- 著者
-
新垣 公弥子
アラカキ クミコ
Kumiko Arakaki
- 出版者
- 千葉大学大学院社会文化科学研究科
- 雑誌
- 千葉大学社会文化科学研究科研究プロジェクト報告書
- 巻号頁・発行日
- vol.53, pp.63-72,
千葉大学社会文化科学研究科研究プロジェクト報告書第53集『ユーラシア諸言語の動詞論(1)』所収「水が飲みたい」と「水を飲みたい」という表現についてこれまでにも多くの研究がなされてきた。時枝誠記は「水が飲みたい」の「が」を取り上げ、これは「が」の用法の中でも「を」にも置き換えできる「が」で主格のそれとは異なるとし、「対象語」と命名した。しかし時枝はその著書『国語学原論』のなかで、日本語において主語と主語にしてしかも主語とは別の対象語とを明確に認定するのは困難であるとし、形容詞で「淋しい」「面白い」といった語が主体の感情を述べているのか客観事実を述べているのかにより主語をとるのか対象語をとるのか区別される、と述べている。これを受けて三上は『現代語法序説』の中で、「対象語という見方が国文解釈に必要な注意を与えることは確かであるが、用言個個の語義解釈に関する事柄であるために、文法上の概念とするにはなお根拠不十分である」と述べている. 確かに時枝の説明では「主格」と「対象語」とに明確な違いがあることは明確にされていない。これを文の統括の面からさらに深く考察したのは、北原の『日本語助動詞の研究』で、いわゆる対象語格と呼ばれるものをどのように捉えるか対象語の認定で問題となった形容詞的述語と構文上同じ働きをする願望の助動詞「たい」を例に、これが構文論上どのような職能を有しているか、主格展叙成分と対象格展叙成分と「たい」との関係について述べ、「たい」にかかる構文論上の職能をみると主格展叙成分と対象格展叙成分とは、何ら区別がないことを証明し、どちらも主格であると考えている。つまり「水が放しい」の「水が」を時枝は対象語格としたが、北原は「水が」もやはり主格だと考えている。本稿では両者の説を検討しながら「水が飲みたい」と「水を飲みたい」についてみた後に、動詞「飲む」 が要求するものについて考察していく。手順としては先ず、時枝の対象語ならびに対象語格とはどういうものか見ていき、次に対象語の問題点について北原の考え方を見ていく。