著者
川島 重成
出版者
国際基督教大学キリスト教と文化研究所
雑誌
人文科学研究 : キリスト教と文化 : Christianity and culture (ISSN:00733938)
巻号頁・発行日
no.43, pp.51-75, 2012-03

『イリアス』第6 歌におけるグラウコスとディオメデスの出会い(一騎討ちならぬ一騎討ち)のエピソード(119-236)は、さまざまな解釈上の問題を含む。本稿はそれらの諸問題、とりわけグラウコスの死生観をめぐる一考察である。 ディオメデスはギリシア勢の名だたる英雄であるのに対して、トロイア勢に付くグラウコスはほとんど無名の若者である。因果応報の戒めを語りつつ一騎討ちを挑んできたディオメデスに対して、グラウコスは「人の世は木の葉のさまに等しい」との全く別の人生観で応じ、武勇における彼我の圧倒的な差異を相対化する。グラウコスは、ディオメデスの強力な威嚇に巧妙なずらしのレトリックで対峙し、同時にこの一騎討ちを実質的に人生観のアゴーン(競いあい)と化す。この解釈の裏付けとして、本稿は第6 歌150-1 行について新しい読み方を提示し、kai. tau/ta(150)は従来の解釈・翻訳と相違して、「木の葉のさまに等しい」とのグラウコスの死生観を指すとする。この人生観・死生観のアゴーンにおいて、グラウコスはディオメデスと堂々とわたりあい、むしろ優位に立つのである。 グラウコスは彼の死生観の例証として60 行にわたって己が家系の物語(151-211)を語るが、ベレロポンテスの生涯がそのほとんどの部分(155-205)を占める。神々がベレロポンテスに与えた美しさと雄々しさが彼の禍に転じる。アルゴス王の妃が彼への恋に狂い、そのため彼はアルゴスからリュキエに追放されるが、神々の助けを得て、さまざまな試練を克服し、逆にリュキエ王の娘を娶り、王権の半ばを恵与される。この彼も悲惨な後半生を送らされる。孤独に荒野をさまようベレロポンテス──この彼の生涯こそ「人の世の木の葉のさまに等しい」有為転変の運命の典型であった。 グラウコスが語るベレロポンテスの物語の素材となった民話においては、天馬ペガソスとの結びつきがその中心にあった。それはベレロポンテスが天馬ペガソスに乗って天に飛翔し、そのヒュブリスによって突き落とされたとするものであった。しかしグラウコスはこのエピソードに言及することを意識的に避けた、と解される。グラウコスの死生観は、それ自体ホメロスによる宗教的洞察であり、アポロン的宗教性の表白である。ホメロスは第21 歌でアポロンに同様の「木の葉に等しい」人間のはかなさを語らせている(462-7)。 グラウコスが語り終えると、ディオメデスは彼の死生観そのものには何の関心も示さず、二人が実は先祖伝来の「クセニア」(主客友好関係)で結ばれる者同士であったとの発見を語り、そのしるしとしての贈り物の交換を提案する。しかし本来は互恵性の原則によって成り立つ筈のこの贈り物の交換は、ゼウスの介入でグラウコスの判断が狂わされたことにより、グラウコスにとって全く屈辱的ともいえる奇妙な形で終る。ここにホメロスのユーモアが窺えよう。これはかの死生観のアゴーンにおけるグラウコスの「勝利」(と期待されていたもの)に、もう一度どんでんがえしをもたらす。これもまた「木の葉のさまに等しい」とのグラウコスの死生観を例証するものであった。

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CiNii 論文 -  人の世の移り変りは木の葉のそれと変りがない : 『イリアス』第6歌におけるグラウコスとディオメデスの出会いについての一考察、特にグラウコスの死生観をめぐって https://t.co/rbHn8Bf5ah #CiNii

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