著者
北條 勝貴
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.148, pp.7-39, 2008-12

古代日本における神社の源流は、古墳後期頃より列島の多くの地域で確認される。天空や地下、奥山や海の彼方に設定された他界との境界付近に、後の神社に直結するような祭祀遺構が見出され始めるのである。とくに、耕地を潤す水源で行われた湧水点祭祀は、地域の鎮守や産土社に姿を変えてゆく。五世紀後半~六世紀初においてこれらに生じる祭祀具の一般化は、ヤマト王権内部に何らかの神祭り関係機関が成立したことを示していよう。文献史学でいう欽明朝の祭官制成立だが、〈官制〉として完成していたかどうかはともかく、中臣氏や忌部氏といった祭祀氏族が編成され、中央と地方を繋ぐ一元的な祭祀のあり方、神話的世界観が構想されていったことは確かだろう。この際、中国や朝鮮の神観念、卜占・祭祀の方法が将来され、列島的神祇信仰の構築に大きな影響を与えたことは注意される。律令国家形成の画期である天武・持統朝には、飛鳥浄御原令の編纂に伴って、祈年祭班幣を典型とする律令制祭祀や、それらを管理・運営する神祇官が整備されてゆく。社殿を備えるいわゆる〈神社〉は、このとき、各地の祭祀スポットから王権と関係の深いものを中心に選び出し、官の幣帛を受けるための荘厳された空間―〈官社〉として構築したものである。したがって各神社は、必然的に、王権/在地の二重の祭祀構造を持つことになった。前者の青写真である大宝神祇令は、列島の伝統的祭祀を唐の祠令、新羅の祭祀制と対比させつつ作成されたが、その〈清浄化イデオロギー〉は後者の実態と少なからず乖離していた。平安期における律令制祭祀の変質、一部官社の衰滅、そして令制以前から存在したと考えられる多様な宗教スポットの展開は、かかる二重構造のジレンマに由来するところが大きい。奈良中期より本格化する神階制、名神大社などの社格の賜与は、両面の矛盾を解消する役割を期待されたものの、その溝を充分に埋めることはできなかった。なお、聖武朝の国家的仏教喧伝は新たな奉祀方法としての仏教を浮かび上がらせ、仏の力で神祇を活性化させる初期神仏習合が流行する。本地垂迹説によってその傾向はさらに強まるが、社殿の普及や神像の創出など、この仏教との相関性が神祇信仰の明確化を生じた点は無視できない。平安期に入ると、律令制祭祀の本質を示す祈年祭班幣は次第に途絶し、各社奉祀の統括は神祇官から国司の手に移行してゆく。国幣の開始を端緒とするこの傾向は、王朝国家の成立に伴う国司権力の肥大化のなかで加速、やがて総社や一宮の成立へと結びつく。一方、令制前より主な奉幣の対象であった畿内の諸社、平安京域やその周辺に位置する神社のなかには、十六社や二十二社と数えられて祈雨/止雨・祈年穀の対象となるもの、個別の奉幣祭祀(公祭)を成立させるものが出現する。式外社を含むこれらの枠組みは、平安期における国家と王権の関係、天皇家及び有力貴族の信仰のあり方を明確に反映しており、従来の官社制を半ば超越するものであった。以降、神社祭祀は内廷的なものと各国個別のものへ二極分化し、中世的神祇信仰へと繋がってゆくことになるのである。

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