著者
将基面 貴巳
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.55, pp.63-72, 2017-05-31

現在、欧米のみならず日本でも学会を揺るがせている問題のひとつに「人文学の危機」がある。ネオ・リベラリズムの席巻に伴い、人文学のような、国民経済に直接的に貢献しない学問は「役に立たない」という議論が横行するようになっている。その結果、人文学系学部・学科は各国政府やメディアからの攻撃にさらされつつある。いわゆる「日本研究」の分野に属する研究の多くは人文学的なものである以上、「人文学の危機」という問題を傍観視するわけにはゆかないであろう。実際、日本国内外を問わず、人文学系の研究者たちは、人文学の意義について積極的に発言するようになっている。しかし、そうした発言の多くは、ネオ・リベラル的潮流への批判であり、人文学の自己弁護に終始し、人文学的研究と教育の現状を再検討する視点が総じて欠落している。
著者
笠谷 和比古
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.3, pp.p35-63, 1990-09

徳川幕府体制の下での特異な政治的問題の一つとして、「大名改易」のあったことは周知の通りである。それは軍事的敗北、血統の断絶、法律違反などの諸理由に基づいて、大名の領地を幕府が没収し、当該大名がそれまで保持してきた武家社会内での身分的地位を剥奪してしまうものであった。徳川時代にはこの大名改易が頻繁に執行され、結果的に見れば、それによって幕府の全国支配の拡大と安定化がもたらされたこと、また改易事件の幾つかは、その理由が不可解に見えるものがあり、それによって有力大名が取り潰されてもいることからして、この大名改易を幕府の政略的で権力主義的な政策として位置づけるのは定説となっている。そしてまたそのような大名改易の歴史像が、徳川幕府体制の権力構造、政治秩序一般のあり方を理解するうえでの重要な根拠をなしてきた。 しかしながらそのような大名改易の歴史像は、幕府に事後的な利益をもたらしたという結果的な見地から導き出されたものであって、個々の大名改易事件がどのような事情と経緯に基づくかの、事実関係の面での研究は多くないのが実情である。それ故に本稿では、この大名改易の二大疑獄とされる広島藩四九万石の福島正則と熊本藩五二万石の加藤忠広の両改易事件について、福島正則自身の書状などの同時代史料に依拠して事態の事実確認を中心に考察する。そして本稿の続編(次号掲載予定)において、自余の改易事例をも踏まえながら、徳川時代の大名改易という歴史事象の一般的な意義解明を試みる。
著者
松田 利彦
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.35, pp.469-490, 2007-05

本稿は、近代日本植民地における「憲兵警察制度」を素材に、近年の「帝国史」研究で提唱されている「統治様式の遷移」という研究手法の可能性と限界について考察した。 憲兵警察制度は、日露戦後、朝鮮で分立していた文官警察と軍事警察を統合する仕組みとして一九一〇年に生みだされ、「憲兵の文官警察官職への人用(憲兵に文官警察官に対する指揮権を付与するための措置)」と「憲兵の普通業務への従事」というシステムによって文官警察と軍事警察を制度的に架橋していた。この後、憲兵警察制度は、関東州における「憲兵警察制度」(一九一七~一九年)、「満州国」における「在満大使館警務部」による在満日本警察機関の統合(一九三四~三七年)に継受された。しかし、これらの事例において、「憲兵の文官警察官職への任用」については朝鮮→関東州→満州の順に弱くなり、「憲兵の普通警察業務への従事」は朝鮮以外のケースでは採用されていない。「憲兵警察制度」を「統治様式の遷移」の典型例と見なすことは可能だが、ここの植民地固有の状況に規定された変容も小さくなかった。
著者
須藤 遙子
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.40, pp.393-409, 2009-11

二〇〇五年は自衛隊の協力を前面に打ち出した映画が、大規模な宣伝を伴って続々公開され始めた年である。これらの作品群は「愛国」や「自己犠牲」といった共通のメッセージや政治性を帯びており、この傾向は現在でも続いている。本稿では、自衛隊が製作に協力する一般劇映画(以下、自衛隊協力映画)を一つの映画ジャンルとして捉え、その内容と製作のあり方を検証する。防衛省の通達により、自衛隊協力映画は自衛隊員のみならず、戦車・戦闘機・戦艦までもが無償で提供されるため、製作側からのオファーが続いている。『亡国のイージス』『戦国自衛隊一五四九』『男たちの大和/YAMATO』『ローレライ』『ミッドナイトイーグル』『日本沈没』などの具体的内容を検証していく。次に、二〇〇八年秋に大きな政治問題となった、前航空幕僚長の田母神敏夫による論文が主張する内容と自衛隊協力映画との共通性をとりあげる。田母神は「国防という重大な使命」を達するために構築すべき、防衛力の基盤としての「愛国心」を問題としている。一九六一年に制定された「自衛官の心がまえ」の内容とほぼ一致する田母神論文は、「ことに臨んでは、身をもって職責を完遂する」ような「健全な国民精神」の構築を訴えているのだ。田母神論文には厳しい批判をしたマスコミ各社だが、自衛隊協力映画の製作委員会に入っていることで、自社媒体の主張とは異なるプロパガンダを積極的に流している。一般全国紙及び系列の民放キー局は全て、何かしらの自衛隊協力映画に出資している。現代においてはマスコミ各社も映画産業の一部となり、政治・経済・文化とマス・メディアのポジショニングはさらに複雑化している。それが最も顕著に表れているのが、「自衛隊協力映画」というジャンルといえる。「自衛隊協力映画」という新しいジャンルを主張することで、映画というポピュラー文化に浸透する政治性を明らかにするのが目的である。
著者
山田 奨治
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.19, pp.15-34, 1999-06

オイゲン・ヘリゲル著『弓と禅』は、日本文化論として広く読まれている。この論文では、ヘリゲルのテクストやその周辺資料を読み直し、再構成することによって、『弓と禅』の神話が創出されていった過程を整理した。はじめに弓術略史を示し、ヘリゲルが弓術を習った時点の弓術史上の位置づけを行った。ついでヘリゲルの師であった阿波研造の生涯を要約した。ヘリゲルが入門したのは、阿波が自身の神秘体験をもとに特異な思想を形成し始めた時期であった。阿波自身は禅の経験がなく、無条件に禅を肯定していたわけでもなかった。一方ヘリゲルは禅的なものを求めて来日し、禅の予備門として弓術を選んだ。続いて『弓と禅』の中で中心的かつ神秘的な二つのエピソードを選んで批判的検討を加えた。そこで明らかになったことは、阿波―ヘリゲル間の言語障壁の問題であった。『弓と禅』で語られている神秘的で難解なエピソードは、通訳が不在の時に起きているか、通訳の意図的な意訳を通してヘリゲルに理解されたものであったことが、通訳の証言などから裏付けられた。単なる偶然によって生じた事象や、通訳の過程で生じた意味のずれに、禅的なものを求めたいというヘリゲル個人の意志が働いたことにより、『弓と禅』の神話が生まれた。ヘリゲルとナチズムの関係、阿波―ヘリゲルの弓術思想が伝統的なものと錯覚されて、日本に逆輸入、伝播されていった過程を明らかにすることが今後の研究課題である。
著者
佐藤 信
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = Nihon Kenkyū (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.51, pp.63-95, 2015-03-31

本稿は、近代日本の典型的な権力者である山県有朋とその館を事例として、空間と政治の連関を研究したものである。椿山荘(東京)や無隣庵(京都)、古稀庵(小田原)といった山県の邸宅はその庭によってよく知られているが、それらの館がどのように使われていたか明らかではないところも多い。本稿は、山県有朋関係文書や田中光顕関係文書などの政治史史料を用いることで、この問題に取り組んだ。
著者
平松 隆円
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.34, pp.89-130, 2007-03

仏教では、女性は不浄な穢れた生き物と考えられてきた。そして、僧は女性と交接を行うことを「女犯」として戒律で禁じられ、そのため「女犯」の罪を避けるため、僧は男性、とりわけ稚児を交接の対象としてきたといわれている。 なぜ、僧は女性と交接が行えないという理由で、稚児をその対象としたのか。本研究では、仏教的視点から僧と稚児との男色関係の構造を検討した。 その結果、僧にとって、稚児との交接は単に女性と交接が禁じられているために、性欲の処理という意味だけで行われていたわけではないことがわかった。僧にとって稚児との交接は、現世に醜貌として生まれたがゆえに僧となった者の、美貌である稚児への憧れと、稚児が菩薩であるとする児灌頂の思想のもと、救済と功徳を得るための仏教的な行為として意味づけられ、行われていたのである。
著者
平松 隆円
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.34, pp.89-130, 2007-03

仏教では、女性は不浄な穢れた生き物と考えられてきた。そして、僧は女性と交接を行うことを「女犯」として戒律で禁じられ、そのため「女犯」の罪を避けるため、僧は男性、とりわけ稚児を交接の対象としてきたといわれている。 なぜ、僧は女性と交接が行えないという理由で、稚児をその対象としたのか。本研究では、仏教的視点から僧と稚児との男色関係の構造を検討した。 その結果、僧にとって、稚児との交接は単に女性と交接が禁じられているために、性欲の処理という意味だけで行われていたわけではないことがわかった。僧にとって稚児との交接は、現世に醜貌として生まれたがゆえに僧となった者の、美貌である稚児への憧れと、稚児が菩薩であるとする児灌頂の思想のもと、救済と功徳を得るための仏教的な行為として意味づけられ、行われていたのである。
著者
山田 奨治
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.19, pp.15-34, 1999-06-30

オイゲン・ヘリゲル著『弓と禅』は、日本文化論として広く読まれている。この論文では、ヘリゲルのテクストやその周辺資料を読み直し、再構成することによって、『弓と禅』の神話が創出されていった過程を整理した。はじめに弓術略史を示し、ヘリゲルが弓術を習った時点の弓術史上の位置づけを行った。ついでヘリゲルの師であった阿波研造の生涯を要約した。ヘリゲルが入門したのは、阿波が自身の神秘体験をもとに特異な思想を形成し始めた時期であった。阿波自身は禅の経験がなく、無条件に禅を肯定していたわけでもなかった。一方ヘリゲルは禅的なものを求めて来日し、禅の予備門として弓術を選んだ。続いて『弓と禅』の中で中心的かつ神秘的な二つのエピソードを選んで批判的検討を加えた。そこで明らかになったことは、阿波―ヘリゲル間の言語障壁の問題であった。『弓と禅』で語られている神秘的で難解なエピソードは、通訳が不在の時に起きているか、通訳の意図的な意訳を通してヘリゲルに理解されたものであったことが、通訳の証言などから裏付けられた。単なる偶然によって生じた事象や、通訳の過程で生じた意味のずれに、禅的なものを求めたいというヘリゲル個人の意志が働いたことにより、『弓と禅』の神話が生まれた。ヘリゲルとナチズムの関係、阿波―ヘリゲルの弓術思想が伝統的なものと錯覚されて、日本に逆輸入、伝播されていった過程を明らかにすることが今後の研究課題である。
著者
永岡 崇
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.47, pp.127-169, 2013-03-29

本稿は、異なる立場の人びとが「知の協働制作者」(Johannes Fabian)として直接的に接触・交渉しあいながら宗教の歴史を描いていく営みを協働表象と名づけ、具体的な事例を検討しながらその意義を明らかにしようとするものである。その事例は、一九六〇年代に行われた『大本七十年史』編纂事業である。近代日本の代表的な新宗教として知られる大本が、歴史学者・宗教学者らとともに作りあげた『七十年史』は、協働表象の困難さと可能性を際立った形で提示している。
著者
平松 隆円
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.34, pp.89-130, 2007-03-31

仏教では、女性は不浄な穢れた生き物と考えられてきた。そして、僧は女性と交接を行うことを「女犯」として戒律で禁じられ、そのため「女犯」の罪を避けるため、僧は男性、とりわけ稚児を交接の対象としてきたといわれている。
著者
永岡 崇
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.47, pp.127-169, 2013-03

本稿は、異なる立場の人びとが「知の協働制作者」(Johannes Fabian)として直接的に接触・交渉しあいながら宗教の歴史を描いていく営みを協働表象と名づけ、具体的な事例を検討しながらその意義を明らかにしようとするものである。その事例は、一九六〇年代に行われた『大本七十年史』編纂事業である。近代日本の代表的な新宗教として知られる大本が、歴史学者・宗教学者らとともに作りあげた『七十年史』は、協働表象の困難さと可能性を際立った形で提示している。 大本という宗教団体の七〇年にわたる歴史を描くというこの事業は、大本に集った人びとの過去だけでなく、現在と未来のありように密接にかかわるものであった。新宗教の矛盾や葛藤に満ちた歴史のなかに研究者が介入し、多様な信仰、多様な経験に秩序を与え、そのざわめきを鎮めていくことは、来るべき信仰や実践のありように規範を提示していくことでもある。大本内部で平和運動を推進する出口栄二や事業に参加した歴史学者は、近代日本の支配体制に対抗する異端として、また一貫した平和主義的宗教としての大本の「本質」を創造していた。 彼らによって構築される「本質」は、そこに回収されきらない多様な歴史的経験を排除するか、副次的なものとして劣位に置くことになる。だが、古参の信徒が抱えるそうした歴史的経験や、史料の読解よりも「本質」を優先させる物語の過剰にたいする若手研究者の反発は、首尾一貫した滑らかな歴史が内包する暴力性を浮き彫りにするのである。 協働表現の意義は、おそらく成果として出来上がった歴史叙述そのもののなかにではなく、その過程で生起する自己変容の経験、越えがたい差異の経験、そして他者を前にして自分の行使する暴力に気付かされる経験のなかにこそある。もっともこうした経験は、当事者によってはうまく分節化できないこともある。協働の場に介入する分析者の役割は、そこに沈殿した経験の意味を開示し、さらにそれを公共的議論へと接続することなのだ。
著者
鈴木 洋仁
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.54, pp.79-104, 2017-01

本稿は、「平成」改元にあたって、小渕恵三官房長官(当時)が行った記者会見を分析することによって、大日本帝国憲法(1889)と日本国憲法(1947)における天皇の位置づけの相違を分析するものである。具体的には、改元を天皇による「時間支配」の究極の形式と定義したうえで、「平成」改元における、(1)政治性、(2)公共性、(3)メディア性という3点の違いを抽出する。なぜなら、日本国憲法においても、大日本帝国憲法と同様、「一世一元」の原則が法律で定められているからである。 改元の政治性とは、改元における権力を、誰が持っているのか、という点であり、天皇から内閣へと移っている。すなわち、天皇は、改元の場面において、政治性を帯びていない。そして、改元の公開性とは、「平成」改元すなわち、日本国憲法下での改元においては、記者会見を開いたという点である。対して1926年の「昭和」改元においては、記者会見が開かれなかったために、新元号を「光文」とする誤報事件が起きていた。最後の改元のメディア性とは、発表する側が、メディアを意識していたか否か、という点である。「昭和」においては、意識するほどにメディアは発達していなかったが、「平成」においては「テレビ時代だから」として、新元号を発表する当時の内閣官房長官が「平成」の書を掲げるほどの発展を遂げていた。 以上のことから、本稿は、「時間支配」という点において、「昭和」改元は、その完成形態であり、「平成」改元は、「視覚的支配」をも組み入れた新たな「時間支配」であると結論づけている。

12 0 0 0 IR 布衣始について

著者
近藤 好和
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.42, pp.11-36, 2010-09

本稿は、これまで研究のなかった天皇装束から上皇装束へ移行する転換点となる布衣始(ほういはじめ)という儀礼の実態を考察したものである。 第一章では、布衣始考察の前提となる天皇装束と上皇装束の相違をまとめた。公家男子装束は必ず冠か烏帽子を被り、冠対応装束と烏帽子対応装束に分類できる。天皇は冠しか被らず、冠対応装束のうち束帯と引直衣という特殊な冠直衣だけを着用した。一方、上皇は臣下と同様に烏帽子対応装束も着用した。かかる烏帽子対応装束の代表が布衣(狩衣)であり、布衣始とは、天皇譲位後初めて烏帽子狩衣を着用する儀礼である。 ついで宇多から正親町まで(一部近世を含む)のうち上皇だけを対象として、古記録を中心とする諸文献から布衣始やそれに関連する記事を抜き出し、第二章平安時代(宇多~安徳)、第三章鎌倉時代(後鳥羽~光厳)、第四章南北朝時代以降(後醍醐~正親町)の各時代順・各上皇順に整理して、布衣始の実態を追った。 天皇装束と上皇装束の相違は摂関期から認識されていたが、上皇が布衣を着用するという行為が意識されるようになるのは高倉・後白河からであり、それが布衣始という儀礼として完成し、天皇退位儀礼の一環として位置づけられるようになるのは鎌倉時代、特に後嵯峨以降である。さらに南北朝時代には北朝に継承され、室町時代には異例が多くなり、上皇のいない戦国時代を経て、江戸時代で復活するという流れがわかった。 最後に、布衣始が院伝奏や院評定制といった院政を運営する制度と同じく後嵯峨朝で完成した点に注目し、布衣始の成立と定着もかかる流れの一環として理解することができ、布衣始が伝奏や評定が行われた院政の中心的場である仙洞弘御所で行われたことから、布衣始は院政開始儀礼であり、布衣という装束を媒介として天皇の王権から上皇(「治天の君」)という新たな王権への移行を可視的に提示する儀礼であったという見通しを述べた。
著者
笠谷 和比古
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.16, pp.33-48, 1997-09

徳川家康の姓氏問題は複雑である。家康はその血統的系譜を清和源氏の流れを汲む新田一族の一人得川四郎義季の末裔たることに求め、自らの姓氏を清和源氏と定めたとされるが、これは天下の覇権を掌握した家康が、慶長八(一六〇三)年の征夷大将軍任官を控えて系譜の正当化をはかる目的で、そのような始祖伝承を無理に付会していったものであるとこれまで見なされてきた。しかし家康宛の朝廷官位叙任に関する口宣を分析した米田雄介氏の近年の研究成果は、このような通説的歴史像に疑義を生じさせるものとなっている。本稿はこれらの研究史を踏まえ、かつ家康関係文書の再検討を通して、家康の姓氏の変遷を追究する。それは単に、家康の源氏改姓の時期のいかんを求める事実問題としてだけではなく、姓氏の変遷に表現されたこの時期の国政上の意義にかかわる問題でもある。本稿では、この家康の源氏改姓問題を通して、豊臣秀吉の関白政権時代の国制はその下に事実上の徳川将軍制を内包するような権力の二重構造的性格を有するものであったことを論じる。
著者
細川 周平
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.34, pp.209-248, 2007-03

録音を黙って鑑賞する喫茶店(レコード喫茶と仮に呼ぶ)は日本独自の音楽空間といえる。本論はそのひとつであるジャズ喫茶が昭和初年に生まれ、昭和十年代にスウィングの流行とともに定着した過程を追う。レコード喫茶は録音に依存して欧米音楽を受容せざるを得なかった日本の状況と深く関わっている。録音は大正時代、「缶詰音楽」と軽蔑されるどころか、コンサート興行の基盤が未熟であるために生で演奏を聴けない曲種を知るのに不可欠なテクノロジーとして洋楽評論家に高く評価された。レコード鑑賞空間はそのような前提から生まれた。震災後、カフェが女給のエロティシズムを売り物にしたのに対して、その姉妹施設、喫茶店は主に大学生や若い社会人相手にもっと親密な雰囲気、趣味的なサービスを売り物にした。レコード喫茶は彼ら向けの音楽を聞かせることで一般の喫茶店と区別を図り、レコード、オーディオ、サービス・ガール、インテリアの四つの要素で店の特徴を出した。女給目当ての客も少なくなかったようだが、店の看板はレコード収集と高価な再生装置だった。ジャズ喫茶の始まりには昭和初年の都市中間層の拡大、彼らの新しい娯楽のかたちや感性、趣味の洗練への関心、文化ヒエラルキー観、音響テクノロジーの発展、レコード市場の拡大、ニッチ市場の確立などが関わっている。ジャズ喫茶の勃興はスウィングの人気に刺激された面がある。スウィングは一九二〇年代の白人ジャズと異なり、個人の即興を重んじ、ヨーロッパ音楽の亜流ではない新しい美学を打ち出した。スウィング支持者はそのレコードをダンスの伴奏ではなく、鑑賞に足る芸術と見なし、それにふさわしい世評を書き、演奏家や名曲の録音歴(ディスコグラフィー)を調査した。中古盤市場も充実した。ジャズ喫茶は静寂のなかでレコードを聴きこむ雰囲気を作り出した。それは私財を投資した公共的なレコード収集庫として機能し、愛好家集団の経緯・知識の拠点となった。
著者
笠谷 和比古
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.4, pp.p123-147, 1991-03

前稿(一)においては、福島正則と加藤忠広の二大名の改易事件について検討した。その結果、両改易ともに、幕府側の政略的な取り潰しということはできず、むしろ両大名側に処罰されて致し方のない重大な違法行為のあることが否定できないことが明らかとなった。このように徳川幕府の大名改易政策は、従前考えられてきたような政略的で権力主義的な性格のものではないのである。そしてこのことは、この大名改易の実現過程における、その実現のあり方という面についても言いうる。本稿では大名改易の実現過程を、改易の決定過程と、当該大名の居城と領地の接収を行うその執行過程とに分けて見ていく。秘密主義と権力主義という幕府政治についての一般通念と異なって、大名改易政策の実現過程に見られるのは、諸大名へのそれぞれの改易事情の積極的な説明であり、城地の接収に際しての大名領有権に対する尊重と配慮であった。
著者
Baskind James
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.37, pp.125-161, 2008-03

ラフカディオ・ハーン、小泉八雲(一八五〇-一九〇四)が、広範囲に亘って、日本の紹介と理解に大いに貢献した人であることは誰もが認めるだろう。しかし、ハーンの影響は民俗学や昔話に限られているわけではない。ハーンには日本の宗教や信仰、精神生活についての深みのある分析も非常に多くあり、宗教関係のテーマが、ハーンの全集の大半を占めているといってよい。それゆえ、今日、ハーンは西洋人に日本文化や仏教を紹介した解釈者としても知られている。そして同時にハーバート・スペンサーの解釈者でもあり、多くの仏教についての論述中にはスペンサーの思想と十九世紀の科学思想と仏教思想とを比較しながら、共通点を引き出している。ハーンにとっては、仏教と科学(進化論思想)は相互排他的なものではなかった。むしろ、科学的な枠組を通じて仏教が解釈できると同時に、仏教的な枠組で進化論の基本的な思想がより簡単に理解できると信じていた。この二つの思想形を結びつけるのが、業、因果応報、そして輪廻思想である。ハーンが作り上げた科学哲学と宗教心との融合は、ただハーン自身の精神的安心のためだけではなく、東西文明の衝突による傷を癒すためにもあった。