著者
秋葉 和温
出版者
養賢堂
雑誌
畜産の研究 (ISSN:00093874)
巻号頁・発行日
vol.67, no.4, pp.485-492, 2013-04

1906年(明治39年)の春,Lissabonで開かれたIntemationaler Medizinischer Kongressに出席し,たまたま重症を発して帰り,直ちにHamburgのEppendorf(エツペンドルフ)病院に入院した。その病気の原因は遠くさかのぼって,彼の自家実験にあったもので,激烈な肛門周囲炎を起こしたのであった。大腸の膿瘍は腹腔に溢れ,Notoperation(救急手術)のかいもなく,同年6月20日(1906年6月22日‐高田)昇天,彼の霊はこの世を去った。わずかに35歳の壮者は,わが学術界に大きな足跡を残して,昇天したのである。Hamburgの研究所より出版した615SeiteのSammelausgabeは,この天才的研究者の最後を飾るものである(1911出版)。この若い堅実な学者を失ったのは,測り知れぬ人類の不幸,かつ大きな損失で,世界の学界はみなこの不幸を悲しみ弔ったのであった。トーマス・D・ブロック著,長木大三・添川正男訳「ローベルト・コッホ」の236ページにはノーベル賞の項で,「1905年(明治38年)にはフリッツ・シャウディン(1871‐1906)が受賞者として指名されていた。シャウディンは原生動物について重要な報告を出していたが(その中のいくつかはのちに誤りとわかった),1905年春,エリッヒ・ホフマン(1866‐1959)と協力し梅毒の病原体としてスピロヘータ・バリダ(のちにトレポネーマ・パリドムと命名)を発見したと報告した。1905年4月末,当時パストウール研究所長であったエリー・メチニコフはシャウディンの指名についてノーベル賞委員会へ書簡を出した。私はシャウディンの仕事を高く評価はするが,ノーベル賞の候補者として支持することはできません。私は多年にわたりコッホを受賞者として推薦してきましたが,コッホが受賞しないかぎり,他の候補者を支持することはできません。私の意見では,ローベルト・コッホの医学への貢献は,他のすべての可能性のある候補者よりもはるかに超越したものであります。」と記載されている。そして「ノーベル賞委員会もついに決意した。1905年12月12日,彼の誕生日の翌日,コッホは受賞した。(当時の金額で15万ドイツマルク)。"ドイツ医学週報"には次のように記述されている。「"これ以上受賞にふさわしい人は考えられない"」と。

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