- 著者
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宮武 慶之
- 出版者
- 学習院大学
- 雑誌
- 人文 (ISSN:18817920)
- 巻号頁・発行日
- no.13, pp.252-223, 2014
江戸時代を通じ溝口家は新潟新発田を中心とした下越地方を治めた。歴代藩主は文芸や茶の湯に親しんだため、多くの道具を所蔵した。それらの道具の大半は明治三七年の売立およびそれ以前の個人取引で流出した。溝口家の売立目録は確認されていない。調査により松山喜太郎(一八三六─一九一六)による「つれづれの友」を息子・米太郎(一八七〇─一九四二)が写した写本の存在を確認した。「つれづれの友」には溝口家の売立に関する記述があり、この点から当時の周縁を明らかにする。本稿では筆者のこれまでの調査から美術品の移動とそれに関係する人物の関係、溝口家の当時の家政状況などを明らかにした。調査により溝口家の道具流出は当時の当主であった溝口直正の意向と次女・久美子の輿入れも関係していることが判明した。明治期の溝口家のコレクションの大半が流出する点を明らかにすることができれば近世大名家の道具流出の実態の一例を溝口家においてみることができるものと考える。In the Edo period, the Mizoguchi House governed the Shibata-Niigata district. In Meiji 37, items from the Mizoguchi House were sold off. However, very few records from those days remain. A writer discovered Tsurezure-no-tomo, which is a document articling the sale of items in the Meiji Era. Tsurezure-no-tomo was written by Ginsho-an, Kitaro Matsuyama. In a part for a main subject, the background out of which the tool of Mizoguchi house flows Tsurezure-no-tomo into reference is discussed.