・物質文化からみた比較文化史-=International Center for Folk Culture Studies Monographs 3 -Comparative Cultural History from the Perspective of East Asian Mingu and Material Culture-
巻号頁・発行日
pp.151-167, 2013-03-01

本稿は2000年代の台湾において一種のブームとなっているQ版神仙のキャラクター商品に注目し、ブームの背景の分析を通して、台湾における信仰文化の商品化と消費をめぐる社会状況についての考察を試みるものである。Q版神仙のQは、英語のcute(キュート、かわいい)の諧音(発音をもじったもの)であり、Q版神仙とは、日本の漫画やアニメのキャラクターに見られるような「かわいい」形象に変身させた神仙キャラクターを指す。近年台湾の寺廟では、より多くの参拝客を呼びよせるために廟内に土産物ショップを設け、Q版神仙の公仔(フィギュア)やその携帯ストラップ、帽子、Tシャツなど、さまざまな商品を販売するところが増えてきている。本稿ではまずQ版神仙ブームがいつ頃から、どのような背景のもとに興ってきたのかを、一つはコンビニエンスストア競争が巻き起こしたブームから、もう一つは台湾政府が推し進める文化創意産業計画との関連から論じた。次に台湾中部の媽祖廟を事例として、Q版媽祖のキャラクター商品がどのように開発され、販売されているのか、その実態を明らかにした。最後に台中県の著名な媽祖廟、大甲鎮欄宮を事例として、近年の進香活動に見る新たな展開や信者層の変化に注目し、Q版神仙商品の売れ行きとの関連性について検討した。また結論部分では、台湾のローカルな文化とグローバルな形象をミックスさせたQ版神仙は、21世紀の台湾における新しい文化創出のひとつであると指摘した。
著者
中野 泰 Nakano Yasushi
出版者
神奈川大学 国際常民文化研究機構
雑誌
神奈川大学 国際常民文化研究機構 年報 (ISSN:21853339)
巻号頁・発行日
vol.1, pp.57-74, 2010-10-30

本稿は、「漁業民俗」の研究動向(1980年代〜)を取り上げ、海洋民族学(海洋人類学)と対比しつつ、社会・歴史的文脈を重視する視角から整理・検討した。研究史の展開を4つのテーマ領域(「漁民社会研究」「知識・技能研究」「サブシステンス研究」「資源利用の研究」)別に整理し、以下の3 点が主たる課題として導かれた。 既存の「漁業民俗」の研究においては、第一に、「漁業民俗」の担い手の位置づけが、漁村、あるいは主体的個人という二通りの捉え方に乖離したままで不充分であること、第二に、「漁業」の範囲を、生産や技能中心の概念へ暗黙裡に限定しており、現況を捉える困難さがあること、第三に、変化の契機、条件や要因の分析が不充分な点である。 以上の課題に対し、本稿では、第一に、世帯・家族レベルに焦点化して「主体」概念を深化させ、社会構造との間の弁証法的関係を重層的に関連づける必要を説いた。そのためには、具体的な場の文脈に即して検討する必要がある。第二に、「漁業」概念を拡張し、家内労働を含め、地域社会における生活文化と連関させること、第三に、地域社会外と連鎖する関係性も捉え、科学技術や社会経済の動向などのより広い国内外の時代的文脈に位置付け、変動の契機、その諸条件や要因の分析が必要であると説いた。 漁業をめぐる価値観が多様化しつつある現在、「漁業民俗」の研究は、グローバルに展開する関係性を対象に入れ、異なる立場で関わる者へもミクロに迫り、現象を取り巻く力関係を歴史的社会的文化的文脈へ位置づける必要がある。その力関係を対象化する上で、巷間に流布する「海民」概念など、「主体」に関わる民俗学の表象が有する歴史的背景と政治性への省察を行う必要もあることを説いた。
著者
佐々木 長生 Sasaki Takeo
出版者
神奈川大学 国際常民文化研究機構
雑誌
神奈川大学 国際常民文化研究機構 年報 (ISSN:21853339)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.107-126, 2012-09-28

民具名称のなりたちについて、自然環境および歴史的背景からの多様性の一例として、会津地方の山袴の名称を取り上げる。調査対象地は、福島県南会津郡只見町の民具名称を中心に、会津地方と隣接する新潟県魚沼地方を主な範囲とする。また、民具名称の歴史的背景については、貞享元年(1684)の『会津農書』や翌年の会津各地の風俗帳、文化4年(1707)の風俗帳、紀年銘のある農耕図絵馬や農書類に描かれた絵画資料を分析資料とする。新潟県魚沼地方の天保7年(1836)に著述された鈴木牧之の『北越雪譜』の記述と、併せてそこに描かれた絵図も比較資料として用いた。一方、民具としての資料としては只見町所蔵の重要有形民俗文化財指定「会津只見の山村生活用具と仕事着コレクション」(2333 点)や、会津民俗館所蔵の福島県指定重要有形民俗文化財指定「会津の仕事着コレクション」(476 点)なども資料として用いた。特に只見地方の民具については、『図説 会津只見の民具』を中心に使用方法等を写真で示し、『北越雪譜』に描かれた民具の使用風形や形態の比較資料とした。 以上の研究方法から、近年まで着用されてきた会津地方の仕事着姿、「ジバン(上衣)にサルッパカマ(下衣)」という一般的な名称のなりたちについて、その民俗的・歴史的な視点から考察することが本稿の目的である。特に、サルッパカマと呼ばれる山袴については、会津平坦部での名称である。一方、大沼郡の山間部から南会津郡西部地区ではユッコギ・カリアゲユッコギ、またはホソッパカマ等の名称が一般的である。ユッコギは「雪こぎ」からの名称とみられ、深雪地方に存在するとするという仮説もある。サルッパカマの名称も文化4年の『熊倉組風俗帳』(喜多方市熊倉付近)等に初出して、その30 年ほど前から着用され始まったとある。それ以前の農耕図には、山袴類の着用は確認することができない。このように民具名称を歴史的に確認できることは、民具名称のなりたちを考えるうえで、きわめて有効な資料であろう。会津地方の山袴の名称、サルッパカマやカリアゲユッコギはその一例である。論文
著者
洲澤 育範 Suzawa Ikunori
出版者
神奈川大学 国際常民文化研究機構
雑誌
神奈川大学 国際常民文化研究機構 年報 (ISSN:21853339)
巻号頁・発行日
vol.2, pp.173-200, 2011-08-31

カヤックとカヌーという言葉が日本に広く定着しはじめたのは、今から約20数年まえのことだ。戦後復興から働きに働いた高度経済成長期が終わり、人々はゆとりを求め、余暇の過ごし方としてアメリカ製の野外生活術・アウトドアーライフを受入れた。それを追うようにバブル景気の波にのり、欧米から、水域でのレクリエーションや旅、スポーツや冒険の道具として、カヤックとカヌーが日本へ渡ってきた。以後こんにちまで、日本で流通販売しているカヤックとは、極北の先住民・イヌイットたちの獣皮舟を、カヌーとは北米の先住民・インディアンたちの樹皮舟を素材・形状ともに、取り扱いを安易に、経験のない人にも乗りやすくした舟のことをいう。昨今では健康増進、スポーツ用として繊維強化プラッスチックで作られたアウトリガーカヌーも輸入されている。さて、それでは今日以前の日本と伝統的なカヤック・獣皮舟、バーク・カヌー・樹皮舟の関係はどうだったのか?日本の博物館などに現存するそれらの構造・工法を、その作り手・漕ぎ手の視点、また極北の原野をハンターとカヤックで旅し、あるいはバーク・カヌーの生まれ育ったカナダの深い森で、アルゴンキンインディアンやオジブエインディアンとすごし「体に刻みこんだ記憶を職人の言葉に置き換えて」論じてみよう。 あわせて環北太平洋の自然環境が、どのように海洋・水圏文化のつながりを生み出し維持したか、あるいは北半球の交易でどのような役割を演じたかについても考察をくわえるとする。 さらに自班は「環太平洋海域における伝統的造船技術の比較研究・代表者・後藤明」である。カヌー文化は機械文明との接触以降、1900年代の初頭より急速にこの地球上から姿を消しはじめた。しかし、1976年のハワイの古代航海カヌー・ホクレア号が行ったハワイ~タヒチ航海を機に、近年とみに、カヌールネッサンス・海人の忘れさられようとしている海洋文化の復興が盛んになりつつある。あるいは途絶えて久しい北方交易以来、カヤック、バーク・カヌーがその素性を変え、環北太平洋をぐるりとまわり、再び日本との係わりを深めようとしている。そのような状況のなか、われわれの役目はどこにあるのか、海洋教育の手段としてのカヤックやカヌー、そして漕ぎ続ける常民、作り続ける常民の礎のひとつを提案することが本稿の主旨である。なお、本稿はウェヴサイトに掲載されることを前提に、本文中には参考映像などのURLを併記する。論文

1 0 0 0 IR 08 樹皮舟

著者
洲澤 育範 Suzawa Ikunori
出版者
神奈川大学 国際常民文化研究機構
雑誌
国際常民文化研究叢書5 -環太平洋海域における伝統的造船技術の比較研究- =Culture Studies Monographs 5 -Comparative Research on Traditional Boat-Building Techniques around the Pacific Rim-
巻号頁・発行日
vol.5, pp.113-144, 2014-03-01

わが国の舟の研究分野では、樹皮舟= Bark Canoe =バークカヌーに関するまとまった文献を目にすることはまずない。 バークカヌーも他の伝統的な舟と同じように、地域により、造り方、構造、推進具、用途などさまざまである。その中でも北米大陸のネイティブ・アメリカンが造ったバークカヌーは多様な発展をとげている。本稿では筆者の経験を基に、バークカヌーの実像をできるかぎり具体的に表し、また北米以外の地域のバークカヌーと比較しやすいように資料を整えてみた。 本稿の構成は以下の通りである。1.はじめに バークカヌーの概要2.バークカヌーの素材と制作道具と制作場所 1)素材 樹皮、木の根の紐、目止め剤・接着剤としての樹脂など。 2)道具 割出し製材、インディアン・ナイフについて。 3)場所 カヌープレイス。3.舟体の構造と造り方 1)構造 (1)骨組みが無い。(2)骨組みがある。 2)造り方 (1)樹皮のみを曲げる。(2)樹皮と骨組みを同時に曲げる。(3)骨組みを作り、その上に樹皮を被せる。(4)樹皮で形を作り、その中に骨組みを納める。 3)樹皮の使い方 (1)ガンネル方向に継ぎ足す。(2)バウ、スターン方向に継ぎ足す。 4)制作方法 アルゴンキン・インディアン様式のバーチ・バーク・カヌーを具体例として。4.北米大陸におけるバークカヌーの分布と用途による形状の違い 1)用途 河川・湖沼用と沿岸海域用。 2)分布 北米大陸のバークカヌー用樹木の生育地域を3区に大別して解説。 3)それぞれの地域のバークカヌーの特徴をイラストを用いて解説。5.櫂= paddle =パドルと身体技法=漕ぐ姿勢と漕ぎ方 1)櫂 シングルブレードパドルとダブルブレードパドル。 2)漕ぐ姿勢など 投げ足、正座、腰掛ける。6.終わりに 1)特異なバークカヌーの紹介 チョウザメ鼻のカヌー。太平洋を隔てた共通性。 2)もう一つの課題 福島県産木材の有効利用としてカヌー制作への取組み。 研究者はもとより、環境学習の道具としてカヌーを用いる方々、自然を味わう道具としてカヌーを愛好する方々にも、カヌーの実像と素性を知る資料として本稿を参考にしてもらえれば幸いである。