- 著者
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川島 重成
- 出版者
- 国際基督教大学キリスト教と文化研究所
- 雑誌
- 人文科学研究 : キリスト教と文化 : Christianity and culture (ISSN:00733938)
- 巻号頁・発行日
- no.45, pp.1-25, 2014-03
ソポクレスの悲劇『オイディプス王』(前429 年頃)と『コロノスのオイディプス』(前406 年、ただし前401 年上演)において、オイディプスは<時>をどのように生きたか。 『オイディプス王』1213-1215 行を、筆者はKamerbeek の注解に示唆されて、岡道男訳を修正して、次のように訳する。望まぬあなたを見出した、すべてを見ている<時>が、生む者と生まれる者が等しい結婚ならぬ結婚を(<時>は)かねてより裁いてきたのだ。これはオイディプスが自らの真実を知って走り去った直後、コロスがうたう歌の一節である。オイディプスがこのドラマ以前(の<時>)に犯し、知らずしてその中に生きてきた穢れを、<時>がここで暴露した。一方<時>はオイディプスを、「かねてより」、つまり彼が「結婚ならぬ結婚」という無秩序に陥って以来、「裁いてきた」と解せる。ただオイディプスはそのことに気付いていなかった。それをこのドラマの中で気付かされたのである。この「発見」を、いわば<時>の行為として言い換えたのが、「[……]あなたを見出した、すべてを見ている<時>が」である。詩人はオイディプスの自己発見がそのまま<時>による発見でもあると見ている。ここに人間ドラマが同時に神的ドラマであるギリシア悲劇の真骨頂がある。 『コロノスのオイディプス』の冒頭、娘アンティゴネに手を引かれて登場する盲目の老オイディプスは、次のように言う。「わたしには、ひとつには度重なる苦労が、また長い伴侶の歳月が、それにさらに加えて/持って生れた貴い天性が、辛抱ということを教えてくれる」(引地正俊訳)。かつて<時>がオイディプスの真実を「見出した」。そのとき以来の彼の歩みは、その<時>=運命を伴侶とする新しい生であった。上の引用で「辛抱」と訳されているギリシア語(ステルゲイン)は「運命の甘受」を含意する。この老オイディプスは、その流浪の果てに、ついに彼の生涯の終りを託することのできる高貴な人物、アテナイ王テセウスに出会い、<時>と歩みをともにしてきた者の権威によって、「万物を征服する<時>」の法則を語り聞かせる(607-620)。そして彼の最期を知らせる雷鳴が轟くなか、人間の、とりわけ政治的世界の常である「ヒュブリス」(高慢)に陥らないようにとの誡めを語る。このソポクレスの遺作悲劇が創作されていたとき、アテナイはペロポネソス戦争の末期、スパルタの軍門に下る敗戦前夜にあった。ソポクレスがオイディプスとテセウスの美しい信頼関係によって象徴させたアテナイのあるべき姿とは、戦争の帰趨や政治的権力や富の離合集散とは別の世界で成立する、まさに「歳月によって害なわれることなく秘蔵されるべきもの」(1519)、すなわち人類の人文的理想としてのアテナイであった、と解せよう。 人文学の本来の道とは、いわばこのオイディプスの生涯が象徴するものを、私たちの経験として反復することによって獲ちとり、維持されていくべきものであろう。 オイディプスの生涯が象徴する古典ギリシア文化がその指導的役割を終えた紀元後一世紀、同じ地中海世界の片隅に、ヨーロッパ文化のもう一つの源泉となる精神が立ち現れた。本講演では新約聖書からただ一箇所ロマ書8 章18-25 節を取りあげる。そこで語られるパウロの神――万物を虚無に服せしめる神(20節)――は、人間、そして全被造物の視点から見る限り、オイディプスを理不尽にも外から操ったあの<時>=運命と代らないように見える。オイディプスはその<時>とともに歩むことによって、ある意味で彼の運命を克服した。しかしこれは限りなく厳しい道ではなかろうか。一方ロマ書8 章は、万物を虚無に服せしめた創造の神は、同時に万物の救いの希望であると語る(23-25 節)。思うに私たちが今日人文学の未来への希望を語りうるとすれば、パウロの「望みえないのに、なお望む」という、この希望の上に、あのギリシアの理想を生かす道しかないのではなかろうか。これはまた本研究所ICCの創設の理想とも密接に関わっている。