著者
官 文娜
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要
巻号頁・発行日
vol.28, pp.145-175, 2004-01-31

日本古代国家の成立から律令制の完成にかけての時期と見なされる六世紀から八世紀半ばにかけては、王位をめぐる争いが頻発した時期であると同時に王位の継承に関してもさまざまな特色を持つ、波乱に富んだ時代である。この時期、王位継承の最大の特徴は兄弟姉妹による継承である。一部の研究者はその姉妹を含んだ兄弟による継承を、直系継承制中の「中継」と考えていた。しかし筆者はその見解には賛成できない。以下、日本のこの時代の王位継承の実態、また中国古代の継承制における「兄終弟及」、直系継承およびそれを実行する条件、日本の女性継承などの問題について検討し、さらに日本古代社会における王位継承の特質を中心に血縁集団構造の分析もあわせて行いたい。 本論は以下の項目に分けて検討している。一、王位継承の意味、二、兄弟姉妹継承の実態と「直系」説、1、日本古代社会における兄弟姉妹継承と中国殷の「兄終弟及」、2、王位候補者と継承者の資格、3、直系継承と立太子、4、持統~元明天皇以後の立太子と譲位、三、女帝の継承、1、女帝登極の正統性、2、女帝の身分と女帝継承の性格。 以上の問題の研究によれば、この時代の王位の継承には以下の五つの特徴が見られる。第一に、継承者が成人しなければ王位に即けないという不文律があった。この不文律のもとで被継承者の兄弟(日本では姉妹も含む)は常に必然的に継承者となった。第二に、王位を継承した兄弟または姉妹はいったん王位に即けば、死ぬまで譲位しない。つまり、兄弟姉妹が即位すれば高齢になっても死ぬまで前帝の後裔にバトンを渡さなかった。それも不文律であった。このように日本において兄弟姉妹による継承は、直系継承制のもとでの一時的な補助としての「中継」とは異なるものであった。第三に、伝統に則り、勇力豪族の合議によって継承者を推戴していた習慣があるため、合議される継承者の範囲は被継承者の子だけではなく、兄弟姉妹および彼らの子も含む皇族内の全員が王位継承の資格を持っている。第四に、太子を立てても、その太子は必ずしも即位するわけではなく、立太子は往々にして形式的になる。また太子は前天皇の子に限らず、選定の仕方には、直系継承の意図は見られない。第五に、この時期には、皇族の女性は皇女でも皇女と皇后の二重の身分でも堂々と登極できたため、女帝が頻出した。 これらの特徴から明らかなように、日本において王位の直系継承は行われておらず、またそれはあり得ないことであった。なぜなら、日本では皇族の中で単位家族が未だ独立も、成立もしていなかったからである。中国においては、王を中心とする単位家族としての血縁集団内における権力、財産などの分配・相続の権利を守るために、王は必ず王の息子を継承者とする必要があった。日本では継承者は皇族内の全員から生み出され、またそれによって一族の権力や財産が守られた。そして、中国とは異なり、皇族内の女性も男性同様皇族としての成員資格を持っていたために、皇族内の極端な近親婚が行われ、その結果彼女らは皇后や女帝となり得たのである。こうした特徴はすべて血縁親族集団の構造がしからしめるものであった。 以上、本論文において日本古代における血縁集団構造の父系擬制的、被出自集団としての無系あるいは血統上での未分化のキンドレッドの性格が明らかになったと認識している。

言及状況

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皇后や内親王などの、特に帝の血縁者の女性には政治家としての側面がどれほどあったのか知りたいです。 例えば、里中満智子の漫画の「女帝の手記」という孝謙天皇の話の中で、母親の光明皇后の政治家としての振舞いが見事だと表現されていることや、源氏物語で、光源氏が尼僧になった藤壺に相談する場面の中で「藤壺はもう立派な政治家になっている」と表現されている資料がありました。

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