著者
一ノ瀬 俊也
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.131, pp.51-84, 2006-03-25

戦場における佐倉歩兵第五七連隊の行動は、いくつかの連隊史や回想録で比較的よく知られている。しかし、兵士たちの平時の日常生活、意識については不明な点も多いように思われる。本稿は一九三四(昭和九)年に連隊のある上等兵がほぼ毎日書いていた日記帳の内容を分析して、連隊の兵士が毎日どのような訓練・生活を送っていたのかを再構成することを目的とする。日記の筆者は(おそらく)三三年一月現役入営し、翌三四年七月一九日除隊している。日記帳にはこのうち三四年一月一日から除隊後の同年八月一八日までの記述がある。具体的に千葉での演習・勤務、富士山麓での演習、対抗競技と連隊への帰属意識、日常の衣食住、私的制裁、連隊と地域社会との関わり、といった諸テーマを設定して、兵士たちの〈日常〉の再構成に努めるとともに、彼らが自己の所属する軍隊をどうみていたのか、それは帝国軍隊の支持基盤たりえたのか、といった問題にも展望を示したい。なお、参考資料として、本日記の全文を連隊生活とは直接関係のない除隊後のものを除き、翻刻した。
著者
久留島 典子
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.182, pp.167-180, 2014-01-31

戦功を記録し、それを根拠に恩賞を得ることは、武士にとって最も基本的かつ重要な行為であるとみなされており、それに関わる南北朝期の軍忠状等については研究の蓄積がある。しかし戦国期、さらには戦争がなくなるとされる近世において、それらがどのように変化あるいは消失していくのか、必ずしも明らかにされていない。本稿は、中世と近世における武家文書史料の在り方の相違点、共通点を探るという観点から、戦功を記録する史料に焦点をあてて、その変遷をみていくものである。明治二年、版籍奉還直前の萩藩で、戊辰戦争等の戦功調査が組織的になされた。そのなかで、藩の家臣たちからなる軍団司令官たちは、中世軍忠状の典型的文言をもつ記録を藩からの命令に応じて提出し、藩も中世同様の証判を据えて返している。これを、農兵なども含む有志中心に編成された諸隊提出の戦功記録と比較すると、戦死傷者報告という内容は同一だが、軍忠状という形式自体に示される儀礼的性格の有無が大きな相違点となっている。すなわち幕末の藩や藩士たちは、軍忠状を自己の武士という身分の象徴として位置付けていたと考えられる。ではこの軍忠状とは、どのような歴史的存在なのか。恩賞給与のための軍功認定は、当初、指揮官の面前で口頭によってなされたとされる。しかし、蒙古襲来合戦時、恩賞決定者である幕府中枢部は戦闘地域を遠く離れた鎌倉におり、一方、戦闘が大規模で、戦功認定希望者も多数にのぼったため、初めて文書を介した戦功認定確認作業がおこなわれるようになったという。その後、軍事関係の文書が定式化され、戦功認定に関わる諸手続きが組織化されていった結果が、各地域で長期間にわたって継続的に戦闘が行われた南北朝期の各種軍事関係文書であったとされる。しかし一五世紀後半にもなると、軍事関係文書の中心は戦功を賞する感状となり、軍忠状など戦功記録・申告文書の残存例は全国的にわずかとなる。ところがその後、軍忠状や頸注文は、室町幕府の武家故実として、幕府との強い結びつきを誇示したい西国の大名・武士たちの間で再び用いられ、戦国時代最盛期には、大友氏・毛利氏などの戦国大名領国でさかんに作成されるようになった。さらに豊臣秀吉政権の成立以降、朝鮮への侵略戦争で作成された「鼻請取状」に象徴されるように、戦功報告書とその受理文書という形で軍功認定の方式は一層組織化された。関ヶ原合戦と二度の大坂の陣、また九州の大名家とその家臣の家では、近世初期最後の戦争ともいえる島原の乱に関する、それぞれ膨大な数の戦功記録文書が作成された。この時期の軍忠状自体は、自らの戦闘行動を具体的に記したもので、儀礼的要素は希薄である。しかもそれらは、徳川家へ軍功上申するための基礎資料と、恩賞を家臣たちに配分する際の根拠として、大名の家に留めおかれ管理・保管された。やがてこうした戦功記録は、徳川家との関係を語るきわめて重要な証拠として、現実の戦功認定が終了した後も、多くの武家で、家の由緒を示す家譜等に編纂され、幕府自体も、こうした戦功記録を集成していくようになった。以上のように、戦功記録の系譜を追ってくると、戦功を申請し恩賞に預かるというきわめて現実的な目的のために出現した軍忠状が、その後、二つの方向へと展開していったことが指摘できる。一つは事務的手続き文書としての機能をより純化させ、戦功申告書として、申請する側ではなく、認定する側に保管されていく方向である。そしてもう一つは、「家の記憶」の記録として、家譜や家記に編纂され、一種の由緒書、つまり記念し顕彰するための典拠となっていく方向である。最初に考察した幕末萩藩の軍忠状も、戦功の記録が戦国時代から近世にかけて変化し、島原の乱で、ある到達点に達した、その系譜のなかに位置づけられる。そしてこのことは同時に、近代以降の軍隊が、中世・近世武士のあり方から執拗に継受していった側面をも示唆するといえる。
著者
小峯 和明
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.141, pp.81-96, 2008-03-31

十二世紀(院政期)における天皇の生と死をめぐる儀礼とその記録や仏事儀礼に供された唱導資料(願文・表白)を中心に検証する。死に関しては堀河院をめぐって、関白忠実の日記や女官の日記、大江匡房の願文などから取り出し、とりわけ追善法会における願文表現の意義を追究した。生に関しては安徳天皇の誕生を例に、中山忠親の日記、『平家物語』諸本、安居院澄憲の表白、密教の事相書、御産記録等々から検討した。
著者
小島 道裕
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.140, pp.201-211, 2008-03-31

筆者は,博物館におけるレプリカの意味について既に考察しているが,本稿では,歴史展示における模型の意味について考察した。歴史を展示する方法には,現存する過去の遺品を展示する方向と,展示テーマに沿って過去の情景を再現しようとする方向の2つがあり,模型は特に後者においてしばしば用いられるが,過去の再現としては不可避的に不完全なものであり,原理的にはそこから直接歴史を学ぶことは出来ない。しかし,実際の歴史,ないし現存する遺跡・遺物などへリンクするための,総合的・立体的な索引ないし入り口として考えれば,資料から歴史像を構成するという展示の本来的役割を促進させる意味で,その正当性を確保しうる。それは現実の歴史に対して歴史展示自体が持つ意味でもある。既存の模型を活用する実例,すなわち,復元模型の意味を,固定されたイメージ=「結論」ではなく,さまざまな情報へと開かれた「入り口」(索引)として読み直す試みとして,当館における「京都の町並み」模型にデジタルコンテンツを付加した事例を紹介した。またそこでは,模型の全体像を認識することの困難さという,作り手と受け手(観客)のギャップの問題についても考察することができた。
著者
小島 道裕
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.50, pp.443-460, 1993-02-26

近年つくられた多くの歴史系博物館ではレプリカ資料の使用が盛行しているが,それが博物館において「何」であり,いかなる形で用いることができるのかについては十分な共通理解のないのが現状である。本稿はこれについて主に技術的な面からその性格と限界を明らかにし,それによって,レプリカ資料が研究に,また展示においてどのように用いることが可能かを考察した。レプリカは原品の持つ情報の一部のみを転写したものだが,その転写は,どの様な技法の場合でも製作者の主観にかなりの程度頼る方法で行なわれており,厳密な客観性が保証されているとは言えない。従ってレプリカは研究資料としては写本の一つとして,また展示では特定のシナリオの中においてのみその正当性を主張し得る。またレプリカの製作は,それ自体が資料研究の行為と位置付けることができる。
著者
渡邉 一弘
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.174, pp.95-118, 2012-03-30

日中戦争中の弾丸除けの御守である千人針や日の丸の寄書きを見ていると、かなり頻繁に出てくる見慣れない漢字のような文字「[扌+合+辛][扌+台][扌+合+辛][扌+包+口](サムハラ)」。その文字は千人針のみならず衣服に書き込まれたり、お守りとして携帯された紙片に書かれたり、戦時中の資料に様々な形で見られサムハラ信仰とも言うべき習俗であることが分かる。戦時中のサムハラ信仰は、弾丸除け信仰の一つに集約されていたと考えられるが、その始まりは少なくとも江戸時代に遡り、その内容は、怪我除け、虫除け、地震除けなど多岐にわたっていた。「耳囊」をはじめとした江戸期の随筆にこの奇妙なる文字、あるいは符字とも呼ばれる特殊な漢字が度々紹介されている。その後、明治時代になり、日清・日露戦争といった他国との戦争に際して、弾丸除けのまじないとして、活躍することとなる。出征する兵士に持たせるお守りとして大量に配られ、その奇妙なる文字は兵士たちの間で弾丸除けの俗信として広がっていった。なかでも田中富三郎という人物の活動がサムハラ信仰を全国的に知らしめるきっかけとなり、戦時中のサムハラ信仰を全国的に普及させ、現在のサムハラ神社に引き継がれている。俗信の研究の重要性は、宗教などに権威化されたお札などと違って、民間信仰のなかから生まれ、少しずつ様々な意味づけがなされ、いつの間にか人々がその奇跡を信じ、成立するものである。戦時中の人々は、弾丸除けの俗信を信じることで、その現実を乗りきろうとした。こうした俗信の由来は、その時代時代に信じやすいように様々な逸話が加えられ、加工されていく。その時代のなかで解釈することと、その俗信の変化を通史的に整理することと、その両面が研究として必要となる。サムハラ信仰の研究は少なからずあるが、断片的であり、通史的に現代までを俯瞰する研究はない。本稿では、江戸期に始まるサムハラ信仰を現代まで俯瞰することを目的とする。
著者
井原 今朝男
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.139, pp.157-185, 2008-03-31

鎌倉前期の諏訪神社史料群は、『吾妻鏡』や『金沢文庫文書』などが中核になっており、鎌倉後期には『陬波御記文』『陬波私注』『隆弁私記』『仲範朝臣記』『諏訪効験』『広疑瑞決集』など諏訪信仰に関する史料群が数多くつくられた。これらは、いずれも鎌倉諏訪氏と金澤称名寺の関係僧侶の結合によって集積されたものを基礎資料にしてつくられたものという点で共通している。鎌倉期には、中央の国史や諸記録には知りえない知の体系として諏訪縁起が編纂され、関東で仰信される信仰圏が成立していた。鎌倉期においては、神の誓願・口筆を御記文とし、その聴聞を神の神託として重視する思想が流布した。その中で、諏訪大祝の現人神説や祝の神壇居所説、諏訪明神は「生替之儀」があるとする再生信仰など諏訪信仰独自の神道思想が形成されていた。仏教における念仏思想が諏訪神官層にも浸透して、仏道における神職は死後蛇道におちるという社会通念の存在する中で、仏道との葛藤の中から、諏訪神道という独自の思想が形つくられた。諏訪「神道」思想が、伊勢神道や吉田神道が成立する以前のものとして言説化していたこと、などを主張した。
著者
佐伯 真一
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.182, pp.7-28, 2014-01

「軍神」という概念について考える。「軍神」という言葉の用例としては、『梁塵秘抄』に見えるものが古く、次いで『平家物語』などの軍記物語に若干の例がある。中世後期には、兵法書の類に多くの例が見られる。そこで、従来、軍記物語に見える「軍神」と、『梁塵秘抄』に見える「軍神」、兵法書の類に見える「軍神」を、基本的に同じ範疇の中で捉えようとしてきたように思われるが、この三者は内容的に重なり合うことが少なく、一旦切り離して、別のものとして扱うところから考察を始める方がよさそうに見える。まず、軍記物語の「軍神」について。『平家物語』では数例見られ、諸本に異同があるが、概ね、合戦で敵の首を取ることを「軍神にまつる」という表現を中心としたものである。また、『保元物語』金刀比羅本や『太平記』、慈光寺本『承久記』などにも類似の例が見られる。首を取ることを「軍神にまつる」と表現するのは、武士たちがかつて実際に首を生贄に供えていたことに由来すると指摘されており、実際、そうした実感に即したものである可能性は強いが、首を祀る儀礼の実態は不明であり、「軍神」として特定の神格を祀る様子は窺えない。また、『梁塵秘抄』に「関より東の軍神、鹿島香取諏訪の宮…」などと歌われる「軍神」は、軍事的・武的性格を帯びた神々を列挙したものだろうが、各々の神がなぜ「軍神」とされるのかは、不明な点も多い。ともあれ、それらの神々が、近在以外の武士一般に、戦場で「軍神」として祀られたかどうかは疑わしい。こうした「軍神」は、軍記物語に描かれるような、合戦現場で首を取って祀る対象となる「軍神」とは異なるものと考えられる。次に、鎌倉時代成立と見られる『兵法秘術一巻書』をはじめ、いわゆる兵法書には、「軍神」がしばしば登場する。その「軍神」記述の最も中心となるのは軍神勧請の記述だが、それは『出陣次第』などに共通すると同時に、兵法書に限らず、たとえば『鴉鷺物語』などにも引用されている。だが、そこには軍記物語に見られたような、敵の首を「軍神」に祀るという記述はあまり見られない(皆無ではないことは後述)。また、兵法書などで祈願対象とされる神名は、空想的なものも含めて非常に雑多で、摩利支天などをはじめ、さまざまな神仏が挙げられる。そこには「九万八千の軍神」といった表現もしばしば登場するのだが、にもかかわらず、その中に、『梁塵秘抄』に歌われたような、鹿島・香取・諏訪といった日本古来の在地の「軍神」はほとんど登場しない。伊勢貞丈『軍神問答』は、兵法書的な世界に登場する「九万八千軍神」といった説や、摩利支天などの神仏を「軍神」として祀ることを否定して、「日本の軍神」としては「大己貴命、武甕槌命、経津主命」を挙げる。『梁塵秘抄』の挙げる鹿島・香取といった「軍神」認識に近い。貞丈の記述から逆説的に明らかになることは、中世の武士たちの「軍神」信仰が、『梁塵秘抄』と伊勢貞丈を結ぶような日本在来の正統的な神祇信仰ではなく、荒神信仰などを含む雑多な信仰だったことである。それは、おそらく、密教ないし修験の信仰や陰陽道などが複雑な習合を遂げ、合戦における勝利という武士の切実な要求に応じて、民間の宗教者が種々の呪術的信仰を生み出したものであると捉えられよう。さて、軍記物語に見える「軍神」と、兵法書の類に見えるそれとは別のものであると述べてきたが、仮名本『曽我物語』に見える「九万八千の軍神の血まつり」という言葉は、両者をつなぐものとして注目される。兵法書においても、『訓閲集』には巻十「首祭りの法」があり、そこでは「軍神へ首を祭る」儀礼が記されている。これらは数少ないながら、軍記物語に描かれた「軍神」の後継者ともいえようか。こうした「血祭り」の実態は未詳だが、そこで、中国古典との関連を考える必要に逢着する。言葉の上では、とりあえず漢語「血祭」(ケッサイ)との関連を考える必要があり、これはおそらく日本の「血祭り」とは関連の薄いものと思われるものの、『後漢書』などに見られる、人を殺してその血を鼓に塗るという、「釁鼓」(キンコ)には、日本の「血祭り」との類似性を考える事も可能だろう。軍記物語に見える、首をまつる「軍神」が、神に生贄を供える感覚に基づく言葉であるかどうかといった問題は、そうした言葉の広がりや兵法書の類の精査、さらには東アジア全体における同様の事例の検討などをふまえて、今後考察されねばならないのではないか。This paper examines the term ikusagami, meaning god of war. An early example of the use of ikusagami is found in the collection of folk songs, Songs to Make the Dust Dance, later followed by examples in a number of war chronicles such as the Tale of the Heike. In the later medieval period, the term can often be found in books on military tactics. Previously, it appears that these three ikusagami found in the various war chronicles, in the Songs to Make the Dust Dance, and in the books on military tactics have all been basically classified in the same category. These three different expressions of ikusagami, however, rarely overlap each other in terms of their meaning, and a good approach would be to first consider them as independent entities, and then to explore and consider their differences.Firstly, the ikusagami of the war chronicles is examined. In the Tale of the Heike several examples are found, and although there are differences among the various versions of the tale, in general an expression "offer to ikusagami" is mainly used; in this context this means to take the head of an enemy in battle. Similar examples can be seen in the Kotohira texts of the Tale of Hogen, the Record of Great Peace, and the Jikoji texts of the Jokyu-ki (Chronicle of Jokyu) . It is indicated that this expression meaning to take a head is derived from a custom where warriors would make an offering of a head as a sacrifice, and in fact, it is highly likely that the expression is based on this practice; however, the actual ritual of offering heads is unclear, and the possibility of worshipping a specific god as an individual ikusagami cannot be inferred.In the Songs to Make the Dust Dance, we find the lines "ikusagami ( these gods of war) live east of the barrier, Kashima-jingu Shrine, Katori-jingu Shrine, Suwa no Miya Shrine…," which is probably a list of gods with military or martial characteristics; however, there are many unclear points as to why each god is referred to as an ikusagami. In any case, it is doubtful whether these gods were worshiped as ikusagami by the common warrior on the battlefield in other rural areas. It can be considered that these kinds of ikusagami are different from the ikusagami depicted in the war chronicles with their offerings of heads taken in battle.Next, ikusagami are often found in the so-called books of military tactics including the Heiho Hijyutsu Ikkansho (Secret Art of Tactics) , thought to have been compiled in the Kamakura period. They are mainly mentioned in the context of invoking protection and success in battle, which is also commonly found in the treatise Shutsujin Shidai (Procedures for Going into Battle) . The term is also quoted in the Aro Monogatari (the Tale of the Crow and Heron) and not just in the books of military tactics; however, in these books descriptions of offering an enemy's head to ikusagami as seen in the war chronicles is rarely found ( although there are a few exceptions, which will be explained later) .In addition, the books of military tactics offer a vast range of gods both traditional and other than traditional to receive the prayers of warriors; Marishiten (a tutelary deity of samurais) and other various Shintoist and Buddhist deities can also be listed. In these books, an expression "ninety eight thousand ikusagami" often appears; despite this, the ikusagami of Japanese ancient times in rural areas such as Kashima, Katori or Suwa as found in the Songs to Make the Dust Dance hardly appear. The Edo period book Ikusagami: Questions and Answers written by Sadatake Ise refuted the concept of the "ninety eight thousand ikusagami" that appears in the world of the books on military tactics, and he also refuted the worship of Marishiten and other Shintoist and Buddhist deities as ikusagami. He went on to list Onamuchi no Mikoto, Takemikazuchi no Mikoto, and Futsunushi no Mikoto as Japanese ikusagami. His view is close to perceptions of the ikusagami in the rural Kashima or Katori mentioned in the Songs to Make the Dust Dance. Paradoxically what is revealed from Sadatake's description is that belief in the ikusagami of medieval warriors was not an orthodox belief in the gods of heaven and earth, which is traditionally found in Japan and actually connects the Songs to Make the Dust Dance with Sadatake Ise; medieval warriors actually incorporated various deities and beliefs including belief in a vigorous, powerful and sometimes impetuous deity. It is probable that esoteric Buddhism, ascetic practices in the mountains, and the Way of Yin and Yang resulted in a complicated syncretic fusion, and in response to the warriors' earnest demands for victory in battle, civilian religious figures created various kinds of magical belief.As described above, the ikusagami found in the war chronicles and those in the books of military tactics are different in nature; however, the phrase "a blood sacrifice to ninety eight thousand ikusagami" mentioned in the Tale of Soga, a book written entirely in kana syllabary, draws attention as a means to connect both concepts. Among the books on military tactics, Kinetsushu Volume 10 describes "how to make an offering of a head to a deity" in which a ritual offering a head to ikusagami is mentioned. Although these are just a few examples, they can be regarded as a successor of the ikusagami depicted in the war chronicles. The true state of such "blood sacrifice" is not exactly known, which leads to the need to examine the relation with China. In terms of words, a relation with an originally Chinese word 血祭 (kessai in Japanese pronunciation) needs to be considered; probably this word has a weak relation with the Japanese word 血祭り (chimatsuri, meaning blood sacrifice) , but with regard to the term 釁鼓 (kinko) found in the History of the Later Han, and meaning killing a person and smearing their blood on a hand drum, it is possible to think about the similarity to the Japanese 血祭り (blood sacrifice) .To answer the question whether the ikusagami to which a head is offered, as found in the war chronicles, is a term based on a sense of offering a sacrifice to a god, perhaps it is necessary to consider after careful examination of the expansion of such terms, classification of books of military tactics, and similar examples in the whole of East Asia.
著者
仁藤 敦史
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.194, pp.245-275, 2015-03-31

本稿では,百済三書に関係した研究史整理と基礎的考察をおこなった。論点は多岐に渉るが,当該史料が有した古い要素と新しい要素の併存については,『日本書紀』編纂史料として8世紀初頭段階に「百済本位の書き方」をした原史料を用いて,「日本に対する迎合的態度」により編纂した百済系氏族の立場とのせめぎ合いとして解釈した。『日本書紀』編者は「百済記」を用いて,干支年代の移動による改変をおこない起源伝承を構想したが,「貴国」(百済記)・「(大)倭」(百済新撰)・「日本」(百済本記)という国号表記の不統一に典型的であらわれているように,基本的に分注として引用された原文への潤色は少なかったと考えられる。その性格は,三書ともに基本的に王代と干支が記載された特殊史で,断絶した王系ごとに百済遺民の出自や奉仕の根源を語るもので,「百済記」は,「百済本記」が描く6世紀の聖明王代の理想を,過去の肖古王代に投影し,「北敵」たる高句麗を意識しつつ,日本に対して百済が主張する歴史的根拠を意識して撰述されたものであった。亡命百済王氏の祖王の時代を記述した「百済本記」がまず成立し,百済と倭国の通交および,「任那」支配の歴史的正統性を描く目的から「百済記」が,さらに「百済新撰」は,系譜的に問題のあった⑦毗有王~⑪武寧王の時代を語ることにより,傍系王族の後裔を称する多くの百済貴族たちの共通認識をまとめたものと位置付けられる。三書は順次編纂されたが,共通の目的により組織的に編纂されたのであり,表記上の相違も『日本書紀』との対応関係に立って,記載年代の外交関係を意識した用語により記載された。とりわけ「貴国」は,冊封関係でも,まったく対等な関係でもない「第三の傾斜的関係」として百済と倭国の関係を位置づける用語として用いられている。なお前稿では,「任那日本府」について,反百済的活動をしていた諸集団を一括した呼称であることを指摘し,『日本書紀』編者の意識とは異なる百済系史料の自己主張が含まれていることを論じたが,おそらく「百済本位の書き方」をした「百済本記」の原史料に由来する主張が「日本府」の認識に反映したものと考えられる。
著者
樋口 雄彦
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.108, pp.203-225, 2003-10

明治維新後、禄を失い生計の道を絶たれ窮乏化を余儀なくされた士族によって各地で入植・開墾が行われた。わずか七十万石に圧縮された静岡藩では、膨大な数の旧旗本・御家人を無禄移住という形で受け入れたため、立藩当初から家臣団の土着が進められ、荒蕪地の開墾が奨励された。廃藩後は県による支援も行われ、士族授産事業が推進された。しかし、同時期、藩や県からの経済的援助を受けることなく、独力で茶園の開拓に取り組んだ少数の旧幕臣グループがいた。赤松則良・林洞海・渡部温・藤沢次謙・矢田堀鴻らである。矢田堀・赤松は長崎海軍伝習所出身の幕府海軍幹部・エリート士官、林は佐倉順天堂ゆかりの蘭方医、渡部は開成所で教鞭をとった英学者、藤沢は蘭学一家桂川家に生まれた幕府陸軍の幹部であったが、いずれも静岡藩では沼津兵学校や沼津病院に職を奉じていた。藩の公職に就いた彼らには、無禄移住者とは違い、「食うため」には困らないだけの十分な俸給が与えられたのであるが、明治二年(一八六九)以降遠州での開拓・茶園経営に、あえて自らの資産を投入した。洋学知識や洋行経験を有していた彼らは、土質や害虫を研究し、先進地の製茶法を導入したり、アメリカへの直輸出を図ったりと、科学や情報によって地場産業を改良する役割を果たした。しかし、その行動は、苦しい藩財政を助けたり、国益を目指したりといった「公」を意識した動機のみによるものではなく、むしろ個人の営利・蓄財を目的とした私的経済活動としての側面が大きかった。廃藩に前後して上京、優れた能力を買われ一旦は明治政府に出仕した彼らであるが、遠州の茶園はそのまま維持された。海軍中将・男爵となった赤松は退役後には遠州に隠棲し、明治初年以来の念願だった田園生活を楽しむ。茶園開拓をめぐる赤松らの言動からは、官にあるか野にあるかを問わず、「一身独立」を率先実行した近代的人間像が見えてくる。Sliding towards poverty from the loss of stipends and livelihood following the Meiji Resoration, shizoku (former samurai) became involved in land settlement and reclamation projects around the countury. Shizuoka Domain, which had been reduced to a mere 70,000 koku, absorbed vast numbers of former hatamoto and gokenin relocated to the area without remuneration. From the domain's inception in 1868 (Meiji 1), the indigenization of retainer bands moved quickly as shizoku were encouraged to cultivate unopened lands. Following the domain's replacement by Shizuoka Prefecture, the prefecture continued to lend support to programs that encouraged shizoku businesses.At the same time that the domain, then prefecture, were lending support to shizoku, a small group of former Bakufu retainers began to cultivate tea independently without economic support from either government. Its members included Akamatsu Noriyoshi, Hayashi Dokai, Watanabe On, Fujisawa Tsuguyoshi, and Yatabori Ko. Yatabori and Akamatsu were both elite officers, products of the Nagasaki naval training center who had held executive positions in the Bakufu navy. Hayashi was a Dutch-medicine doctor with ties to the Juntendo in Sakura, while Watanabe was an England Studies scholar who taught at the Kaiseisho. Fujisawa was born to the Katsuragawa family of Dutch Studies scholars and had held an executive post in the Bakufu army. Each held positions in Shizuoka at either the domain's military academy or its hospital in Numazu. With official posts in the domain government, they differed from the unremunerated relocates and had incomes sufficient to "feed themselves." Still, beginning in 1869 (Meiji 2) they began to cultivate tea as a business in the Totomi region using only their own funds.With their knowledge and experience of the West, they studied soil and vermin, implemented the latest techniques of tea cultivation, and attempted direct export to America. With the science and information they brought to their business, they contributed significantly to the improvement of local industry. Yet, while their actions did aid the finances of a troubled domain and contributed to the benefit of the,nation, they were not exclusively motivated by "public" consciousness. Indeed, their activities were in large part private economic activities aimed at individual gain and wealth.Following the domain's dissolution they relocated to the capital where their outstanding talents were put to use in the service of the Meiji government. They continued to operate their tea plantation in Totomi, however. Following his retirement to the area, vice-admiral and baron Akamatsu pursued his early Meiji hope of enjoying life in the country. Whether in office or the countryside, the actions taken by Akamatsu and the others in the cultivation of tea cast an image of modern individuals at the forefront of "self-reliance".
著者
中島 丈晴
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.157, pp.107-128, 2010-03-15

伊勢湾・知多湾・三河湾・渥美湾を伊勢湾内海として広域的にとらえると、交通の要衝が室町将軍権力によって掌握されていたことが知られる。本論では残存史料が豊富で、伊勢湾内海とも関わりを持った将軍側近・政所執事の伊勢氏を通して、その権力編成が伊勢湾内海地域に与えた歴史的影響を探った。そのために本論では、十五世紀中葉における伊勢氏と被官衆との結合関係の分析を通して、被官衆の組織形態の全体像を把握し、その編成原理を明らかにするとともに、伊勢氏権力構造の特質についても検討することを課題とした。伊勢氏の家政職員である在京被官は、将軍家御物奉行として室町殿に供奉するとともに、在国して各地の「住人」を自身の寄子とし、伊勢氏被官化形成の重要な役割を担っていた。在京被官による、在国被官から伊勢氏への「御対面始」、「代始出仕」、進物の取り次ぎは個別的なものではなく一般的に定着しており、在京被官と在国被官は「申次―寄子」関係による編成であったといえる。伊勢氏の軍事基盤と評価される在国被官は、それに対する奉仕として在京被官に武力協力をしたと推測される。料所代官として在国し、自身の領国的基盤をもたない在京被官が、しばしば伊勢氏から守護譴責に対する幕府御家人への合力を命じられているのはそれゆえと考えられる。つまり両者は権力編成上におけるギブアンドテイク関係にあったといえる。しかし、在国被官は農業経営から分離しておらず、在地で直面する諸問題にさいし自力救済の「弓矢」に及ぶなど分裂・対立することがあり、軍事基盤としては不安定であった。在京被官と在国被官の「申次―寄子」関係に対し、伊勢氏と在京被官は、相続安堵過程の分析から、家同士の結びつき、「奉行」、「預所」など家産経営権の安堵といった点が確認され、家政職員としての活動とあわせ、まさに家産官僚制による編成であったといえる。つまり伊勢氏権力は、家産官僚制と「申次―寄子」関係の二重の編成原理によって構成されていた。権勢を誇った伊勢貞親が没落した文正の政変における被官衆の動向の違いは、編成原理の相違による伊勢氏権力の構造的問題であったと考えられる。こうした伊勢氏権力構造の特質にもとづく権力編成こそ、戦国期にいたるまで伊勢湾内海地域において伊勢氏被官の系譜を引く国人たちが活躍しえた背景であったと考えられる。
著者
鯨井 千佐登
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.174, pp.145-182, 2012-03

日本中世・近世「賤民」の権利のなかでも、①斃牛馬の皮を剥いで取得する権利、②埋葬する死体の衣類を剥いで取得する権利、③「癩者」の身柄を引き取る権利がとくに注目される。中世史家の三浦圭一は「牛馬にとって衣裳にあたるのが皮革に他ならない」とのべて、①と②を「同じレベル」で見ようとした。横井清も「皮を剥いでそれを取得することと死体の衣類を受け取ることが無縁なものとは私も思えない」といい、「身に付けている表皮を剥ぎとる権利と行為」をどのように考えるべきかという問題を提起している。一方、③は中世的な権利で、引き取られた「癩者」は「賤民」集団の一員となった。「癩」は「表皮」に症状のあらわれる皮膚の病であるから、③も含めて、「賤民」の権利は身を覆っている「表皮」にかかわるものとして一括して把握すべきかもしれない。こうした斃牛馬や死体の「身に付けている表皮を剥ぎとる権利」や「癩者」に対する監督権の宗教的源泉が、古くは境界の神にあると信じられていた可能性が高い。境界の神とは地境などに祀られていた神々のことで、「賤民」の信仰対象でもあった。本稿の課題は、そうした境界の神の本来の姿を見極めることである。本稿では、古くは境界の神に対する信仰が母子神信仰、とくに胎内神=御子神への信仰を骨子としていたことや、境界の神が月神としての性格を備え、人間の身の皮や獣皮、衣類、片袖を剥いで取得すると信じられていたこと、それゆえ境界の神に獣皮や衣類、片袖を捧げる習俗が生まれたこと、境界の神が皮膚の病の平癒という心願をかなえるだけでなく、それを発症させるとも信じられていたことなどを推定した。つまり、境界の神と「身に付けている表皮」との密接な関係を推定し、また、「賤民」の有した境界の神の代理人としての性格の検証という今後の課題を提示した。Among the rights of "senmin" in medieval and early modern Japan, the following three attract special attention: (1) the right to strip and obtain the skins of dead oxen and horses, (2) the right to strip and obtain the clothes of corpses to be buried, and (3) the right to take "lepers" along. The medieval historian Keiichi Miura said "the skins of oxen and horses were regarded as clothes" and treated ( 1) and ( 2) on the "same level." Kiyoshi Yokoi also said "I do not believe that stripping and obtaining the skins is unrelated to receiving the clothes of corpses" and raised the issue of how to consider "the right and behavior of stripping worn superficial skins." On the other hand, (3) was a medieval right, and the "lepers" taken along became a member of the group of "senmin." Because "leprosy" is a skin disease that causes symptoms on "superficial skins," the rights of "senmin" might have to be understood as related to all the "worn superficial skins" including ( 3) .It is very likely that the religious sources of the "right to strip worn superficial skins" of dead oxen, horses, and human bodies, and the right of supervision of "lepers" were believed to be in the gods of the boundaries in ancient times. The gods of the boundaries were worshipped in the boundaries of lands and also believed in by "senmin." This article attempts to ascertain the original figure of the gods of the boundaries.This article presumes the following: in ancient times, the belief in the gods of the boundaries was based on that in the mother-child gods, especially the belief in the fetal or child god; the gods of the boundaries had the character of moon gods and were believed to strip and obtain human skins, animal skins, clothes, and single sleeves; based on such belief, the custom of offering animal skins, clothes, and single sleeves to the gods of the boundaries was started; it was believed that the gods of the boundaries not only healed skin diseases but also caused them. In other words, this article presumes a close relationship between the gods of the boundaries and "worn superficial skins" and presents the future task of verifying the character of "senmin" as agents for the gods of the boundaries.