- 著者
-
久保田 文
- 出版者
- 文化女子大学
- 雑誌
- 文化女子大学紀要. 人文・社会科学研究
- 巻号頁・発行日
- no.4, pp.51-60, 1996-01
メルヴィルが語ったホーソーンの闇の力とは,原罪を根底とする人間の罪を強く凝視するその集中力から生まれたものであり,内なる罪に懊悩するナイーヴなキャラクター達は,我々の心を引き付け続けている。しかしその一方で,幾つかの作品は,罪悪感の重荷から全く解き放たれた特異なキャラクターの姿を呈示し,その対照性は読者をとまどわせる。現世的な悩みや喜びを顧みない美の探求者や科学者達のエゴイスティックなまでの現実超越は,ホーソーン自身に潜んでいたデカダントな部分における強い憧れであったに違いない。文学者ホーソーンの位置は,地に足をつけたまま深く悩むモラリストと,身勝手なまでの魂の飛翔を遂げる知識の信奉者達の中間に在り,彼の自己投影は作中,心理の追求者の形をとっているように思われる。ホーソーンにとっての文学者や心理学者は(彼にとっての科学者達と同じく,冷酷と呼べるほどの偏執性を持ちながら)現実の人間の心の問題から目を離せないでいる人々である。孤高の作家ホーソーンは,人間心理の深淵をのぞこうとする情熱とやましさを,イーサン・ブランドやロジャー・チリングワースと分かち合っていたと推考できる。その観点で,D.H.ロレンスのロジャー・チリングワース分析は若干皮相的すぎるのである。