著者
一ノ瀬 俊也
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.131, pp.51-84, 2006-03-25

戦場における佐倉歩兵第五七連隊の行動は、いくつかの連隊史や回想録で比較的よく知られている。しかし、兵士たちの平時の日常生活、意識については不明な点も多いように思われる。本稿は一九三四(昭和九)年に連隊のある上等兵がほぼ毎日書いていた日記帳の内容を分析して、連隊の兵士が毎日どのような訓練・生活を送っていたのかを再構成することを目的とする。日記の筆者は(おそらく)三三年一月現役入営し、翌三四年七月一九日除隊している。日記帳にはこのうち三四年一月一日から除隊後の同年八月一八日までの記述がある。具体的に千葉での演習・勤務、富士山麓での演習、対抗競技と連隊への帰属意識、日常の衣食住、私的制裁、連隊と地域社会との関わり、といった諸テーマを設定して、兵士たちの〈日常〉の再構成に努めるとともに、彼らが自己の所属する軍隊をどうみていたのか、それは帝国軍隊の支持基盤たりえたのか、といった問題にも展望を示したい。なお、参考資料として、本日記の全文を連隊生活とは直接関係のない除隊後のものを除き、翻刻した。
著者
久留島 典子
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.182, pp.167-180, 2014-01-31

戦功を記録し、それを根拠に恩賞を得ることは、武士にとって最も基本的かつ重要な行為であるとみなされており、それに関わる南北朝期の軍忠状等については研究の蓄積がある。しかし戦国期、さらには戦争がなくなるとされる近世において、それらがどのように変化あるいは消失していくのか、必ずしも明らかにされていない。本稿は、中世と近世における武家文書史料の在り方の相違点、共通点を探るという観点から、戦功を記録する史料に焦点をあてて、その変遷をみていくものである。明治二年、版籍奉還直前の萩藩で、戊辰戦争等の戦功調査が組織的になされた。そのなかで、藩の家臣たちからなる軍団司令官たちは、中世軍忠状の典型的文言をもつ記録を藩からの命令に応じて提出し、藩も中世同様の証判を据えて返している。これを、農兵なども含む有志中心に編成された諸隊提出の戦功記録と比較すると、戦死傷者報告という内容は同一だが、軍忠状という形式自体に示される儀礼的性格の有無が大きな相違点となっている。すなわち幕末の藩や藩士たちは、軍忠状を自己の武士という身分の象徴として位置付けていたと考えられる。ではこの軍忠状とは、どのような歴史的存在なのか。恩賞給与のための軍功認定は、当初、指揮官の面前で口頭によってなされたとされる。しかし、蒙古襲来合戦時、恩賞決定者である幕府中枢部は戦闘地域を遠く離れた鎌倉におり、一方、戦闘が大規模で、戦功認定希望者も多数にのぼったため、初めて文書を介した戦功認定確認作業がおこなわれるようになったという。その後、軍事関係の文書が定式化され、戦功認定に関わる諸手続きが組織化されていった結果が、各地域で長期間にわたって継続的に戦闘が行われた南北朝期の各種軍事関係文書であったとされる。しかし一五世紀後半にもなると、軍事関係文書の中心は戦功を賞する感状となり、軍忠状など戦功記録・申告文書の残存例は全国的にわずかとなる。ところがその後、軍忠状や頸注文は、室町幕府の武家故実として、幕府との強い結びつきを誇示したい西国の大名・武士たちの間で再び用いられ、戦国時代最盛期には、大友氏・毛利氏などの戦国大名領国でさかんに作成されるようになった。さらに豊臣秀吉政権の成立以降、朝鮮への侵略戦争で作成された「鼻請取状」に象徴されるように、戦功報告書とその受理文書という形で軍功認定の方式は一層組織化された。関ヶ原合戦と二度の大坂の陣、また九州の大名家とその家臣の家では、近世初期最後の戦争ともいえる島原の乱に関する、それぞれ膨大な数の戦功記録文書が作成された。この時期の軍忠状自体は、自らの戦闘行動を具体的に記したもので、儀礼的要素は希薄である。しかもそれらは、徳川家へ軍功上申するための基礎資料と、恩賞を家臣たちに配分する際の根拠として、大名の家に留めおかれ管理・保管された。やがてこうした戦功記録は、徳川家との関係を語るきわめて重要な証拠として、現実の戦功認定が終了した後も、多くの武家で、家の由緒を示す家譜等に編纂され、幕府自体も、こうした戦功記録を集成していくようになった。以上のように、戦功記録の系譜を追ってくると、戦功を申請し恩賞に預かるというきわめて現実的な目的のために出現した軍忠状が、その後、二つの方向へと展開していったことが指摘できる。一つは事務的手続き文書としての機能をより純化させ、戦功申告書として、申請する側ではなく、認定する側に保管されていく方向である。そしてもう一つは、「家の記憶」の記録として、家譜や家記に編纂され、一種の由緒書、つまり記念し顕彰するための典拠となっていく方向である。最初に考察した幕末萩藩の軍忠状も、戦功の記録が戦国時代から近世にかけて変化し、島原の乱で、ある到達点に達した、その系譜のなかに位置づけられる。そしてこのことは同時に、近代以降の軍隊が、中世・近世武士のあり方から執拗に継受していった側面をも示唆するといえる。
著者
小峯 和明
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.141, pp.81-96, 2008-03-31

十二世紀(院政期)における天皇の生と死をめぐる儀礼とその記録や仏事儀礼に供された唱導資料(願文・表白)を中心に検証する。死に関しては堀河院をめぐって、関白忠実の日記や女官の日記、大江匡房の願文などから取り出し、とりわけ追善法会における願文表現の意義を追究した。生に関しては安徳天皇の誕生を例に、中山忠親の日記、『平家物語』諸本、安居院澄憲の表白、密教の事相書、御産記録等々から検討した。
著者
小山 隆秀
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.205, pp.211-243, 2017-03

青森県津軽地方のネブタ(「ねぷた」および「ねぶた」を総称する)とは、毎年8月初旬に、木竹や紙で山車を新造して、毎夜、囃子を付けて集団で練り歩く習俗である。現在では海外でも有名な観光行事となった。そのルーツには七夕や眠り流し、盆行事があるとされてきたが、その一方で近世から近現代まで喧嘩や口論、騒動が発生する行事でもあった。本論ではこれをケンカネプタ(喧嘩ねぷた)として分析する。ケンカネプタは、各町の青少壮年達によるネブタ運行が、他町と遭遇して乱闘へ発展するものであるが、無軌道にみえる行為のなかには、一定の様式や儀礼的要素が伝承されてきたことが判明した。しかし近代以降、都市部ではネブタの統制が強化され、ケンカネプタの習俗は消滅したが、村落ではその一部が、投石や喧嘩囃子等で近年まで伝承されていた。さらに都市部では、近世以来行われてきた子供たちの自主的なネブタ運行が禁止されるとともに、喧嘩防止のため、目抜き通りでの合同運行方式を導入することによって、各ネブタ組は、隊列を整えて大型化した山車を運行し、合同審査での受賞を競うことへ価値観を転換していった。近年は、山車の構造や参加者の習俗形態が急速に多様化しており、それにともなう事故が発生したため、市民からは、ネブタが「伝統」または「本来の姿」へ回帰することを訴える動きがある。しかし本論の分析によれば、現在推奨されている審査基準や「伝統」とされる山車の形態や習俗は、近世以降の違反や騒乱から形成され、後世に定着したものであることがわかる。よって、現在の諸問題を解決するための拠り所、または行事全体の紐帯として現代の人々が希求している「本来の姿」に定型はなく、各時代ごとに変容し続けてきた存在であるといえよう。Nebuta (including both "Neputa" and "Nebuta") is festivals held at the beginning of August every year in different parts of the Tsugaru Region in Aomori Prefecture. In these festivals, bands of participants parade newly constructed floats made of wood, bamboo, and paper at night.Nebuta has become famous even outside of Japan, attracting many tourists. Although it originated in the Tanabata, Nemuri Nagashi, or Bon Festival, Nebuta always entailed quarrels, fights, and brawls from the early modern to the modern times. This folk custom is called "Kenka Neputa" and is analyzed in this paper.Kenka Neputa is a brawl resulted from an encounter between floats paraded by young and adult men from different towns. Although it seemed to have been uncontrolled, it has been revealed that there were some traditional codes and ritual elements in such fights. In modern times, Kenka Neputa died out in urban areas because of stronger control of Nebuta, but some elements, such as stone throwing and fighting music, had survived up to recent years in rural areas.In urban areas, children floats, whose origin dates back to the early modern period, were prohibited, and floats paraded down main streets were brought under joint control in order to prevent fights. As a result, Nebuta teams shifted their focus to how to win a festival-wide float competition, creating larger floats and marching in columns. In recent years, Nebuta has become increasingly diversified in the form of floats and the style of participants. As these changes have caused some accidents, a movement is growing among local people to bring Nebuta back to its "traditional" or "authentic" form.This analysis, however, reveals that the form and style of floats valued in competitions or considered as "traditional" were created from brawls and violations and established as standards after the early modern period. Therefore, the grounds for solving current problems, or the "authentic forms" contemporary people are longing for as common standards, are not definite but subject to changes over time.
著者
小島 道裕
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.140, pp.201-211, 2008-03-31

筆者は,博物館におけるレプリカの意味について既に考察しているが,本稿では,歴史展示における模型の意味について考察した。歴史を展示する方法には,現存する過去の遺品を展示する方向と,展示テーマに沿って過去の情景を再現しようとする方向の2つがあり,模型は特に後者においてしばしば用いられるが,過去の再現としては不可避的に不完全なものであり,原理的にはそこから直接歴史を学ぶことは出来ない。しかし,実際の歴史,ないし現存する遺跡・遺物などへリンクするための,総合的・立体的な索引ないし入り口として考えれば,資料から歴史像を構成するという展示の本来的役割を促進させる意味で,その正当性を確保しうる。それは現実の歴史に対して歴史展示自体が持つ意味でもある。既存の模型を活用する実例,すなわち,復元模型の意味を,固定されたイメージ=「結論」ではなく,さまざまな情報へと開かれた「入り口」(索引)として読み直す試みとして,当館における「京都の町並み」模型にデジタルコンテンツを付加した事例を紹介した。またそこでは,模型の全体像を認識することの困難さという,作り手と受け手(観客)のギャップの問題についても考察することができた。
著者
渡邉 一弘
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.174, pp.95-118, 2012-03-30

日中戦争中の弾丸除けの御守である千人針や日の丸の寄書きを見ていると、かなり頻繁に出てくる見慣れない漢字のような文字「[扌+合+辛][扌+台][扌+合+辛][扌+包+口](サムハラ)」。その文字は千人針のみならず衣服に書き込まれたり、お守りとして携帯された紙片に書かれたり、戦時中の資料に様々な形で見られサムハラ信仰とも言うべき習俗であることが分かる。戦時中のサムハラ信仰は、弾丸除け信仰の一つに集約されていたと考えられるが、その始まりは少なくとも江戸時代に遡り、その内容は、怪我除け、虫除け、地震除けなど多岐にわたっていた。「耳囊」をはじめとした江戸期の随筆にこの奇妙なる文字、あるいは符字とも呼ばれる特殊な漢字が度々紹介されている。その後、明治時代になり、日清・日露戦争といった他国との戦争に際して、弾丸除けのまじないとして、活躍することとなる。出征する兵士に持たせるお守りとして大量に配られ、その奇妙なる文字は兵士たちの間で弾丸除けの俗信として広がっていった。なかでも田中富三郎という人物の活動がサムハラ信仰を全国的に知らしめるきっかけとなり、戦時中のサムハラ信仰を全国的に普及させ、現在のサムハラ神社に引き継がれている。俗信の研究の重要性は、宗教などに権威化されたお札などと違って、民間信仰のなかから生まれ、少しずつ様々な意味づけがなされ、いつの間にか人々がその奇跡を信じ、成立するものである。戦時中の人々は、弾丸除けの俗信を信じることで、その現実を乗りきろうとした。こうした俗信の由来は、その時代時代に信じやすいように様々な逸話が加えられ、加工されていく。その時代のなかで解釈することと、その俗信の変化を通史的に整理することと、その両面が研究として必要となる。サムハラ信仰の研究は少なからずあるが、断片的であり、通史的に現代までを俯瞰する研究はない。本稿では、江戸期に始まるサムハラ信仰を現代まで俯瞰することを目的とする。
著者
小島 道裕
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.50, pp.443-460, 1993-02-26

近年つくられた多くの歴史系博物館ではレプリカ資料の使用が盛行しているが,それが博物館において「何」であり,いかなる形で用いることができるのかについては十分な共通理解のないのが現状である。本稿はこれについて主に技術的な面からその性格と限界を明らかにし,それによって,レプリカ資料が研究に,また展示においてどのように用いることが可能かを考察した。レプリカは原品の持つ情報の一部のみを転写したものだが,その転写は,どの様な技法の場合でも製作者の主観にかなりの程度頼る方法で行なわれており,厳密な客観性が保証されているとは言えない。従ってレプリカは研究資料としては写本の一つとして,また展示では特定のシナリオの中においてのみその正当性を主張し得る。またレプリカの製作は,それ自体が資料研究の行為と位置付けることができる。
著者
大藤 修
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.141, pp.173-223, 2008-03

本稿は、秋田藩佐竹家子女の近世前半期における誕生・成育・成人儀礼と名前について検討し、併せて徳川将軍家との比較を試みるもので、次の二点を課題とする。第一は、幕藩制のシステムに組み込まれ、国家公権を将軍から委任されて領域の統治に当たる「公儀」の家として位置づけられた近世大名家の男子は、どのような通過儀礼を経て社会化され政治的存在となったか、そこにどのような特徴が見出せるか、この点を嫡子=嗣子と庶子の別を踏まえ、名前の問題と関連づけて考察すること。その際、徳川将軍家男子の儀礼・名前と比較検討する。第二は、女子の人生儀礼と名前についても検討し、男子のそれとの比較を通じて近世のジェンダー性に迫ること。従来、人生儀礼を構成する諸儀礼が個別に分析されてきたが、本稿では一連のものとして系統的に分析して、個々の儀礼の位置づけ、相互連関と意味を考察し、併せて名前も検討することによって、次の点を明らかにした。①幕藩制国家の「公儀」の家として国家公権を担う将軍家と大名家の男子の成育・成人儀礼は、政治的な日程から執行時期が決められるケースがあったが、女子にはそうした事例はみられないこと。②男子の「成人」は、政治的・社会的な成人範疇と肉体的な成人範疇に分化し、とりわけ嫡子は政治的・社会的な「成人」化が急がれたものの、肉体的にも精神的にも大人になってから江戸藩邸において「奥」から「表」へと生活空間を移し、そのうえで初入部していたこと。幼少の藩主も同様であったこと。これは君主の身体性と関わる。③女子の成人儀礼は身体的儀礼のみで、改名儀礼や政治的な儀礼はしていないこと。④男子の名前は帰属する家・一族のメンバー・シップや系譜関係、ライフサイクルと家・社会・国家における位置づけ=身分を表示しているのに対し、女子の名前にはそうした機能はないこと。This paper explores the birth ceremony, the raising ceremony, and the coming-of-age ceremony of the children of The Satake Family in Akita Han in the first half of the early modern period, and it compares the ceremonies to those of the Tokugawa family. First, this study considers how a son of Daimyo family was socialized and became a political being through several kinds of initiation ceremonies. The family was integrated in the Baku-han system and was placed, as a family of kougi, with the delegated public authority to rule its fief from the Shogunate. The main characteristics of this process can be extracted by focusing on the differences between a legitimate son and an illegitimate son, including the problem of naming, and this is compared to the cases of the Tokugawa family. Second, this paper considers initiation ceremonies and naming of daughters to analyze gender differences in early modern Japan.In previous studies, life ceremonies were examined separately. This paper attempts to consider systemically those ceremonies as a whole, placing and focusing the meaning of each ceremony, including the problem of naming. This study shows, first, how ceremonies of sons of the Tokugawa and the Satake, both families of kogi, were scheduled by political intention, while daughters' ceremonies were not. Second, a son's attaining of manhood was divided into political, social and physical categories. A legitimate son was supposed to attain political and social manhood in haste, but he could only move from oku to omote and enter his fief after he had grown up physically and mentally at his Han's house in Edo. Third, the coming-of-age ceremony for a daughter was only limited physically, not politically, nor did she need a name changing ceremony. Finally, a son's name indicated his membership and genealogical relationship in the family and the clan, his life cycle, and his position (class) in the family, society and state, while a daughter's name did not.
著者
佐伯 真一
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.182, pp.7-28, 2014-01

「軍神」という概念について考える。「軍神」という言葉の用例としては、『梁塵秘抄』に見えるものが古く、次いで『平家物語』などの軍記物語に若干の例がある。中世後期には、兵法書の類に多くの例が見られる。そこで、従来、軍記物語に見える「軍神」と、『梁塵秘抄』に見える「軍神」、兵法書の類に見える「軍神」を、基本的に同じ範疇の中で捉えようとしてきたように思われるが、この三者は内容的に重なり合うことが少なく、一旦切り離して、別のものとして扱うところから考察を始める方がよさそうに見える。まず、軍記物語の「軍神」について。『平家物語』では数例見られ、諸本に異同があるが、概ね、合戦で敵の首を取ることを「軍神にまつる」という表現を中心としたものである。また、『保元物語』金刀比羅本や『太平記』、慈光寺本『承久記』などにも類似の例が見られる。首を取ることを「軍神にまつる」と表現するのは、武士たちがかつて実際に首を生贄に供えていたことに由来すると指摘されており、実際、そうした実感に即したものである可能性は強いが、首を祀る儀礼の実態は不明であり、「軍神」として特定の神格を祀る様子は窺えない。また、『梁塵秘抄』に「関より東の軍神、鹿島香取諏訪の宮…」などと歌われる「軍神」は、軍事的・武的性格を帯びた神々を列挙したものだろうが、各々の神がなぜ「軍神」とされるのかは、不明な点も多い。ともあれ、それらの神々が、近在以外の武士一般に、戦場で「軍神」として祀られたかどうかは疑わしい。こうした「軍神」は、軍記物語に描かれるような、合戦現場で首を取って祀る対象となる「軍神」とは異なるものと考えられる。次に、鎌倉時代成立と見られる『兵法秘術一巻書』をはじめ、いわゆる兵法書には、「軍神」がしばしば登場する。その「軍神」記述の最も中心となるのは軍神勧請の記述だが、それは『出陣次第』などに共通すると同時に、兵法書に限らず、たとえば『鴉鷺物語』などにも引用されている。だが、そこには軍記物語に見られたような、敵の首を「軍神」に祀るという記述はあまり見られない(皆無ではないことは後述)。また、兵法書などで祈願対象とされる神名は、空想的なものも含めて非常に雑多で、摩利支天などをはじめ、さまざまな神仏が挙げられる。そこには「九万八千の軍神」といった表現もしばしば登場するのだが、にもかかわらず、その中に、『梁塵秘抄』に歌われたような、鹿島・香取・諏訪といった日本古来の在地の「軍神」はほとんど登場しない。伊勢貞丈『軍神問答』は、兵法書的な世界に登場する「九万八千軍神」といった説や、摩利支天などの神仏を「軍神」として祀ることを否定して、「日本の軍神」としては「大己貴命、武甕槌命、経津主命」を挙げる。『梁塵秘抄』の挙げる鹿島・香取といった「軍神」認識に近い。貞丈の記述から逆説的に明らかになることは、中世の武士たちの「軍神」信仰が、『梁塵秘抄』と伊勢貞丈を結ぶような日本在来の正統的な神祇信仰ではなく、荒神信仰などを含む雑多な信仰だったことである。それは、おそらく、密教ないし修験の信仰や陰陽道などが複雑な習合を遂げ、合戦における勝利という武士の切実な要求に応じて、民間の宗教者が種々の呪術的信仰を生み出したものであると捉えられよう。さて、軍記物語に見える「軍神」と、兵法書の類に見えるそれとは別のものであると述べてきたが、仮名本『曽我物語』に見える「九万八千の軍神の血まつり」という言葉は、両者をつなぐものとして注目される。兵法書においても、『訓閲集』には巻十「首祭りの法」があり、そこでは「軍神へ首を祭る」儀礼が記されている。これらは数少ないながら、軍記物語に描かれた「軍神」の後継者ともいえようか。こうした「血祭り」の実態は未詳だが、そこで、中国古典との関連を考える必要に逢着する。言葉の上では、とりあえず漢語「血祭」(ケッサイ)との関連を考える必要があり、これはおそらく日本の「血祭り」とは関連の薄いものと思われるものの、『後漢書』などに見られる、人を殺してその血を鼓に塗るという、「釁鼓」(キンコ)には、日本の「血祭り」との類似性を考える事も可能だろう。軍記物語に見える、首をまつる「軍神」が、神に生贄を供える感覚に基づく言葉であるかどうかといった問題は、そうした言葉の広がりや兵法書の類の精査、さらには東アジア全体における同様の事例の検討などをふまえて、今後考察されねばならないのではないか。This paper examines the term ikusagami, meaning god of war. An early example of the use of ikusagami is found in the collection of folk songs, Songs to Make the Dust Dance, later followed by examples in a number of war chronicles such as the Tale of the Heike. In the later medieval period, the term can often be found in books on military tactics. Previously, it appears that these three ikusagami found in the various war chronicles, in the Songs to Make the Dust Dance, and in the books on military tactics have all been basically classified in the same category. These three different expressions of ikusagami, however, rarely overlap each other in terms of their meaning, and a good approach would be to first consider them as independent entities, and then to explore and consider their differences.Firstly, the ikusagami of the war chronicles is examined. In the Tale of the Heike several examples are found, and although there are differences among the various versions of the tale, in general an expression "offer to ikusagami" is mainly used; in this context this means to take the head of an enemy in battle. Similar examples can be seen in the Kotohira texts of the Tale of Hogen, the Record of Great Peace, and the Jikoji texts of the Jokyu-ki (Chronicle of Jokyu) . It is indicated that this expression meaning to take a head is derived from a custom where warriors would make an offering of a head as a sacrifice, and in fact, it is highly likely that the expression is based on this practice; however, the actual ritual of offering heads is unclear, and the possibility of worshipping a specific god as an individual ikusagami cannot be inferred.In the Songs to Make the Dust Dance, we find the lines "ikusagami ( these gods of war) live east of the barrier, Kashima-jingu Shrine, Katori-jingu Shrine, Suwa no Miya Shrine…," which is probably a list of gods with military or martial characteristics; however, there are many unclear points as to why each god is referred to as an ikusagami. In any case, it is doubtful whether these gods were worshiped as ikusagami by the common warrior on the battlefield in other rural areas. It can be considered that these kinds of ikusagami are different from the ikusagami depicted in the war chronicles with their offerings of heads taken in battle.Next, ikusagami are often found in the so-called books of military tactics including the Heiho Hijyutsu Ikkansho (Secret Art of Tactics) , thought to have been compiled in the Kamakura period. They are mainly mentioned in the context of invoking protection and success in battle, which is also commonly found in the treatise Shutsujin Shidai (Procedures for Going into Battle) . The term is also quoted in the Aro Monogatari (the Tale of the Crow and Heron) and not just in the books of military tactics; however, in these books descriptions of offering an enemy's head to ikusagami as seen in the war chronicles is rarely found ( although there are a few exceptions, which will be explained later) .In addition, the books of military tactics offer a vast range of gods both traditional and other than traditional to receive the prayers of warriors; Marishiten (a tutelary deity of samurais) and other various Shintoist and Buddhist deities can also be listed. In these books, an expression "ninety eight thousand ikusagami" often appears; despite this, the ikusagami of Japanese ancient times in rural areas such as Kashima, Katori or Suwa as found in the Songs to Make the Dust Dance hardly appear. The Edo period book Ikusagami: Questions and Answers written by Sadatake Ise refuted the concept of the "ninety eight thousand ikusagami" that appears in the world of the books on military tactics, and he also refuted the worship of Marishiten and other Shintoist and Buddhist deities as ikusagami. He went on to list Onamuchi no Mikoto, Takemikazuchi no Mikoto, and Futsunushi no Mikoto as Japanese ikusagami. His view is close to perceptions of the ikusagami in the rural Kashima or Katori mentioned in the Songs to Make the Dust Dance. Paradoxically what is revealed from Sadatake's description is that belief in the ikusagami of medieval warriors was not an orthodox belief in the gods of heaven and earth, which is traditionally found in Japan and actually connects the Songs to Make the Dust Dance with Sadatake Ise; medieval warriors actually incorporated various deities and beliefs including belief in a vigorous, powerful and sometimes impetuous deity. It is probable that esoteric Buddhism, ascetic practices in the mountains, and the Way of Yin and Yang resulted in a complicated syncretic fusion, and in response to the warriors' earnest demands for victory in battle, civilian religious figures created various kinds of magical belief.As described above, the ikusagami found in the war chronicles and those in the books of military tactics are different in nature; however, the phrase "a blood sacrifice to ninety eight thousand ikusagami" mentioned in the Tale of Soga, a book written entirely in kana syllabary, draws attention as a means to connect both concepts. Among the books on military tactics, Kinetsushu Volume 10 describes "how to make an offering of a head to a deity" in which a ritual offering a head to ikusagami is mentioned. Although these are just a few examples, they can be regarded as a successor of the ikusagami depicted in the war chronicles. The true state of such "blood sacrifice" is not exactly known, which leads to the need to examine the relation with China. In terms of words, a relation with an originally Chinese word 血祭 (kessai in Japanese pronunciation) needs to be considered; probably this word has a weak relation with the Japanese word 血祭り (chimatsuri, meaning blood sacrifice) , but with regard to the term 釁鼓 (kinko) found in the History of the Later Han, and meaning killing a person and smearing their blood on a hand drum, it is possible to think about the similarity to the Japanese 血祭り (blood sacrifice) .To answer the question whether the ikusagami to which a head is offered, as found in the war chronicles, is a term based on a sense of offering a sacrifice to a god, perhaps it is necessary to consider after careful examination of the expansion of such terms, classification of books of military tactics, and similar examples in the whole of East Asia.
著者
井原 今朝男
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.139, pp.157-185, 2008-03-31

鎌倉前期の諏訪神社史料群は、『吾妻鏡』や『金沢文庫文書』などが中核になっており、鎌倉後期には『陬波御記文』『陬波私注』『隆弁私記』『仲範朝臣記』『諏訪効験』『広疑瑞決集』など諏訪信仰に関する史料群が数多くつくられた。これらは、いずれも鎌倉諏訪氏と金澤称名寺の関係僧侶の結合によって集積されたものを基礎資料にしてつくられたものという点で共通している。鎌倉期には、中央の国史や諸記録には知りえない知の体系として諏訪縁起が編纂され、関東で仰信される信仰圏が成立していた。鎌倉期においては、神の誓願・口筆を御記文とし、その聴聞を神の神託として重視する思想が流布した。その中で、諏訪大祝の現人神説や祝の神壇居所説、諏訪明神は「生替之儀」があるとする再生信仰など諏訪信仰独自の神道思想が形成されていた。仏教における念仏思想が諏訪神官層にも浸透して、仏道における神職は死後蛇道におちるという社会通念の存在する中で、仏道との葛藤の中から、諏訪神道という独自の思想が形つくられた。諏訪「神道」思想が、伊勢神道や吉田神道が成立する以前のものとして言説化していたこと、などを主張した。
著者
柴田 純
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.141, pp.109-139, 2008-03-31

柳田国男の〝七つ前は神のうち〟という主張は、後に、幼児の生まれ直り説と結びついて民俗学の通説となり、現在では、さまざまな分野で、古代からそうした観念が存在していたかのように語られている。しかし、右の表現は、近代になってごく一部地域でいわれた俗説にすぎない。本稿では、右のことを実証するため、幼児へのまなざしが古代以降どのように変化したかを、歴史学の立場から社会意識の問題として試論的に考察する。一章では、律令にある、七歳以下の幼児は絶対責任無能力者だとする規定と、幼児の死去時、親は服喪の必要なしという規定が、十世紀前半の明法家による新たな法解釈の提示によって結合され、幼児は親の死去や自身の死去いずれの場合にも「無服」として、服忌の対象から疎外されたこと、それは、神事の挙行という貴族社会にとって最重要な儀礼が円滑に実施できることを期待した措置であったことを明らかにする。二章では、古代・中世では、社会の維持にとって不可欠であった神事の挙行が、近世では、その役割を相対的に低下させることで、幼児に対する意識をも変化させ、「無服」であることがある種の特権視を生じさせたこと、武家の服忌令が本来は武士を対象にしながら、庶民にも受容されていったこと、および、幼児が近世社会でどのようにみられていたかを具体的に検証する。そのうえで、庶民の家が確立し、「子宝」意識が一般化するなかで、幼児保護の観念が地域社会に成立したことを指摘し、そうした保護観念は、一般の幼児だけでなく、捨子に対してもみられたことを、捨子禁令が整備されていく過程を検討することで具体的に明らかにする。右の考察をふまえて、最後に、〝七つ前は神のうち〟の四つの具体例を検討し、そのいずれもが、右の歴史過程をふまえたうえで、近代になってから成立した俗説にすぎないことを明らかにする。