著者
鵜澤 由美
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.141, pp.225-263, 2008-03

これまで、近代以前の日本には誕生日の習慣はなかったと考えられ、誕生日に関する研究もほとんどされてこなかった。しかし、日本でも天皇や将軍などの誕生日は祝われ、古くは奈良時代に誕生日の行事が行われていたのである。そこで本稿では、近世における誕生日の実態を明らかにするべく、誕生日の祝われ方、位置付けなどを考察していく。将軍の誕生日には、将軍の御前で祝が行われるとともに、殿中に祗候している者たちに餅や酒が下賜されるという行事が行われた。将軍の誕生日は、将軍と、殿中で祗候する詰衆や旗本、御家人との主従関係を意識させる儀礼の一つであったのである。この祝の構造は大名家の一部でも見られ、藩主の誕生日に家臣が集められて祝儀が行われた。公家にとっての誕生日は節句のようなものであり、当主が自らの誕生日を最も盛大に祝っていた。家族や友人と祝宴を開くのが一般的であった。産土神である御霊社への参詣も行われた。また、天皇の誕生日は、近世に入っても毎月行われ、女官が心経を読誦した。下級武士や庶民は、子供や孫の誕生日を中心に祝った。赤飯を炊き神に上げ、親類や隣人と会食をするなど、家族的な行事だった。誕生日には餅や酒が出され、また厄除けの力があるという小豆も食べられた。神仏の信仰も重視されている。日頃の無事を喜び、今後も息災であることを願ったと推測される。年を取るのはみな一斉に正月であったけれども、前近代の人々も、自分や家族などの生まれた日を特別な日として意識していた。一年に一度めぐってくる誕生日を記念し、祝うという概念があったのである。明治以降、西洋文化が輸入され、戦後に満年齢が制度化されて誕生日に加齢の要素が加わり、生活の欧米化も加速していく中で、今日のような祝い方になったと考えられる。
著者
佐藤 健二
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.165, pp.13-45[含 英語文要旨], 2011-03

本稿は近代日本における「民俗学史」を構築するための基礎作業である。学史の構築は、それ自体が「比較」の実践であり、その学問の現在のありようを相対化して再考し、いわば「総体化」ともいうべき立場を模索する契機となる。先行するいくつかの学史記述の歴史認識を対象に、雑誌を含む「刊行物・著作物」や、研究団体への注目が、理念的・実証的にどのように押さえられてきたかを批判的に検討し、「柳田国男中心主義」からの脱却を掲げる試みにおいてもまた、地方雑誌の果たした固有の役割がじつは軽視され、抽象的な「日本民俗学史」に止められてきた事実を明らかにする。そこから、近代日本のそれぞれの地域における、いわゆる「民俗学」「郷土研究」「郷土教育」の受容や成長のしかたの違いという主題を取り出す。糸魚川の郷土研究の歴史は、相馬御風のような文学者の関与を改めて考察すべき論点として加え、また『青木重孝著作集』(現在一五冊刊行)のような、地方で活躍した民俗学者のテクスト共有の地道で貴重な試みがもつ可能性を浮かびあがらせる。また、澤田四郎作を中心とした「大阪民俗談話会」の活動記録は、「場としての民俗学」の分析が、近代日本の民俗学史の研究において必要であることを暗示する。民俗学に対する複数の興味関心が交錯し、多様な特質をもつ研究主体が交流した「場」の分析はまた、理論史としての学史とは異なる、方法史・実践史としての学史認識の重要性という理論的課題をも開くだろう。最後に、歴史記述の一般的な技術としての「年表」の功罪の自覚から、柳田と同時代の歴史家でもあったマルク・ブロックの「起源の問題」をとりあげて、安易な「比較民俗学」への同調のもつ危うさとともに、探索・博捜・蓄積につとめる「博物学」的なアプローチと相補いあう、変数としてのカテゴリーの構成を追究する「代数学」的なアプローチが、民俗学史の研究において求められているという現状認識を掲げる。This essay represents a preliminary attempt at constructing a "history of folklore studies" in the context of modern Japan. Because of the overwhelming number and range of studies documenting aspects of the Japanese folklore movement, it is necessary to engage in a process of "comparison," as Émile Durkheim advocated. By reconsidering the current state of the field, we can investigate alternative ways of studying the subject from a "relativistic" or "holistic" perspective. This essay takes into account how previous historical studies took into account publications issued in local areas or by local research groups, and attempts to rectify the scholarly neglect of such contributions. Historical studies to date as a rule do not fully take into account concrete evidence provided by local folklore studies, even if they try to avoid so-called "Yanagita Kunio centricity." By shifting our stance, we can take up issues concerning approaches taken up by researchers involving minzokugaku (folklore studies) on a localized level, kyōdo kenkyū (research on local history and culture), or kyōdo kyōiku (methods of teaching local history and culture).For instance, through the investigation of the local history of folklore studies in Itoigawa, I have stressed the importance studying the work of a literary figure such as Sôma Gyofû. I have also taken into account the painstaking efforts involved in the publication of the discoveries of local researchers such as The Collected Works of Aoki Shigetaka (15 volumes published to date). Similarly, the research and compilation of proceedings of the Ōsaka Minzoku Danwa Kai (Osaka Folklore Discussion Society), led by Sawada Shirosaku, suggests that consideration of the "place," where the local folklore studies were born plays an crucial role in the subsequent construction of a history of folklore in modern times. The investigation of the "place," where multiple interests were exchanged and diverse persons interacted with each other can open the way to a revised history of "practice" and "method," which differs greatly from a history according to "paradigm" and "theory." In this essay, I evaluate the advantages and disadvantages of the use of "chronological tables." The "problem of origin," as proposed by Marc Bloch, who was a close contemporary of Yanagita, is also raised. Furthermore, I propose that an "algebraic" approach, which treats the composition of categories as variables or values and analyses the relation of variables. Such a methodology, while contributing the construction of a revised history of modern Japanese folklore studies, also incorporates what might be called "ecological" or "natural historical" approaches, which focus on searching for research material on a widespread basis and acquiring material objects that are required for study.
著者
大藤 修
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.141, pp.173-223, 2008-03

本稿は、秋田藩佐竹家子女の近世前半期における誕生・成育・成人儀礼と名前について検討し、併せて徳川将軍家との比較を試みるもので、次の二点を課題とする。第一は、幕藩制のシステムに組み込まれ、国家公権を将軍から委任されて領域の統治に当たる「公儀」の家として位置づけられた近世大名家の男子は、どのような通過儀礼を経て社会化され政治的存在となったか、そこにどのような特徴が見出せるか、この点を嫡子=嗣子と庶子の別を踏まえ、名前の問題と関連づけて考察すること。その際、徳川将軍家男子の儀礼・名前と比較検討する。第二は、女子の人生儀礼と名前についても検討し、男子のそれとの比較を通じて近世のジェンダー性に迫ること。従来、人生儀礼を構成する諸儀礼が個別に分析されてきたが、本稿では一連のものとして系統的に分析して、個々の儀礼の位置づけ、相互連関と意味を考察し、併せて名前も検討することによって、次の点を明らかにした。①幕藩制国家の「公儀」の家として国家公権を担う将軍家と大名家の男子の成育・成人儀礼は、政治的な日程から執行時期が決められるケースがあったが、女子にはそうした事例はみられないこと。②男子の「成人」は、政治的・社会的な成人範疇と肉体的な成人範疇に分化し、とりわけ嫡子は政治的・社会的な「成人」化が急がれたものの、肉体的にも精神的にも大人になってから江戸藩邸において「奥」から「表」へと生活空間を移し、そのうえで初入部していたこと。幼少の藩主も同様であったこと。これは君主の身体性と関わる。③女子の成人儀礼は身体的儀礼のみで、改名儀礼や政治的な儀礼はしていないこと。④男子の名前は帰属する家・一族のメンバー・シップや系譜関係、ライフサイクルと家・社会・国家における位置づけ=身分を表示しているのに対し、女子の名前にはそうした機能はないこと。This paper explores the birth ceremony, the raising ceremony, and the coming-of-age ceremony of the children of The Satake Family in Akita Han in the first half of the early modern period, and it compares the ceremonies to those of the Tokugawa family. First, this study considers how a son of Daimyo family was socialized and became a political being through several kinds of initiation ceremonies. The family was integrated in the Baku-han system and was placed, as a family of kougi, with the delegated public authority to rule its fief from the Shogunate. The main characteristics of this process can be extracted by focusing on the differences between a legitimate son and an illegitimate son, including the problem of naming, and this is compared to the cases of the Tokugawa family. Second, this paper considers initiation ceremonies and naming of daughters to analyze gender differences in early modern Japan.In previous studies, life ceremonies were examined separately. This paper attempts to consider systemically those ceremonies as a whole, placing and focusing the meaning of each ceremony, including the problem of naming. This study shows, first, how ceremonies of sons of the Tokugawa and the Satake, both families of kogi, were scheduled by political intention, while daughters' ceremonies were not. Second, a son's attaining of manhood was divided into political, social and physical categories. A legitimate son was supposed to attain political and social manhood in haste, but he could only move from oku to omote and enter his fief after he had grown up physically and mentally at his Han's house in Edo. Third, the coming-of-age ceremony for a daughter was only limited physically, not politically, nor did she need a name changing ceremony. Finally, a son's name indicated his membership and genealogical relationship in the family and the clan, his life cycle, and his position (class) in the family, society and state, while a daughter's name did not.
著者
山本 志乃
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.155, pp.1-19[含 英語文要旨], 2010-03

旅の大衆化が進んだ江戸時代の後期、主体的に旅を楽しむ女性が多く存在したことは、近年とくに旅日記や絵画資料などの分析から明らかになってきた。しかしながら、講の代参記録のような普遍化した史料には女性の旅の実態が反映されないことから、江戸時代の女性の旅を体系的に理解することは難しいのが現状である。本稿では、個人的な旅日記を題材に、そこに記された女性の旅の実態を通して、旅を支えたしくみを考える。題材とした旅日記は、❶清河八郎著『西遊草』、❷中村いと著「伊勢詣の日記」、❸松尾多勢子著「旅のなくさ、都のつと」の3点である。❶は幕末の尊攘派志士として知られる清河八郎が、母を伴って無手形の伊勢参宮をした記録である。そこには、非合法な関所抜けがあからさまに行われ、それが一種の街道稼ぎにもなっていた事実が記されており、伊勢参宮を契機とした周遊の旅の普及にともない、女性の抜け参りが慣例化していた実態が示されている。❷は江戸の裕福な商家の妻が知人一家とともに伊勢参宮をした際の日記で、とくに古市遊廓での伊勢音頭見物の記録からは、旅における女性の遊興と、その背景にある確かな経済力を確認することができる。❸は、幕末期に平田国学の門下となった信州伊那の豪農松尾家の妻多勢子が、動乱の最中にあった京都へ旅をし、約半年にわたって滞在した記録である。特異な例ではあるが、身につけた教養をひとつの道具として、旅先の見知らぬ土地で自ら人脈を築き、その人脈を故郷の人々の利用に供したことは注目に値する。女性の旅人の存在は、街道や宿場のあり方にさまざまな影響を及ぼしたと思われる。とくに、後年イギリスの女性旅行家イザベラ・バードが明記した日本の街道の安全性は、女性の旅とは不可分の関係にあり、江戸時代後期の日本の旅文化を再評価するうえで、今後さらに女性の旅の検証を重ねていくことが必要である。
著者
田村 省三
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.116, pp.209-234, 2004-02

本稿は、日本の近代化の先駆けであり、薩摩藩の近代科学技術の導入とその実践の場であった「集成館事業」の背景としての視点から、薩摩藩の蘭学受容の実際とその変遷について考察したものである。薩摩藩の蘭学は、近世における博物学への関心と島津重豪の蘭学趣味から出発し、オランダ通詞の招聘や蘭方医の採用をとおして、しだいに領内に普及していった。そして、蘭学が重用され急速に普及していったのは島津斉彬の時代であり、藩が強力に推進した「集成館事業」の周辺に顕著であった。しかし、藩士たちの蘭学の修得については、中央から遠く離れた地域性や経済的な困難もあって、江戸や大阪への遊学は他の地域に比べて少なかった。むしろ、中央の優秀な蘭学者を藩士に採用したり、蘭学者たちとの人脈を活用するという傾向が強かったと思われる。ただし長崎への遊学は、例外であった。薩摩藩の蘭学普及は、藩主導で推進されている。したがって地域蘭学の立場からすれば、同時代の諸藩とはその目的、内容と規模、普及の事情に相違がみられる。一方で、蘭学普及の余慶がまったく領内の諸地域には及んでいなかったのかと言えばそうではない。このたび、地域蘭学の存在を肯定することのできる種痘の事例を確認することができた。それは、長崎でモーニッケから種痘の指導を受けた前田杏斎の種痘術が、領内の高岡や種子島の医師たちに伝えられ実施されたという記録によってである。また薩摩藩は薩英戦争の直後、藩の近代化を加速するため、洋学の修得を目的とした「開成所」を設置する。ここでは当初蘭学の学習が重んじられていたが、しだいに英学の重要性が増していった。さらに明治二年、国の独医学採用に伴い、藩が英医ウィリアム・ウィリスを招聘して病院と医学校を設置してから、英国流の医学が急速に普及する。この地域が本格的に西洋医学の恩恵を受けるのは、以降のことである。This paper examines the situation surrounding the acceptance of Rangaku by the Satsuma feudal domain and the changes it underwent from the perspective of the Shuseikan Project, the site of the introduction of modern science and technology by the Satsuma feudal domain, which stood at the vanguard of modernization in Japan.Rangaku in the Satsuma feudal domain was started by an interest in natural history during the Early Modern Period and the interest in Rangaku by Shimazu Shigehide, and gradually spread within the domain through invitations to Dutch translators and the employment of physicians who practiced Western medicine. Rangaku became important and spread rapidly during the time of Shimazu Nariakira when it became prominent in connection with the Shuseikan Project undertaken with great vigor by the domain. However, the acquisition of Rangaku learning by the domain's retainers was less than that of retainers from other regions who went to Edo or Osaka to study, partly because of the distance between the domain and these centers of activity as well as economic difficulties. Instead, outstanding Rangaku scholars from the huge urban centers of Osaka and Edo were employed by retainers who made effective use of the personal connections they formed with these Rangaku scholars. Still, travel to Nagasaki to study there was the exception.The spread of Rangaku within the Satsuma feudal domain was driven by the domain's leadership. Therefore, viewed from the standpoint of regional Rangaku differences can be seen in the objectives, contents, scale and circumstances of its adoption by the Satsuma domain and other feudal domains during the same period. And it is not true that the benefits of this dissemination of Rangaku did not extend to every region within the domain. During the research undertaken for this paper it was possible to confirm examples of vaccinations, which in itself affirms the existence of regional Rangaku. This confirmation is found in records showing that the vaccination techniques of Maeda Kyosai, who received instruction in vaccination by the Dutch doctor Otto Mohnike in Nagasaki, was passed on to physicians working in Takaoka and Tanegashima, who then carried out vaccinations themselves.Immediately after the Satsuma-Anglo War the Satsuma domain established the Kaiseijo academy for the purpose of acquiring Western studies that would accelerate modernization within the domain. At first, Rangaku was given precedence at the academy, but factors such as world trends and relations between the Satsuma domain and Britain after the Satsuma-Anglo War saw British studies steadily gain more and more importance. Then, the invitation issued by Satsuma to the British doctor William Willis in 1869 to establish a hospital and medical school that accompanied the adoption by the Japanese state of German medicine resulted in the rapid adoption of British medicine. It was only after this that the region began to receive the full benefits of Western medicine.
著者
樋口 雄彦
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.109, pp.47-93, 2004-03

維新後、旧幕臣は、徳川家に従い静岡へ移住するか、新政府に仕え朝臣となるか、帰農・帰商するかという選択を迫られた。一方、脱走・抗戦という第四の選択肢を選んだ者もいた。箱館五稜郭で官軍に降伏するまで戦った彼らの中には、洋学系の人材が豊富に含まれていた。榎本武揚ら幹部数名を除き、大多数の箱館戦争降伏人は明治三年(一八七〇)までには謹慎処分を解かれ、静岡藩に帰参する。一部の有能な降伏人は静岡・沼津の藩校等に採用されたが、「人減らし」を余儀なくされていた藩の内情では、ほとんどの者は一代限りの藩士身分と三人扶持という最低の扶持米を保障されることが精一杯であった。勝海舟は、箱館降伏人のうち優れた人物を選び、明治政府へ出仕させたり、他藩へ派遣したりといった方法で、藩外で活用しようとした。降伏人が他藩の教育・軍事の指導者として派遣された事例として、和歌山・津山・名古屋・福井等の諸藩への「御貸人」が知られる。なお、御貸人には、帰参した降伏人を静岡藩が直接派遣した場合と、諸藩に預けられ謹慎生活を送っていた降伏人がそのまま現地で採用された場合とがあった。一方、剣客・志士的資質を有した降伏人の中には、敵として戦った鹿児島藩に率先遊学し、同藩の質実剛健な士風に感化され、静岡藩で新たな教育機関の設立を発起する動きも現れた。人見寧が静岡に設立した集学所がそれで、士風刷新を目指し、文武両道を教えるとともに、他藩士との交遊も重視した。鹿児島藩遊学とそれがもたらした集学所は、藩内と藩内外での横の交流や自己修養を意図したものであり、洋学を通じ藩や国家に役立つ人材を下から上へ吸い上げるべく創られた静岡学問所・沼津兵学校とは全く違う意義をもつものだった。After the restoration of Emperor Meiji, vassals of the former Bakufu were faced with the option of moving to Shizuoka with the Tokugawa family, becoming court nobles who entered the service of the new government, or returning to farming or commerce. There were also those who chose the fourth option of escaping and taking part in the resistane. Many of the vassals who fought at the Goryokaku in Hakodate until they surrendered to the government forces had undertaken Western studies. With the exception of Enomoto Takeaki and several other high-ranking officials, most of the men who surrendered during the Battle of Hakodate were able to avoid confinement and returned to the Shizuoka feudal domain before 1870. Some of the competent among them were employed by domain schools in Shizuoka and Numazu. However, the situation inside the Shizuoka domain was such that they were forced to "reduce numbers" as the domain was finding it difficult enough to guarantee a minimum rice allowance so that in most cases the status of warrior was restricted to one generation and the allowance covered just three persons.Katsu Kaishu sought to make use of vassals outside of the domain and adopted a method whereby he selected the most talented among those who had surrendered at Hakodate and either sent them to serve under the Meiji government or dispatched them to other feudal domains. Examples of these men who were dispatched to other domains to provide instruction in education and military affairs are to be found in the well-known "Okashinin", or "loaned persons" who went to work in the various domains, including Wakayama, Tsuyama, Nagoya and Fukui. These Okashinin took up their new roles by either one of two methods: they were either sent to domains directly by the Shizuoka domain upon their return home, or they had been sent to the various domains to serve their period of confinement and were subsequently employed locally.Some of the vassals who surrendered that were skilled at sword fighting and very patriotic were the first to be sent to study under the Kagoshima domain, who had been their enemy in battle, where they came under the influence of the Kagoshima domain's simple and robust warrior spirit. This also motivated the establishment of new educational institutions within the Shizuoka feudal domain. One of these was the Shugakujo established in Shizuoka by Hitomi Yasushi, which aimed to enforce discipline among warriors and to provide education based on learning and martial arts, and also attached great importance to conducting exchanges with warriors from other domains. The intention behind sending these vassals to study in the Kagoshima domain and the Shugakujo that were established as a result, was the promotion of horizontal interaction within the domain and between the domain and outside, as well as self-cultivation. As such, their significance is totally different from that of the Shizuoka Gakumonjo and the Numazu Military Academy, which were established for the purpose of raising people through the ranks to serve the domain or the state by means of Western studies.
著者
樋口 雄彦
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.108, pp.203-225, 2003-10

明治維新後、禄を失い生計の道を絶たれ窮乏化を余儀なくされた士族によって各地で入植・開墾が行われた。わずか七十万石に圧縮された静岡藩では、膨大な数の旧旗本・御家人を無禄移住という形で受け入れたため、立藩当初から家臣団の土着が進められ、荒蕪地の開墾が奨励された。廃藩後は県による支援も行われ、士族授産事業が推進された。しかし、同時期、藩や県からの経済的援助を受けることなく、独力で茶園の開拓に取り組んだ少数の旧幕臣グループがいた。赤松則良・林洞海・渡部温・藤沢次謙・矢田堀鴻らである。矢田堀・赤松は長崎海軍伝習所出身の幕府海軍幹部・エリート士官、林は佐倉順天堂ゆかりの蘭方医、渡部は開成所で教鞭をとった英学者、藤沢は蘭学一家桂川家に生まれた幕府陸軍の幹部であったが、いずれも静岡藩では沼津兵学校や沼津病院に職を奉じていた。藩の公職に就いた彼らには、無禄移住者とは違い、「食うため」には困らないだけの十分な俸給が与えられたのであるが、明治二年(一八六九)以降遠州での開拓・茶園経営に、あえて自らの資産を投入した。洋学知識や洋行経験を有していた彼らは、土質や害虫を研究し、先進地の製茶法を導入したり、アメリカへの直輸出を図ったりと、科学や情報によって地場産業を改良する役割を果たした。しかし、その行動は、苦しい藩財政を助けたり、国益を目指したりといった「公」を意識した動機のみによるものではなく、むしろ個人の営利・蓄財を目的とした私的経済活動としての側面が大きかった。廃藩に前後して上京、優れた能力を買われ一旦は明治政府に出仕した彼らであるが、遠州の茶園はそのまま維持された。海軍中将・男爵となった赤松は退役後には遠州に隠棲し、明治初年以来の念願だった田園生活を楽しむ。茶園開拓をめぐる赤松らの言動からは、官にあるか野にあるかを問わず、「一身独立」を率先実行した近代的人間像が見えてくる。Sliding towards poverty from the loss of stipends and livelihood following the Meiji Resoration, shizoku (former samurai) became involved in land settlement and reclamation projects around the countury. Shizuoka Domain, which had been reduced to a mere 70,000 koku, absorbed vast numbers of former hatamoto and gokenin relocated to the area without remuneration. From the domain's inception in 1868 (Meiji 1), the indigenization of retainer bands moved quickly as shizoku were encouraged to cultivate unopened lands. Following the domain's replacement by Shizuoka Prefecture, the prefecture continued to lend support to programs that encouraged shizoku businesses.At the same time that the domain, then prefecture, were lending support to shizoku, a small group of former Bakufu retainers began to cultivate tea independently without economic support from either government. Its members included Akamatsu Noriyoshi, Hayashi Dokai, Watanabe On, Fujisawa Tsuguyoshi, and Yatabori Ko. Yatabori and Akamatsu were both elite officers, products of the Nagasaki naval training center who had held executive positions in the Bakufu navy. Hayashi was a Dutch-medicine doctor with ties to the Juntendo in Sakura, while Watanabe was an England Studies scholar who taught at the Kaiseisho. Fujisawa was born to the Katsuragawa family of Dutch Studies scholars and had held an executive post in the Bakufu army. Each held positions in Shizuoka at either the domain's military academy or its hospital in Numazu. With official posts in the domain government, they differed from the unremunerated relocates and had incomes sufficient to "feed themselves." Still, beginning in 1869 (Meiji 2) they began to cultivate tea as a business in the Totomi region using only their own funds.With their knowledge and experience of the West, they studied soil and vermin, implemented the latest techniques of tea cultivation, and attempted direct export to America. With the science and information they brought to their business, they contributed significantly to the improvement of local industry. Yet, while their actions did aid the finances of a troubled domain and contributed to the benefit of the,nation, they were not exclusively motivated by "public" consciousness. Indeed, their activities were in large part private economic activities aimed at individual gain and wealth.Following the domain's dissolution they relocated to the capital where their outstanding talents were put to use in the service of the Meiji government. They continued to operate their tea plantation in Totomi, however. Following his retirement to the area, vice-admiral and baron Akamatsu pursued his early Meiji hope of enjoying life in the country. Whether in office or the countryside, the actions taken by Akamatsu and the others in the cultivation of tea cast an image of modern individuals at the forefront of "self-reliance".
著者
三浦 正幸
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.148, pp.85-108, 2008-12

寺院の仏堂に比べて、神社本殿は規模が小さく、内部を使用することも多くない。しかし、本殿の平面形式や外観の意匠はかえって多種多様であって、それが神社本殿の特色の一つと言える。建築史の分野ではその多様な形式を分類し、その起源が論じられてきた。その一方で、文化財に指定されている本殿の規模形式の表記は、寺院建築と同様に屋根形式の差異による機械的分類を主体として、それに神社特有の一部の本殿形式を混入したもので、不統一であるし、不適切でもある。本論文では、現行の形式分類を再考し、その一部を、とくに両流造について是正することを提案した。本殿形式の起源については、稲垣榮三によって、土台をもつ本殿・心御柱をもつ本殿・二室からなる本殿に分類されており、学際的に広い支持を受けている。しかし、土台をもつ春日造と流造が神輿のように移動する仮設の本殿から常設の本殿へ変化したものとすること、心御柱をもつ点で神明造と大社造とを同系統に扱うことを認めることができず、それについて批判を行った。土台は小規模建築の安定のために必要な構造部材であり、その成立は仮設の本殿の時期を経ず、神明造と同系統の常設本殿として創始されたものとした。また、神明造も大社造も仏教建築の影響を受けて、それに対抗するものとして創始されたという稲垣の意見を踏まえ、七世紀後半において神明造を朝廷による創始、大社造を在地首長による創始とした。また、「常在する神の専有空間をもつ建築」を本殿の定義とし、神明造はその内部全域が神の専有空間であること、大社造はその内部に安置された内殿のみが神の専有空間であることから、両者を全く別の系統のものとし、後者は祭殿を祖型とする可能性があることなどを示した。入母屋造本殿は神体山を崇敬した拝殿から転化したものとする太田博太郎の説にも批判を加え、平安時代後期における諸国一宮など特に有力な神社において成立した、他社を圧倒する大型の本殿で、調献された多くの神宝を収める神庫を神の専有空間に付加したものとした。そして、本殿形式の分類や起源を論じる際には、神の専有空間と人の参入する空間との関わりに注目する必要があると結論づけた。Shrine honden (main sanctuaries) are smaller than the butsudo (Buddha halls) of temples and the inside of a honden is not used very much. However, one feature of honden is that they vary in style and external appearance. Architectural history divides these diverse styles into different categories and explains their origins. Descriptions of the size and styles of honden that are designated cultural properties are mainly classified mechanically according to differences in the style of roof, as is done for temple buildings, and the mixing in of some honden styles unique to shrines is both inconsistent and inappropriate.This paper re-examines current classification of styles, and proposes to correct some, especially the ryonagare-style. According to Eizo Inagaki, there are three main styles of honden, those with a ground sill, those with a central pillar, and those consisting of two rooms. Inagaki's classifications enjoy broad support across different academic fields. However, the author is critical of Inagaki's contentions and does not accept that kasuga-style and nagare-style honden with a ground sill changed from being temporary structures like a mikoshi, which were portable, to being permanent structures, or that shinmei-style and taisha-style shrines have the same origin because they have central pillars. A ground sill is a structural member that is necessary to stabilize a small structure, and does not date from the period of temporary honden, but originated in permanent honden that were of similar origin to those of the shinmei-style. Furthermore, with regard to Inagaki's opinion that both the shinmei-style and taisha-style were influenced by Buddhist architecture and were created to counter the Buddhist style, the author believes that the shinmei-style was created by the imperial court in the latter part of the 7th century and that the taisha-style was created by local chiefs. Given the definition of a honden as a" building with exclusive space for the permanently present kami," and also that the entire interior of a shinmei-style honden is exclusive space for the kami and that in a honden of the taisha-style only the inner sanctuary inside constitutes this exclusive space, the author shows that both are completely different in origin and that it is possible that the latter was derived from saiden (an early religious building).The author also criticizes Hirotaro Ohta's theory that honden in the irimoya-style evolved from haiden (worship halls) for shintaisan (mountains which are believed to be kami's body). In the author's opinion, irimoya-style honden came into being in the late Heian period when ichinomiya and other important shrines were built in each province. As honden that were much bigger than other shrines, they had a storehouse for the many sacred treasures given to the shrine in addition to the exclusive space for the kami. In conclusion, when discussing the categories and origins of styles of honden, it is necessary to pay attention to the relationship between space that is exclusive to the kami and space that is used by people.
著者
鯨井 千佐登
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.174, pp.145-182, 2012-03

日本中世・近世「賤民」の権利のなかでも、①斃牛馬の皮を剥いで取得する権利、②埋葬する死体の衣類を剥いで取得する権利、③「癩者」の身柄を引き取る権利がとくに注目される。中世史家の三浦圭一は「牛馬にとって衣裳にあたるのが皮革に他ならない」とのべて、①と②を「同じレベル」で見ようとした。横井清も「皮を剥いでそれを取得することと死体の衣類を受け取ることが無縁なものとは私も思えない」といい、「身に付けている表皮を剥ぎとる権利と行為」をどのように考えるべきかという問題を提起している。一方、③は中世的な権利で、引き取られた「癩者」は「賤民」集団の一員となった。「癩」は「表皮」に症状のあらわれる皮膚の病であるから、③も含めて、「賤民」の権利は身を覆っている「表皮」にかかわるものとして一括して把握すべきかもしれない。こうした斃牛馬や死体の「身に付けている表皮を剥ぎとる権利」や「癩者」に対する監督権の宗教的源泉が、古くは境界の神にあると信じられていた可能性が高い。境界の神とは地境などに祀られていた神々のことで、「賤民」の信仰対象でもあった。本稿の課題は、そうした境界の神の本来の姿を見極めることである。本稿では、古くは境界の神に対する信仰が母子神信仰、とくに胎内神=御子神への信仰を骨子としていたことや、境界の神が月神としての性格を備え、人間の身の皮や獣皮、衣類、片袖を剥いで取得すると信じられていたこと、それゆえ境界の神に獣皮や衣類、片袖を捧げる習俗が生まれたこと、境界の神が皮膚の病の平癒という心願をかなえるだけでなく、それを発症させるとも信じられていたことなどを推定した。つまり、境界の神と「身に付けている表皮」との密接な関係を推定し、また、「賤民」の有した境界の神の代理人としての性格の検証という今後の課題を提示した。Among the rights of "senmin" in medieval and early modern Japan, the following three attract special attention: (1) the right to strip and obtain the skins of dead oxen and horses, (2) the right to strip and obtain the clothes of corpses to be buried, and (3) the right to take "lepers" along. The medieval historian Keiichi Miura said "the skins of oxen and horses were regarded as clothes" and treated ( 1) and ( 2) on the "same level." Kiyoshi Yokoi also said "I do not believe that stripping and obtaining the skins is unrelated to receiving the clothes of corpses" and raised the issue of how to consider "the right and behavior of stripping worn superficial skins." On the other hand, (3) was a medieval right, and the "lepers" taken along became a member of the group of "senmin." Because "leprosy" is a skin disease that causes symptoms on "superficial skins," the rights of "senmin" might have to be understood as related to all the "worn superficial skins" including ( 3) .It is very likely that the religious sources of the "right to strip worn superficial skins" of dead oxen, horses, and human bodies, and the right of supervision of "lepers" were believed to be in the gods of the boundaries in ancient times. The gods of the boundaries were worshipped in the boundaries of lands and also believed in by "senmin." This article attempts to ascertain the original figure of the gods of the boundaries.This article presumes the following: in ancient times, the belief in the gods of the boundaries was based on that in the mother-child gods, especially the belief in the fetal or child god; the gods of the boundaries had the character of moon gods and were believed to strip and obtain human skins, animal skins, clothes, and single sleeves; based on such belief, the custom of offering animal skins, clothes, and single sleeves to the gods of the boundaries was started; it was believed that the gods of the boundaries not only healed skin diseases but also caused them. In other words, this article presumes a close relationship between the gods of the boundaries and "worn superficial skins" and presents the future task of verifying the character of "senmin" as agents for the gods of the boundaries.
著者
中島 丈晴
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.157, pp.107-129[含 英語文要旨], 2010-03

伊勢湾・知多湾・三河湾・渥美湾を伊勢湾内海として広域的にとらえると、交通の要衝が室町将軍権力によって掌握されていたことが知られる。本論では残存史料が豊富で、伊勢湾内海とも関わりを持った将軍側近・政所執事の伊勢氏を通して、その権力編成が伊勢湾内海地域に与えた歴史的影響を探った。そのために本論では、十五世紀中葉における伊勢氏と被官衆との結合関係の分析を通して、被官衆の組織形態の全体像を把握し、その編成原理を明らかにするとともに、伊勢氏権力構造の特質についても検討することを課題とした。伊勢氏の家政職員である在京被官は、将軍家御物奉行として室町殿に供奉するとともに、在国して各地の「住人」を自身の寄子とし、伊勢氏被官化形成の重要な役割を担っていた。在京被官による、在国被官から伊勢氏への「御対面始」、「代始出仕」、進物の取り次ぎは個別的なものではなく一般的に定着しており、在京被官と在国被官は「申次―寄子」関係による編成であったといえる。伊勢氏の軍事基盤と評価される在国被官は、それに対する奉仕として在京被官に武力協力をしたと推測される。料所代官として在国し、自身の領国的基盤をもたない在京被官が、しばしば伊勢氏から守護譴責に対する幕府御家人への合力を命じられているのはそれゆえと考えられる。つまり両者は権力編成上におけるギブアンドテイク関係にあったといえる。しかし、在国被官は農業経営から分離しておらず、在地で直面する諸問題にさいし自力救済の「弓矢」に及ぶなど分裂・対立することがあり、軍事基盤としては不安定であった。在京被官と在国被官の「申次―寄子」関係に対し、伊勢氏と在京被官は、相続安堵過程の分析から、家同士の結びつき、「奉行」、「預所」など家産経営権の安堵といった点が確認され、家政職員としての活動とあわせ、まさに家産官僚制による編成であったといえる。つまり伊勢氏権力は、家産官僚制と「申次―寄子」関係の二重の編成原理によって構成されていた。権勢を誇った伊勢貞親が没落した文正の政変における被官衆の動向の違いは、編成原理の相違による伊勢氏権力の構造的問題であったと考えられる。こうした伊勢氏権力構造の特質にもとづく権力編成こそ、戦国期にいたるまで伊勢湾内海地域において伊勢氏被官の系譜を引く国人たちが活躍しえた背景であったと考えられる。It is known that strategic traffic points around the Ise Bay Inland Sea, broadly speaking consisting of Ise Bay, Chita Bay, Mikawa Bay and Atsumi Bay, were under the control of the Muromachi shogun. Using the abundance of extant historical materials, this paper explores the historical influence that the power structure of the Ise clan had on that area. At that time, the Ise clan was close to the shogun and held positions in the shogunate's office of administration (mandokoro) and also had connections with the Ise Bay Inland Sea.Through a study of the connections that existed between the Ise clan and hikan (low-ranking retainers) in the mid-15th century, this paper presents a general portrait of the organization of hikan, and in addition to identifying underlying organizational principles, it also examines characteristics of the power structure of the Ise clan.Ise clan administrative officials who served in the capital (Kyoto hikan) served at the Muromachi palace as personal attendants of the shogun. When they served in their home province they made the local inhabitants their retainers, thus playing an important role in the formation of Ise clan hikan. The brokering by Kyoto hikan of meetings between provincial hikan and the Ise clan, attendance at imperial succession ceremonies and gifts was not ad-hoc, but a general practice. The relationship between the Kyoto hikan and provincial hikan was one of "moshitsugi- y oriko,"that is, between bakufu spokesmen for the imperial court and dependent retainers.We may conjecture that provincial hikan, who are seen as having constituted the military base of the Ise clan, gave their military cooperation to the Kyoto hikan whom they served. This most likely occurred because provincial hikan oversaw shogunal holdings and Kyoto hikan, who did not have their own provincial base, were frequently ordered by the Ise clan to assist bakufu vassals with shugo (military governor) reprimands. That is to say, the power structure afforded a give-and-take relationship between the two parties. However, since provincial hikan were still involved in farming, there were divisions and conflicts over the various local issues they faced, which even saw them resorting to arms to resolve a situation, resulting in an unstable military base.Whereas Kyoto hikan and provincial hikan had a"moshitsugi-yoriko"relationship, a study of the process of the confirmation of inheritance confirms links between members of the same family and the right to manage family property. Accordingly, their activities as administrative officials were combined with a bureaucratic organization for family property. In other words, the power of the Ise clan was based on a two-tiered structure comprising a family property bureaucracy and a"moshitsugi-yoriko"relationship. The different actions taken by hikan in the Bunsho change in power in which Ise Sadachika lost his power were the result of a structural problem in the power of the Ise clan caused by the differences in the two organizational principles.It is precisely this power organization based on the characteristics of the power structure of the Ise clan that enabled local overlords (kokujin) with genealogical ties to Ise clan hikan to remain active in the Ise Bay Inland Sea area up until the Sengoku period.
著者
松村 和歌子
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.142, pp.157-191[含 英語文要旨], 2008-03

春日社の宗教的分野での研究は、祭礼に集中しがちだが、祈祷や祓といった日常的な宗教活動こそ、宗教者と社会との関わりを考える上でむしろ重要だと考えられる。近年、春日社の下級祀官である神人が中世後期から灯籠奉納や祈祷などを通じ、日常から御師として崇敬者と深い関係を築いたことが明らかにされているが、こういった師壇関係の形成は、上級祀官である社司を嚆矢とし、その開始は、少なくとも平安時代末に遡る。本論考は、社司を中心に中世の春日社祀官の私的な祈祷への関わりなど、日常的な宗教者としての営みを出来るだけ具体的に論述しようとしたものである。❶章社司における御師活動の萌芽、❷章社司の御師活動の展開では、平安末から貴族の参拝・奉幣の際、社司が中執持ちとして祝詞奏上を行うようになり、日常から師檀関係を結ぶこと、同時期に宗教者として個性的な役割を果たす社司が現れ、その活躍は霊験譚にも描かれることを示した。また霊験譚自体が社司によって創り出され、記録や社記の注進等を通じて広められた場合があったことを述べた。鎌倉時代以降には、貴族の御師として重要度が更に増し、社司の任官を左右する場合もあったこと、貴族の邸内社の祭祀等その活動は、社外にも及んだことを示した。またこの動向は、他の有力神社にも共通する傾向であることにも触れた。❸章御師活動と奉幣の近世への展開では、社司の御師としての活動が近世に継続される一方、神人の御師としての活躍が中世初期に遡るであろうことを示した。さらに奉幣が、御幣またおはけ戴きとして、近世にもつながる信仰のあり方であった可能性を述べた。❹章宮廻と度数詣、❺章南円堂勤仕から南円堂講へでは、中世末に春日社で度数祓が祈祷として定着する以前、春日社諸社を廻る宮廻と本社・若宮を往還する度数詣がポピュラーかつ重要な信仰のあり方で、代勤という形で祈祷ともなり、近世にも継続したことを示した。また、春日社祀官により行なわれた南円堂勤仕は、南円堂・春日社を往還する度数詣、興福寺境内を含む宮廻、奉幣祝詞などを内容とするもので、春日講に先行する春日祀官の講的結縁として重要であること、また願主を得て行なわれ、祈祷ともなったことなどを紹介した。Religious studies research on Kasuga Shrine has tended to focus on ceremonies and rites. However, everyday religious activities such as prayer and purification rituals are important when considering relations between priests and society.It has recently come to light that from the latter part of the Middle Ages, lower ranking priests of Kasuga Shrine called "jinin" established strong relationships through the offering of lanterns and prayers with worshippers who served as "oshi". The formation of this relationship between priests and lay people began with higherranking priests called shashi and dates back at least to the end of the Heian period. This paper describes in as much detail as possible the activities of everyday worshippers through their relationship with the personal prayers of Kasuga Shrine priests, primarily shashi, in the Middle Ages.The first two chapters discuss the emergence and development of oshi activities in connection with shashi. From the end of the Heian period, a shashi would recite prayers as an intermediary when members of the nobility worshipped or made offerings. This established a relationship between priests and lay people and at the same time there emerged shashi who began to fulfill distinctive roles as priests. Their activities are also described in "Reikentan" (miraculous tales). "Reikentan" were also produced by shashi and in some cases they became widely known through reports in written records and shrine chronicles.From the time of the Kamakura period onward, the importance of nobles as oshi increased and there were even cases where they had an influence on the appointment of shashi. Their activities extended beyond the shrine, as they sometimes officiated in small shrines situated in the compounds of noble persons. A similar trend also existed in other major shrines.The third chapter examines the development of activities and offerings by oshi in the Early Modern period. While the involvement of shashi in oshi activities continued during the Early Modern period, the involvement of jinin in oshi activities most probably went back as far as the early part of the Middle Ages. The chapter also discusses the possibility that offerings made in the form of "gohei" or "ohake" were part of a religious practice that can be linked to the Early Modern period as well.The fourth chapter looks at visits to other shrines and frequent visits to Kasuga shrine and the fifth chapter discusses officiating in Nanendo through to giving recitations in Nanendo. Before frequent purification rituals became established as prayers at Kasuga Shrine at the end of the Middle Ages, it was popular to make frequent visits to shrines belonging to Kasuga Shrine and to make return trips between the main shrine and minor shrines. Moreover, this became an important religious practice and also became a form of prayer which continued into the Early Modern period.When Kasuga Shrine priests officiated at Nanendo, they made frequent return journeys between Nanendo and Kasuga Shrine. They also visited the grounds of Kofuku-ji Temple and recited prayers. This was an important part of the acceptance of Buddhism by Kasuga Shrine priests, which preceded that of pilgrams to Kasuga Shrine, and also led to an increase in people offering prayers.
著者
渡邉 一弘
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.174, pp.95-118, 2012-03

日中戦争中の弾丸除けの御守である千人針や日の丸の寄書きを見ていると、かなり頻繁に出てくる見慣れない漢字のような文字「[扌+合+辛][扌+台][扌+合+辛][扌+包+口](サムハラ)」。その文字は千人針のみならず衣服に書き込まれたり、お守りとして携帯された紙片に書かれたり、戦時中の資料に様々な形で見られサムハラ信仰とも言うべき習俗であることが分かる。戦時中のサムハラ信仰は、弾丸除け信仰の一つに集約されていたと考えられるが、その始まりは少なくとも江戸時代に遡り、その内容は、怪我除け、虫除け、地震除けなど多岐にわたっていた。「耳囊」をはじめとした江戸期の随筆にこの奇妙なる文字、あるいは符字とも呼ばれる特殊な漢字が度々紹介されている。その後、明治時代になり、日清・日露戦争といった他国との戦争に際して、弾丸除けのまじないとして、活躍することとなる。出征する兵士に持たせるお守りとして大量に配られ、その奇妙なる文字は兵士たちの間で弾丸除けの俗信として広がっていった。なかでも田中富三郎という人物の活動がサムハラ信仰を全国的に知らしめるきっかけとなり、戦時中のサムハラ信仰を全国的に普及させ、現在のサムハラ神社に引き継がれている。俗信の研究の重要性は、宗教などに権威化されたお札などと違って、民間信仰のなかから生まれ、少しずつ様々な意味づけがなされ、いつの間にか人々がその奇跡を信じ、成立するものである。戦時中の人々は、弾丸除けの俗信を信じることで、その現実を乗りきろうとした。こうした俗信の由来は、その時代時代に信じやすいように様々な逸話が加えられ、加工されていく。その時代のなかで解釈することと、その俗信の変化を通史的に整理することと、その両面が研究として必要となる。サムハラ信仰の研究は少なからずあるが、断片的であり、通史的に現代までを俯瞰する研究はない。本稿では、江戸期に始まるサムハラ信仰を現代まで俯瞰することを目的とする。"Samuhara," which is a group of letters like unfamiliar kanji, appears very often in senninbari, which is a charm against bullets during the war, and hinomaru yosegaki. The letters were not only written on senninbari but also on clothes and pieces of paper to be carried as charms and appear in wartime materials in various forms, which indicates that the custom was what could be called the samuhara belief.The wartime samuhara belief would have been focused on a single belief to protect against bullets. However, when it started in the Edo period, its contents varied from protection against injuries to that against insects, and earthquakes, etc. Essays from the Edo period, including "Mimibukuro," often introduce these strange letters or kanji, known as fuji.During the Meiji period, these letters played an important role as a charm against bullets in wars against other countries, such as the Sino-Japanese War and the Russo-Japanese War. They were also distributed as charms to the soldiers who went to war, and became known among soldiers as a popular belief to protect against bullets.In particular, Tanaka Tomisaburo took the initiative to ensure the samuhara belief was known nationwide. Because of him, the wartime samuhara belief spread nationwide and was inherited by the current samuhara shrine.The study of these folk beliefs is important for the following reasons. Unlike talismans authorized by religions, folk beliefs were born from popular beliefs. They gradually gained various meanings until eventually the miracles were believed in by people and became established. Wartime people attempted to surpass the reality by trusting in such folk beliefs.Various anecdotes were added to the original folk beliefs to make them more plausible in each period. Both interpretations of each period and an overview of the changes in folk beliefs over history will be necessary for the study.Although there have been many studies of the samuhara belief, they are fragmented, and none provide an overview of the complete history to the present. This article is an attempt to provide an overview of the samuhara belief from the Edo period when it started to the present.
著者
小池 淳一
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.174, pp.133-144, 2012-03

本稿では目をめぐる民俗事象を取り上げ、感覚の民俗研究の端緒とするとともに、兆・応・禁・呪といった俗信の基盤として考察した。まず最初に、柳田國男の一目小僧論を検討し、さらにその範疇に入らない年中行事における目の力に対する伝承を指摘した。次いで片目の魚の伝承や縁起物のダルマに着目し、片方の目しかない状態を移行や変化の表現としてとらえるべきであることを確認した。さらに左の目を重視する説話的な伝承が確認できること、また片目というのは禁忌の表現でもあることを見出した。最後に「見る」という行為から構成される民俗について、特に「国見」、「岡見」、市川團十郎における「にらみ」、「月見」などを取り上げて分析した。その結果、従来は「見る」行為には鎮魂の意義があるとされてきたが、さらにその内容を詳細に検討する必要があることが判明した。今後はさらに多くの「見る」民俗を分析するとともに五官に関わる民俗を総合的に検討することを目指したい。This article deals with folkloric events over the eye, marking the start of the study of folklore of the senses, which are studied as the basis of folk beliefs e.g. in the form of omens, knowledge, taboos and Magic. The article first examines the theory of the Hitotsume-kozo (one-eyed boy) of Kunio Yanagita and also indicates traditions for the power of the eye in annual events outside the above categories. Subsequently, it focuses on the tradition of the oneeyed fish and daruma dolls as auspicious and confirms that a one-eyed status should be understood as an expression of transition and transformation. Furthermore, it indicates a narrative tradition that prioritizes the left eye and finds that one-eye is also a taboo expression. Finally, this article analyzes the folklore composed of the actions of "seeing" by dealing, especially with "kunimi," "okami," "nirami ( glare) " in Ichikawa Danjuro, "tsukimi ( moon viewing) ," etc. As a result, the need for further detailed examination of the contents is clarified, although actions of "seeing" were conventionally thought to mean soothing someone's soul. In future, the author of this article would like to analyze more "seeing" folklore and comprehensively examine the folklore of five senses.
著者
奈倉 哲三
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.157, pp.249-276[含 英語文要旨], 2010-03

戊辰戦争期に江戸で生活していた多くの市民・民衆は、東征軍による江戸駐留に対して拒否的な反応を示していた。「新政府」は江戸民衆のそうした政治意識を圧殺・再編せざるを得ず、両者の間で激しい抗争が展開される。この抗争は、新旧両権力間で展開している戊辰戦争とは異なる、もう一つの戊辰戦争である。本稿は、このもう一つの戊辰戦争を、民衆思想史の視点から解明したものである。ただし、本稿は正月十二日慶喜東帰から四月二十一日大総督宮入城までに限定し、その間に江戸民衆の眼前で生起した事象を分析し、江戸民衆の意識・思想をめぐる抗争の特質を解明した。旧幕府諸勢力の動きは多様であったが、小諸藩主牧野康済(やすまさ)の歎願書は際だっていた。ひたすら、臣子として徳川家に仕えることで朝廷に仕えるのだ、との論理一つを主張、朝命だからとて慶喜追討の兵は出せないと突っ張り、出兵拒否で「朝廷の闕失を補う」とまで直言した。この論理が大総督宮入城当日に、江戸市民の眼前に示されていた。一方、東征軍の江戸入り総過程を通じ、江戸市民の負担は急激に膨張する。それにより「万民塗炭之苦」を朝廷が救うとの論理は破綻し、「天子之御民」は空語となる。江戸町民は、東征軍入城によって下層民にまで負担が及ぶ状況の改善を町奉行所に提出、入用が嵩んだ四月五日には町人惣代九十余名が歎願書を先鋒隊宿所に提出した。他方、柳河春三(しゅんさん)は二月下旬以来、「新政府」嫌悪を根底に据えつつも軍事的抵抗は無益とし、外国交際と言論を重視する市民派新聞『中外新聞』を発行し続けていた。この市民派新聞が背景の力となって、四月二日、江戸町奉行佐久間鐇五郎(ばんごろう)は市中困窮人への御救米支給を決定した。統治権の委譲を目前にして、新権力へのギリギリの抵抗として、市民・民衆の側に寄り添う政策を打ち出したのであった。以上が、この時期江戸市民・民衆の意識をめぐる抗争の特質である。Most citizens and common people who lived in Edo during the Boshin War showed a rejective response to the Tosei Army stationed in Edo. "The new government" had no choice but to suppress and rebuild the political awareness of the Edo citizens, and a fierce feud between the two parties developed. This feud, different from the Boshin War fought between the old and new powers, is another Boshin War. This article sheds light on the other Boshin War from the viewpoint of historical public thought. However, this article is limited to the period between January 12th when Yoshinobu returned to Edo and April 21st when the governor general entered the castle, and analyzes the events that happened in front of the eyes of the Edo citizens during that period, and reveals the characteristics of the feud over the awareness and thought of the Edo citizens.While moves by assorted influences of the old feudal government varied, the petition by Makino Yasumasa, the lord of Komoro domain, stood out. He insisted on one theory alone that he would serve the Imperial court by serving the Tokugawa family as vassal, and stuck to the idea that he could not send his army to subjugate Yoshinobu even though it was the order of the Imperial court. He even petition fearlessly to "compensate the delinquency of the Imperial court" by rejecting the dispatch of troops. This theory was displayed before the nose of the Edo citizens on the day when the Governor General entered the castle.On the one hand, through the whole process of the Tosei Army entering Edo, the burden of the Edo citizens suddenly expanded. Owing to this, the principle whereby the Imperial court would rescue "the nation's terrible suffering" collapsed, and "emperor's nation" became a null word.Town people in Edo requested the magistrate's office improve the situation whereby even the lower class people had to share the burden of the entrance of the Tosei Army to the castle. On April 5th when the needful cost mounted, approximately ninety town officials submitted a petition to spearhead force lodging.On the other hand, although having an aversion to "the new government" from the bottom of his heart, Yanagawa Shunsan assumed that military counteraction would have no benefit, and since the end of February continued to issue the "Chugai shimbun," a civil newspaper emphasizing relationships with foreign countries and speech.Supported by the civil newspaper, Sakuma Bangoro, the Edo magistrate's officer, decided to supply impoverished people in the city with rice on April 2nd. Just before turning over sovereignty, as a last-minute resistance against the new power, he adopted policies siding with the citizens and common people.Described above are the characteristics of the feud over the Edo citizens and common people's awareness during this period.
著者
勝田 至
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.174, pp.7-30, 2012-03

近代の民俗資料に登場する火車は妖怪の一種で、野辺送りの空に現れて死体をさらう怪物である。正体が猫とされることも多く、貧乏寺を繁昌させるため寺の飼い猫が和尚と組んで一芝居打つ「猫檀家」の昔話も各地に伝わっている。火車はもともと仏教で悪人を地獄に連れて行くとされる車であったが、妖怪としての火車(カシャ)には仏教色が薄く、また奪われる死体は必ずしも悪人とされない。本稿の前半では仏教の火車と妖怪の火車との繋がりを中世史料を用いて明らかにした。室町時代に臨終の火車が「外部化」して雷雨が堕地獄の表象とされるようになり、十六世紀後半には雷が死体をさらうという話が出現する。それとともに戦国末には禅宗の僧が火車を退治する話も流布し始めた。葬列の際の雷雨を人々が気にするのは、中世後期に上層の華美な葬列が多くの見物人を集めるようになったことと関係がある。猫が火車とされるようになるのは十七世紀末のころと見られる。近世には猫だけではなく、狸や天狗、魍魎などが火車の正体とされる話もあり、仏教から離れて独自の妖怪として歩み始める。悪人の臨終に現れる伝統的な火車の説話も近世まで続いているが、死体をさらう妖怪の火車の話では、死者は悪人とされないことが多くなった。人を地獄に連れて行く火車の性格が残っている場合、火車に取られたという噂がその死者の評判にかかわるという問題などから、次第に獄卒的な性格を薄めていったと考えられる。Kasha, which emerges in modern folklore, is a kind of monster which appears in the sky over funeral processions and carries away the dead. The monster is often identified as a cat, and "nekodanka," which is an old tale of a cat playing tricks together with the priest of a poor temple to make the temple prosper, is also known in various places.Kasha was originally a Buddhist carrier that allegedly took villains to hell. However, when kasha is portrayed as a monster, its Buddhist character is weakened, and the dead taken by kasha are not necessarily villains. The first half of this article clarifies the connection between kasha in Buddhism and kasha as a monster, using medieval materials. During the Muromachi period, kasha for the death was "externalized," and thunderstorms were considered to represent going to hell, while in the last half of the 16th century, the story of thunder carrying away the dead appeared. At the same time, at the end of the Sengoku period, the story of a Zen Buddhist monk defeating kasha gained ground. People's concerns about thunderstorms at funeral processions are connected with the fact that in the last half of the Middle Ages, gorgeous funeral processions of the upper classes attracted many spectators.It seems that kasha were first identified as cats in the late 17th century. In early modern times, kasha were also identified as raccoon dogs, tengu, moryo, etc., leaving Buddhism and beginning to walk alone as unique monsters. The traditional story of kasha, which appears at the death of a villain, was continued until early modern times, but in the story of kasha as a monster carrying away the dead, the dead was often not villains. If kasha still had the character of a monster which carries away people to hell, the rumor that kasha took the dead might have tarnished the reputation of the latter. For this reason, the character of kasha as a tormenting devil in hell would have gradually been weakened.
著者
土佐 博文
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.116, pp.255-274, 2004-02

蘭方医佐藤泰然によって佐倉本町に開かれた蘭医学塾佐倉順天堂には、日本各地から多くの塾生が集まり、その数は数千を数えたという。しかしながら、一部の有名な人物以外の全体像については必ずしも明らかにされていない。これは適塾などのように、全時期にわたってまとまった形で門人帳が残されていないという史料的制約によるものである。また、多くの門人名については村上一郎氏の著書『蘭医佐藤泰然』にも挙げられているが、出身地の記載がなく追跡調査には困難を伴う状況である。そのような状況において、本稿では、一時期の門人の状況を示すものではあるが、門人の出身地が記載されたものとして貴重である、慶応元年閏五月の『佐倉順天塾社中姓名録』をもとにした門人の追跡調査の結果に基づき、詳細が判明した門人について紹介し、その全国的な広がりについて考察する。また、調査によって門人の子孫の所在が確認できた、佐倉藩医で明治以降軍医として活躍する西友輔と、明治期に官界で活躍する茨城県千代川村出身の塚原周造の関係史料について紹介する。最後に、調査の過程において塚原周造関係史料のなかからみつかった、彼が順天堂在塾中に作成したと考えられる『順天塾姓名録』について紹介する。これによって、従来知られている門人帳と比較検討してその分析を試みる。
著者
崔 吉城
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
no.70, pp.161-183〔含 図4p〕, 1997-01

戦後韓国社会の高度成長は朴正煕大統領の経済開発計画とセマウル運動によるものといわれている。特に農村の精神革命とも言われているセマウル運動は朴大統領自ら信念をもって一貫的に推進して成功させたという。それは彼自身農村出身であり農村近代化を推進したことであり,農民層に政治的基盤を置き,国民総和をもって長期執権のために維新憲法を発布してしまったのでセマウル運動の評価は必ずしも肯定的なものだけではない。しかし,とにかく朴大統領の政策や戦後韓国経済の高度成長を理解するためにセマウル運動の研究は必要と思う。その運動の契機や起源はまだ不明である。北朝鮮の千里馬運動とかトルコのケマルパシャ革命などと言われているが寡聞かも知れないが分析的な研究はまだない。私は朴大統領時代を経験したものの一人としてセマウル運動は戦前の日本における農村開発運動と似ていると思った。最近セマウル運動が日本植民地時代の農村振興運動と似ているという言及があったので,私はその実証的な研究をしようと考え,資料を収集した。その過程において,朴大統領が三年間小学校の教師をした学校が農村振興運動の指定学校であったことがわかった。その学校を現地調査をしたところ,老人たちによって朴氏が農村振興運動指定学校で指導していたことを確認した。一方では朝鮮総督府の宇垣一成総督の時嘱託として農村振興運動を指導した山崎延吉を知るために安城市の『山崎文庫』を尋ねて調査をした。私は本稿で植民地に因んでいる反日的な枠を無視して脱価値論的に文献研究と現地調査を合わせて日本植民地時代の農村振興運動は朴大統領のセマウル運動のモデルになっているということを明らかにしたい。Post-war Korea's progress is said to have resulted from President Park Ch'ung-hee's economic plan, and also from the Saemaul movement. In particular the latter movement ― hailed as a spiritual revolution among agricultural communities ― is said to have succeeded thanks to the efforts of President Park, who was an enthusiastic supporter. He himself had come from an agricultural village, and had urged the modernization of such communities. He had built a political base among farmers, and had promulgated a forward-looking peace-time constitution, so his interest in the Saemaul movement was more than merely perfunctory. To attain an understanding of President Park's policy and South Korea's post-war economic development it is essential, I believe, to study the Saemaul movement. Its nature and origins are still obscure. It has been compared, perhaps superficially, to North Korea's Ch'onrima movement, and to the revolution carried out by Kemal Pasha in Turkey, but thus far it has received little analysis. As one who lived through this period, it seems to me that the Saemaul movement resembled pre-war Japan's Movement to Develop Agricultural Villages. I have been gathering materials for an empirical study of the Saemaul movement, spurred on by recent claims that it shares similarities with the Movement to Encourage Agricultural Villages which was launched in Korea under Japanese colonial rule. While doing so I discovered that the primary school in which President Park had taught for three years as a young man was one which had been designated as a unit in the Movement to Encourage Agricultural Villages. On paying a visit to the area in which this school was located I was informed by elderly people that Park had led the school's participation in the movement. I also visited the Yamazaki Archives in Anjou City to learn more about Yamazaki Nobuyoshi, whom Ugaki Kazushige, then Governor-General of Korea, had placed in charge of the Movement to Encourage Agricultural Villages. In this paper, ignoring any hostility to Japan because of the history colonial occupation, I demonstrate through a combination of objective research and field work that President Park's Saemaul movement was modelled on the Movement to Encourage Agricultural Villages promoted by Japan in colonialKorea.