著者
芳賀 徹
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.16, pp.187-209, 1997-09

夏目漱石(一八六七―一九一六)作『永日小品』は明治四十二年(一九〇九)正月元旦から三月半ばにかけて、大阪、東京の『朝日新聞』に断続的に連載された。『三四郎』と『それから』の二長編の間にはさまれた小傑作集なのに、従来あまり論じられないできたから、これを漱石の二十五の美しい離れ小島と呼ぶことができる。また作者はここで、前年の『夢十夜』にもまして多彩で多方向の詩的想像力の展開を試みているから、これを漱石の実験の工房と呼ぶこともできよう。 本稿ではそのなかから「印象」と題された一篇のみをとりあげて、これにエクスプリカシオン・ド・テクスト(文章腑分け)を試みる。ここには明治三十三年(一九〇〇)十月二十八日夜の漱石のロンドン到着と、その翌日、ボーア戦争からの帰還兵歓迎の大群衆に巻き込まれて市内をさまよった経験とが喚起されていることは、確かである。だが作者はそれらの過去の事実を故意に一切伏せて、日時も季節もロンドンとかトラファルガー・スクエアとかの地名さえも示さない。ただあるのは、この初めての異国の「不思議な町」で、道に迷うまいと重ね重ね注意しているうちに、いつのまにか顔のない、声のない、「背の高い」大群衆の一方向にひた押しに進む波のなかに「溺れ」てしまったことの、不安と恐怖と自己喪失の感覚のみである。自分が昨夜泊った宿も、ただ「暗い中に暗く立つてゐた」と想起されるだけで、その「家」の方角さえも不明になったとき、話者は「人の海」のなかにあって「云ふべからざる孤独」の深さを自覚する。 イギリス留学時代の英文学者漱石の孤独がいかに落莫として痛切なものであったかをうかがい知ることができる。そしてそれを伝えながらも、この商品は来るべきカフカや阿部公房の小説をすら予感させるものであったとも言えるのではなかろうか。

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