著者
笠谷 和比古
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.3, pp.p35-63, 1990-09

徳川幕府体制の下での特異な政治的問題の一つとして、「大名改易」のあったことは周知の通りである。それは軍事的敗北、血統の断絶、法律違反などの諸理由に基づいて、大名の領地を幕府が没収し、当該大名がそれまで保持してきた武家社会内での身分的地位を剥奪してしまうものであった。徳川時代にはこの大名改易が頻繁に執行され、結果的に見れば、それによって幕府の全国支配の拡大と安定化がもたらされたこと、また改易事件の幾つかは、その理由が不可解に見えるものがあり、それによって有力大名が取り潰されてもいることからして、この大名改易を幕府の政略的で権力主義的な政策として位置づけるのは定説となっている。そしてまたそのような大名改易の歴史像が、徳川幕府体制の権力構造、政治秩序一般のあり方を理解するうえでの重要な根拠をなしてきた。 しかしながらそのような大名改易の歴史像は、幕府に事後的な利益をもたらしたという結果的な見地から導き出されたものであって、個々の大名改易事件がどのような事情と経緯に基づくかの、事実関係の面での研究は多くないのが実情である。それ故に本稿では、この大名改易の二大疑獄とされる広島藩四九万石の福島正則と熊本藩五二万石の加藤忠広の両改易事件について、福島正則自身の書状などの同時代史料に依拠して事態の事実確認を中心に考察する。そして本稿の続編(次号掲載予定)において、自余の改易事例をも踏まえながら、徳川時代の大名改易という歴史事象の一般的な意義解明を試みる。
著者
松田 利彦
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.35, pp.469-490, 2007-05

本稿は、近代日本植民地における「憲兵警察制度」を素材に、近年の「帝国史」研究で提唱されている「統治様式の遷移」という研究手法の可能性と限界について考察した。 憲兵警察制度は、日露戦後、朝鮮で分立していた文官警察と軍事警察を統合する仕組みとして一九一〇年に生みだされ、「憲兵の文官警察官職への人用(憲兵に文官警察官に対する指揮権を付与するための措置)」と「憲兵の普通業務への従事」というシステムによって文官警察と軍事警察を制度的に架橋していた。この後、憲兵警察制度は、関東州における「憲兵警察制度」(一九一七~一九年)、「満州国」における「在満大使館警務部」による在満日本警察機関の統合(一九三四~三七年)に継受された。しかし、これらの事例において、「憲兵の文官警察官職への任用」については朝鮮→関東州→満州の順に弱くなり、「憲兵の普通警察業務への従事」は朝鮮以外のケースでは採用されていない。「憲兵警察制度」を「統治様式の遷移」の典型例と見なすことは可能だが、ここの植民地固有の状況に規定された変容も小さくなかった。
著者
山田 奨治
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.19, pp.15-34, 1999-06

オイゲン・ヘリゲル著『弓と禅』は、日本文化論として広く読まれている。この論文では、ヘリゲルのテクストやその周辺資料を読み直し、再構成することによって、『弓と禅』の神話が創出されていった過程を整理した。はじめに弓術略史を示し、ヘリゲルが弓術を習った時点の弓術史上の位置づけを行った。ついでヘリゲルの師であった阿波研造の生涯を要約した。ヘリゲルが入門したのは、阿波が自身の神秘体験をもとに特異な思想を形成し始めた時期であった。阿波自身は禅の経験がなく、無条件に禅を肯定していたわけでもなかった。一方ヘリゲルは禅的なものを求めて来日し、禅の予備門として弓術を選んだ。続いて『弓と禅』の中で中心的かつ神秘的な二つのエピソードを選んで批判的検討を加えた。そこで明らかになったことは、阿波―ヘリゲル間の言語障壁の問題であった。『弓と禅』で語られている神秘的で難解なエピソードは、通訳が不在の時に起きているか、通訳の意図的な意訳を通してヘリゲルに理解されたものであったことが、通訳の証言などから裏付けられた。単なる偶然によって生じた事象や、通訳の過程で生じた意味のずれに、禅的なものを求めたいというヘリゲル個人の意志が働いたことにより、『弓と禅』の神話が生まれた。ヘリゲルとナチズムの関係、阿波―ヘリゲルの弓術思想が伝統的なものと錯覚されて、日本に逆輸入、伝播されていった過程を明らかにすることが今後の研究課題である。
著者
平松 隆円
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.34, pp.89-130, 2007-03

仏教では、女性は不浄な穢れた生き物と考えられてきた。そして、僧は女性と交接を行うことを「女犯」として戒律で禁じられ、そのため「女犯」の罪を避けるため、僧は男性、とりわけ稚児を交接の対象としてきたといわれている。 なぜ、僧は女性と交接が行えないという理由で、稚児をその対象としたのか。本研究では、仏教的視点から僧と稚児との男色関係の構造を検討した。 その結果、僧にとって、稚児との交接は単に女性と交接が禁じられているために、性欲の処理という意味だけで行われていたわけではないことがわかった。僧にとって稚児との交接は、現世に醜貌として生まれたがゆえに僧となった者の、美貌である稚児への憧れと、稚児が菩薩であるとする児灌頂の思想のもと、救済と功徳を得るための仏教的な行為として意味づけられ、行われていたのである。
著者
永岡 崇
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.47, pp.127-169, 2013-03

本稿は、異なる立場の人びとが「知の協働制作者」(Johannes Fabian)として直接的に接触・交渉しあいながら宗教の歴史を描いていく営みを協働表象と名づけ、具体的な事例を検討しながらその意義を明らかにしようとするものである。その事例は、一九六〇年代に行われた『大本七十年史』編纂事業である。近代日本の代表的な新宗教として知られる大本が、歴史学者・宗教学者らとともに作りあげた『七十年史』は、協働表象の困難さと可能性を際立った形で提示している。 大本という宗教団体の七〇年にわたる歴史を描くというこの事業は、大本に集った人びとの過去だけでなく、現在と未来のありように密接にかかわるものであった。新宗教の矛盾や葛藤に満ちた歴史のなかに研究者が介入し、多様な信仰、多様な経験に秩序を与え、そのざわめきを鎮めていくことは、来るべき信仰や実践のありように規範を提示していくことでもある。大本内部で平和運動を推進する出口栄二や事業に参加した歴史学者は、近代日本の支配体制に対抗する異端として、また一貫した平和主義的宗教としての大本の「本質」を創造していた。 彼らによって構築される「本質」は、そこに回収されきらない多様な歴史的経験を排除するか、副次的なものとして劣位に置くことになる。だが、古参の信徒が抱えるそうした歴史的経験や、史料の読解よりも「本質」を優先させる物語の過剰にたいする若手研究者の反発は、首尾一貫した滑らかな歴史が内包する暴力性を浮き彫りにするのである。 協働表現の意義は、おそらく成果として出来上がった歴史叙述そのもののなかにではなく、その過程で生起する自己変容の経験、越えがたい差異の経験、そして他者を前にして自分の行使する暴力に気付かされる経験のなかにこそある。もっともこうした経験は、当事者によってはうまく分節化できないこともある。協働の場に介入する分析者の役割は、そこに沈殿した経験の意味を開示し、さらにそれを公共的議論へと接続することなのだ。
著者
笠谷 和比古
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.16, pp.33-48, 1997-09

徳川家康の姓氏問題は複雑である。家康はその血統的系譜を清和源氏の流れを汲む新田一族の一人得川四郎義季の末裔たることに求め、自らの姓氏を清和源氏と定めたとされるが、これは天下の覇権を掌握した家康が、慶長八(一六〇三)年の征夷大将軍任官を控えて系譜の正当化をはかる目的で、そのような始祖伝承を無理に付会していったものであるとこれまで見なされてきた。しかし家康宛の朝廷官位叙任に関する口宣を分析した米田雄介氏の近年の研究成果は、このような通説的歴史像に疑義を生じさせるものとなっている。本稿はこれらの研究史を踏まえ、かつ家康関係文書の再検討を通して、家康の姓氏の変遷を追究する。それは単に、家康の源氏改姓の時期のいかんを求める事実問題としてだけではなく、姓氏の変遷に表現されたこの時期の国政上の意義にかかわる問題でもある。本稿では、この家康の源氏改姓問題を通して、豊臣秀吉の関白政権時代の国制はその下に事実上の徳川将軍制を内包するような権力の二重構造的性格を有するものであったことを論じる。
著者
鈴木 洋仁
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.54, pp.79-104, 2017-01

本稿は、「平成」改元にあたって、小渕恵三官房長官(当時)が行った記者会見を分析することによって、大日本帝国憲法(1889)と日本国憲法(1947)における天皇の位置づけの相違を分析するものである。具体的には、改元を天皇による「時間支配」の究極の形式と定義したうえで、「平成」改元における、(1)政治性、(2)公共性、(3)メディア性という3点の違いを抽出する。なぜなら、日本国憲法においても、大日本帝国憲法と同様、「一世一元」の原則が法律で定められているからである。 改元の政治性とは、改元における権力を、誰が持っているのか、という点であり、天皇から内閣へと移っている。すなわち、天皇は、改元の場面において、政治性を帯びていない。そして、改元の公開性とは、「平成」改元すなわち、日本国憲法下での改元においては、記者会見を開いたという点である。対して1926年の「昭和」改元においては、記者会見が開かれなかったために、新元号を「光文」とする誤報事件が起きていた。最後の改元のメディア性とは、発表する側が、メディアを意識していたか否か、という点である。「昭和」においては、意識するほどにメディアは発達していなかったが、「平成」においては「テレビ時代だから」として、新元号を発表する当時の内閣官房長官が「平成」の書を掲げるほどの発展を遂げていた。 以上のことから、本稿は、「時間支配」という点において、「昭和」改元は、その完成形態であり、「平成」改元は、「視覚的支配」をも組み入れた新たな「時間支配」であると結論づけている。

10 0 0 0 IR 布衣始について

著者
近藤 好和
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.42, pp.11-36, 2010-09

本稿は、これまで研究のなかった天皇装束から上皇装束へ移行する転換点となる布衣始(ほういはじめ)という儀礼の実態を考察したものである。 第一章では、布衣始考察の前提となる天皇装束と上皇装束の相違をまとめた。公家男子装束は必ず冠か烏帽子を被り、冠対応装束と烏帽子対応装束に分類できる。天皇は冠しか被らず、冠対応装束のうち束帯と引直衣という特殊な冠直衣だけを着用した。一方、上皇は臣下と同様に烏帽子対応装束も着用した。かかる烏帽子対応装束の代表が布衣(狩衣)であり、布衣始とは、天皇譲位後初めて烏帽子狩衣を着用する儀礼である。 ついで宇多から正親町まで(一部近世を含む)のうち上皇だけを対象として、古記録を中心とする諸文献から布衣始やそれに関連する記事を抜き出し、第二章平安時代(宇多~安徳)、第三章鎌倉時代(後鳥羽~光厳)、第四章南北朝時代以降(後醍醐~正親町)の各時代順・各上皇順に整理して、布衣始の実態を追った。 天皇装束と上皇装束の相違は摂関期から認識されていたが、上皇が布衣を着用するという行為が意識されるようになるのは高倉・後白河からであり、それが布衣始という儀礼として完成し、天皇退位儀礼の一環として位置づけられるようになるのは鎌倉時代、特に後嵯峨以降である。さらに南北朝時代には北朝に継承され、室町時代には異例が多くなり、上皇のいない戦国時代を経て、江戸時代で復活するという流れがわかった。 最後に、布衣始が院伝奏や院評定制といった院政を運営する制度と同じく後嵯峨朝で完成した点に注目し、布衣始の成立と定着もかかる流れの一環として理解することができ、布衣始が伝奏や評定が行われた院政の中心的場である仙洞弘御所で行われたことから、布衣始は院政開始儀礼であり、布衣という装束を媒介として天皇の王権から上皇(「治天の君」)という新たな王権への移行を可視的に提示する儀礼であったという見通しを述べた。
著者
佐藤 信
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = Nihon Kenkyū (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.51, pp.63-95, 2015-03-31

本稿は、近代日本の典型的な権力者である山県有朋とその館を事例として、空間と政治の連関を研究したものである。椿山荘(東京)や無隣庵(京都)、古稀庵(小田原)といった山県の邸宅はその庭によってよく知られているが、それらの館がどのように使われていたか明らかではないところも多い。本稿は、山県有朋関係文書や田中光顕関係文書などの政治史史料を用いることで、この問題に取り組んだ。
著者
平松 隆円
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.34, pp.89-130, 2007-03

仏教では、女性は不浄な穢れた生き物と考えられてきた。そして、僧は女性と交接を行うことを「女犯」として戒律で禁じられ、そのため「女犯」の罪を避けるため、僧は男性、とりわけ稚児を交接の対象としてきたといわれている。 なぜ、僧は女性と交接が行えないという理由で、稚児をその対象としたのか。本研究では、仏教的視点から僧と稚児との男色関係の構造を検討した。 その結果、僧にとって、稚児との交接は単に女性と交接が禁じられているために、性欲の処理という意味だけで行われていたわけではないことがわかった。僧にとって稚児との交接は、現世に醜貌として生まれたがゆえに僧となった者の、美貌である稚児への憧れと、稚児が菩薩であるとする児灌頂の思想のもと、救済と功徳を得るための仏教的な行為として意味づけられ、行われていたのである。
著者
笠谷 和比古
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.4, pp.p123-147, 1991-03

前稿(一)においては、福島正則と加藤忠広の二大名の改易事件について検討した。その結果、両改易ともに、幕府側の政略的な取り潰しということはできず、むしろ両大名側に処罰されて致し方のない重大な違法行為のあることが否定できないことが明らかとなった。このように徳川幕府の大名改易政策は、従前考えられてきたような政略的で権力主義的な性格のものではないのである。そしてこのことは、この大名改易の実現過程における、その実現のあり方という面についても言いうる。本稿では大名改易の実現過程を、改易の決定過程と、当該大名の居城と領地の接収を行うその執行過程とに分けて見ていく。秘密主義と権力主義という幕府政治についての一般通念と異なって、大名改易政策の実現過程に見られるのは、諸大名へのそれぞれの改易事情の積極的な説明であり、城地の接収に際しての大名領有権に対する尊重と配慮であった。
著者
山田 奨治
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.40, pp.103-128, 2009-11

六十四種類の「百鬼夜行絵巻」を対象に、その図像の編集過程の復元を試みた。描かれた「鬼」の図像配列の相違に着目し、情報学の編集距離を使って絵巻の系統樹を作成した。その結果、真珠庵本系統の「百鬼夜行絵巻」の祖本に最も近い図像配列を持つのは、日文研B本であるとの推定結果が得られた。また合本系の「百鬼夜行絵巻」についても図像配列を比較し、それらの編集過程の全体像を推定した。
著者
上垣外 憲一
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.11, pp.p41-57, 1994-09

明治日本の朝鮮との関係を論ずる場合、明治初年の征韓論はともかく明治九年の江華島条約を日本の朝鮮への侵略の第一歩として叙述する場合が多い。しかし、実際にその当時の新聞論調を読むと、むしろこの朝鮮との条約の締結を、ペリー来航時の状況に譬えて考えているものが多いことがわかる。 従って、朝鮮の頑固な排外的態度も、これを日本蔑視として糾弾する意見と同時に、かつての日本もまた同様であったではないかとして、寛容な態度でこれに臨むべきとする論調もまた少なくないのである。特に明治十五年の壬午軍乱では、多くの出版物が多種多様な論調を張った。この当時の論説では相反する意見を併記することがよく行われたが、これは対話体で、アジアに対する積極進出論者と穏健な同盟論者の意見の双方を平等に描き出した手法に対して先駆的な位置にあるものというべきである。 しかし、明治十八年の甲申政変に際しては、厳しい言論統制が行われ、日本側が、積極的にクーデターの後押しをしたという事実は全く国民には知らされなかった。以後、朝鮮に対しての情報が制限された中で、日本人の朝鮮への意見が自由に集約されるということは、国会開設という事態があったにもかかわらず、起こりえなかった。 日清戦争に際しては、戦争に熱中して日本勝利に酔い、朝鮮に対しては後進国という蔑視が目だつなかで、改革勢力としての東学党に対する評価は、自由党がわのみならず、政治的立場としては国家主義的なアジア進出を目指す東邦協会の論調においても、真摯な改革団体としての東学党を高く評価するものがある。 その東学党が日本軍、政府軍によって壊滅させられ、さらに国王のロシア公使館への避難によって、親露政権が誕生すると、これまで朝鮮の改革に深い関心をもって様々な論調を張ってきた福沢諭吉は、一切の同情心を捨てて朝鮮に対せよと説く。三国干渉において日本の憎悪の的となったロシアとの提携は、明治初年から十年代には豊かに見られた朝鮮に対する日本人の同情心に最後の打撃を与えたのである。
著者
小暮 修三
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.39, pp.119-139, 2009-03

かつて、日本の沿岸各地には、裸潜水漁を行いながら生計の主要な部分を賄う人々が存在し、彼/女らは俗に「海人(アマ)」と呼ばれ、特に、男性は「海士」、女性は「海女」と表記されている。この海人の歴史は古く、『魏志倭人伝』や記紀、『万葉集』から『枕草子』に至るまで、その存在が散見される。また、海女をモチーフとした文学作品や能楽、浮世絵も数多く残されている。しかしながら、もはや裸潜水漁で生計を立てている海女の姿は、日本全国のどこにも見つけられない。 このような海女を対象とする研究は、一九三〇年代から民俗学を筆頭に、歴史学、経済地理学、医療衛生学、労働科学、社会学等において、数多く見つけ出すことができる。しかしながら、海女の表象、特にその裸体の表象に関しては、浮世絵に描かれた海女についての記述を除き、特別な関心は持たれてこなかった。 そこで、本稿では、二十世紀を通してアメリカの「科学」雑誌『ナショナル ジオグラフィック』(National Geographic)に現れた海女の姿から、性的視線を内在させるオリエンタリズムの形成について考察する。ただし、そのような過去(二十世紀)のオリエンタリズム批判「のみ」で、この考察を終わらせてしまえば、既存の反オリエンタリズム的枠組みに留まるだけの論考になってしまう。そこから、太平洋戦争前の海女に関するナショナルな表象に触れると共に、戦後の『ナショナル ジオグラフィック』における海女の表象を維持・補完していたと思われる「観光海女」の存在、及び、海女をとりまく社会環境の変化を取りあげ、オリエンタリズムと国内言説の相互関係について考察を行う。
著者
長島 要一
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.28, pp.323-376, 2004-01

一八四六年八月に浦賀沖に達したビレ提督指揮下のガラテア号の出現が興味深いのは、1.それがとにもかくにも日本―デンマーク文化交流史の第一ページを飾る出来事であり、『故事類苑』外交部にも記事が載っていること、2. デンマークの国旗が史上初めて日本人の目にとまり、両国がお互いの存在を短時間とはいえ認めあったこと、3.デンマーク側の訪問が文字どおりの即興であり、十七世紀半ばのデンマーク東インド会社による二度にわたった日本進出計画挫折の時と同様、またしても情報不足、準備不足で日本を訪問したこと、にもかかわらず、4.上海から浦賀沖に至る航路途上の測量を、クルーゼンシュテルンおよびシーボルトの成果を比較しつつ行っている点、同様に、5.日本と日本人に関する観察を、これも先行文献の記述を対照しながら行い、私見を述べている点に興味をひかれるからである。ビレ提督の日本印象記は、デンマークの教科書中に散見されていた日本関係記事と、クルーゼンシュテルンの『世界周航記』デンマーク語版をのぞけば、日本を訪れたデンマーク人によって書かれた日本論の嚆矢であった。この印象記は、それまでの先行文献からの広い意味での「引用」に過ぎなかったデンマークの日本観が、ほんの短時間にしろ日本の国土と日本人に接し、その印象と評価を書き記した広義の「翻訳(誤訳)」へと質的変換をとげた画期的事件となったのである。以後のデンマーク人による日本記事は、直接に引用してあるかはともかくとして、ビレ提督の日本印象記抜きに語られることはなかった。 本稿は、ビレ提督の日本印象記を先行文献との関連で紹介しつつ、その史料としての特徴を素描し、ビレ提督浦賀沖訪問に関する日本側の史料と照合することにより、あわせてデンマークの日本認識と日本のデンマーク観を浮き彫りにする。 日本側の史料が終始一貫して「記録」にとどまり、その複数の記録がいずれも報告であり判断と評価を欠いているのに対し、ビレ提督の日本印象記は、事実の記録のみならず、先行史料を参照し、それを批判的に吟味する総合的かつ戦略的な「記述」であった。そこに一八四六(弘化三)年浦賀沖で演じられたドラマの象徴的な意味が見出されると思う。そしてそれは、七年後のペリー提督来訪により、大きなドラマに進展するのである。
著者
磯田 道史
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.40, pp.13-42, 2009-11

近世日本の諸藩では、さまざまな、藩政改革がなされた。なかでも、十八世紀後半から十九世紀前半にかけて、全国諸藩に最も影響した藩政改革をあげるとするならば、熊本藩の宝暦改革と水戸藩の天保改革の二つが特筆される。 十九世紀以降、幕府諸藩は近代化にむけた動きをみせはじめるが、この時期には、いくつかの改革モデルを提示する「先駆的な藩」があらわれた。近世中期から後期の藩政改革の展開は、第一段階として一七五〇年ごろから、熊本藩など少数の「先駆的な藩」が藩政改革をすすめ「プロト近代化行政」とでもいうべき行政モデルが形成され、第二段階として、一八〇〇年ごろ、このような先駆的な藩の動きが、松平定信政権のもとで幕府の寛政改革にとりこまれてゆき、全国の諸藩でも相次いで類似の「官制改革」がおこなわれた。そして、第三段階として、一八三〇年ごろ、幕府と水戸藩が天保改革を行い、いわゆる雄藩が登場し、とくに水戸藩の天保改革が「海防」の政策モデルとして諸藩に政策的影響をおよぼすようになった。つまり、熊本藩と水戸藩の改革は一九世紀における日本の近代化の流れに強い影響を与えたといえる。 そこで本稿では熊本藩と水戸藩をとりあげ、両藩の政策を比較検討し、政策的影響の有無をみた。熊本藩の宝暦改革が、後に全国諸藩に大きな影響を与えることになる水戸藩にどのような政策的影響をあたえていたのか。一九世紀前半における日本の近代化を考えるうえで、熊本藩から水戸藩へという流れをみる。一八世紀後半、熊本藩には先駆的な行政モデルが胚胎していた。これが天保改革に帰結していく水戸藩の藩政の動きに、具体的に、どのようにつながるのか。または、つながらないのか。この点を考察した。
著者
姜 鶯燕
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.37, pp.163-200, 2008-03

本稿は、須藤由蔵の手記である『藤岡屋日記』を素材に武士身分の売買と思われる事例を抽出し、近世中後期における武士身分の売買の実態について検討したものである。『藤岡屋日記』の中で十七の武士株の売買の事例が見つかった。分析の結果を下記のようにまとめる。 ① 全ての事例は御家人株の売買であったが、売買の対象となった御家人の役職が多彩であった。御家人の家筋をみると、「御抱席」の御家人もいれば、「御譜代准席」と「御譜代席」の御家人も少なくなかった。 ② 株の売買は密かに行われているように思われるが、実際に、家来に御家人株を買い与えた幕臣もいた。 ③ 御家人株の売買は庶民が武士になる手段として認識されているが、実際に、武家の二男以下の男子や武士身分を失った武士が武士層に戻る手段として御家人株を利用した。 ④ 身分を売った元御家人の中で町人となった者もいたことがわかった。
著者
佐野 真由子
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.48, pp.101-127, 2013-09

本稿は、幕末期に欧米諸国から来日しはじめた外交官らによる、登城および将軍拝謁という儀礼の場面を取り上げ、そのために幕府が準備した様式が、全例を連鎖的に踏襲しながら整備されていく過程を検証する。それを通じて、この時期の徳川幕府における実践的な対外認識の定着過程を把握するとともに、その過程の、幕末外交史における意義を考察することが本稿の目的である。 欧米外交官による江戸城中での外交儀礼は、安政四(一八五七)年十月二十一日におけるアメリカ総領事ハリスの登城・将軍拝謁を初発の事例とするが、その際の様式は、徳川幕府が長い経験を持つ朝鮮通信使迎接儀礼を土台に考案されたのであった。筆者がすでに別稿で詳細を論じたそのハリス迎接を起点として、本稿では、以降数年の動きを追跡する。具体的には、安政五年にオランダ領事館ドンケル=クルティウス、続いてロシア使節プチャーチンを江戸城に迎えるにあたり、幕府内で外交儀礼の定式化をめざして進められた検討の実態、その後、安政六年に再びハリス(アメリカ公使に昇格)が登城した際、日米間に発生した問題と、その解決のため翌万延元(一八六〇)年に実行された同じハリスによる「謁見仕直し」の経緯、さらに、ここまでに検討された式次第が同年、イギリス公使オールコック、フランス代理公使ド=ベルクールの登城・将軍拝謁に準用され、当面の通例として定着に向かう様を、史料から明らかにする。 ここから浮き彫りになるのは、「幕末前期」とも言うべきこの時期の徳川幕府が、従来国交のなかった欧米諸国から次々と外交官が到着する事態に向き合うなかで、その迎接をできるかぎり特別視せず、もとより長きにわたって政権を支えてきた各種殿中儀礼の枠組みの中に取り込み、平常の準備の範囲で彼らに対しうる態勢をつくろうとした努力の過程である。儀礼を窓口に、より広義の解釈を試みるなら、対外関係業務そのものを幕府の一所掌領域として安定させ、持続可能なものにしていこうとする意思が、ここに表れていると言うことができる。
著者
細川 周平
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.35, pp.451-467, 2007-05

ジャズはそれまでの音楽にはない急速で広範囲の伝播を特徴としている。その原型ができあがってまもない一九二〇年代に世界共通語になった背景には、三つの新しい再生技術―電気録音、ラジオ、サウンド同期映画(トーキー)―の力が大きい。 ジャズが地理的な辺境を拡大するにつれて、多くの地元の音楽家はその外来性をいかにして地元の文脈に引き寄せるかという問題にぶつかった。ジャズは生まれた時から圧倒的にアメリカ中心の価値観で世界中に広がったが、各地のアメリカ観・演奏家・評論家・聴衆は、外来モデルの拘束力、個人の嗜好と能力、創造性などの交錯するなかで、それぞれの状況にふさわしく変形し、解釈してきた。日本もまた例外ではなかった。本論はそれをいくつかのパターンに分けて明らかにする。(1) 概念。「日本的ジャズ」と仮に呼ばれるタイプの音楽は昭和十年代から間歇的に提唱された。常にアメリカの物まねではないジャズ、日本人らしいジャズという民族的独自性が含意されてきた。この発想はジャズ界のなかでは常に少数派に属し、主流とはならなかった。時には「間」、「わび」のような伝統的な概念を使ってジャズの日本らしさを言い表すこともあった。これは六〇年代末から七〇年代にかけて、ジャズ界の前衛派のなかで民族主義が強かった時期に顕著だった。(2) 俗調の編曲。ジャズを日本に適応させる最も手軽な方法は民謡、俗曲、三味線曲の編曲で、昭和一ケタ代から試みられてきた。これは明治前半の軍楽隊以来、外来の器楽形式が導入されるたびに繰り返されてきたことで、最近では素材が拡張し、二〇年代の童謡を採り上げた録音が盛んになっている。(3) 日本の旋法の応用。一九五〇年代末、アメリカで新しい音階(旋法)理論にもとづくスタイルが創造されると、それを日本の伝統音階に応用する試みが始まった。雅楽の旋法は日本の音楽のなかでも特異だが、それを応用した録音が八〇年代以降、いくつか現れている。伝統楽器の採用。六〇年代初頭、筝と共演が試みられて以降、尺八や能管、鼓、太鼓、笙などがジャズ演奏に加わってきた。これは西洋人のリードないしあるいは西洋での演奏のために企画されることが多い。日本らしさを視覚的にも音響的にも最も明確に打ち出す方法といえる。