- 著者
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湯浅 陽子
YUASA Yoko
- 出版者
- 三重大学人文学部文化学科
- 雑誌
- 人文論叢 = Bulletin of the Faculty of Humanities and Social Sciences,Department of Humanities (ISSN:02897253)
- 巻号頁・発行日
- no.31, pp.15-29, 2014
北宋中期の欧陽脩ちの世代から蘇賦らの世代にかけての地方官の遊楽をめぐる志向の変化の様相について、おもに記を題材として検討する。慶暦の新政の破綻から至和年間くらいまでの間、「朋黛」として批判を受け地方に左遷されていた人々が制作した官舎庭園や遊楽を記念する記においては、公人の楽のあり方、特に人民との共有というテーマが繰り返し取り上げられ、さらにこのテーマが『孟子』や『讚記』といった経書を踏まえた正当なものであることが強調されており、そこには彼等の士大夫としての自負の強さを見ることができる。また、知定州期の韓埼は、特定の時節に人民に公開するための庭園として「康柴園」を整備しつつ、同時に自分の休息あるいは修養のための場所をも区別して整備している。仁宗嘉祐年間には、欧陽脩らよりもひと世代下の人々の間の「衆楽」をめぐる思考に新たな展開が発生し、孫覺「衆業亭記」。曾撃「清心亭記」は、長官という立場にいるひとりの人物の内面の安定を希求し、君子の修養を国家を治めるための手段として位置づけているが、人民との「築」の共有については言及していない。このような発想は、蘇載が嘉祐八年の「凌虚蔓記」以降、熙寧から元豊年間にかけて多くの記のなかで繰り返し強調する、地方長官の閑居における、外物に煩わされることのない精神的修養の重視に近いものであり、その先駆けとなるものと考えることができる。哲宗熙寧四年に洛陽で引退者となった司馬光は、当地に獨榮園を整備し、自ら「獨楽園記」を制作したが、その記述は、この「獨楽」もまた『孟子』梁恵王下を典拠とし、かつこれ以前に書かれてきた「衆楽」に関する多くの湯浅陽子文章を意識したものであることを示している。すでに退職者となった司馬光には、任地の官舎に附属する庭園ではない自己の退体の地の庭園であるからこそ、「衆楽」と対比される「獨来」をその名とすることが可能だったのだろう。しかし「獨業」は、「衆楽」と対比され、より劣るものとして控えめに提示されており、ここでも知識人のあるべき楽としての「衆業」の持つ規範性は依然として強く意識されている。また、蘇拭がこれに寄せた「司馬君賓獨榮園」詩でヽ司馬光の「獨楽」を、才能と徳とを内に秘めて轄晦するものだと説明し、司馬光が引退者として個人的な閑居に引きこもろうとする態度を批判するのも、「衆柴」を意識することによるものだろう。慶暦の新政の失敗による関係者の左遷のなかで強調された地方官の理想の遊楽としての「衆楽」は、当初は為政者としての自負や理想と強く結びついたものであったが、その後彼等の流れを汲む保守派の官僚たちによって継承されていくなかで次第に変容し、より自由度を高め、個人的な、精神的なものの希求へと変化していったと考えられる。