- 著者
-
山本 隆志
- 出版者
- 国立歴史民俗博物館
- 雑誌
- 国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
- 巻号頁・発行日
- vol.157, pp.83-105, 2010-03
荘園・村落に居住する百姓の生活は田畠耕作を基本としたが、それだけでない。地域の自然を自然に近い状態で利用し、生活の糧としてきた。このような地域的自然の利用・用益を「生業」と概念化し、そのあり方を歴史的にとらえようとすると、「中世史」という時代区分のなかだけで問題をとらえることは難しい。本稿では、葦と菱を事例にして、平安時代から江戸時代前期の史料に基づいて考察するものである。難波浦では浦の用益の一つとして葦苅取が平安期から盛んであり、都の需要と結びついて増大したが、個別の荘園や村落の排他的独占地域は設定されなかった。琵琶湖周辺では鎌倉期からの用益が認められるが、南北朝期には荘園領域に編入されており、奥嶋庄では百姓等が庄官と対抗しつつ自己の独占的排他的葦場を設定する。これが戦国期になると村の排他的葦場を確保する動きが多くなり、当該地域の舟運・漁業などの多様な用益を否定することになるが、多様的用益を求める郷・村の動きも強く、相論が恒常的となり、調停も日常的となり、場合によっては領主権力に依存することとなった。菱の用益も奈良・平安期から見られるが、平安後期の武蔵大里郡のように水害地に在地側が意図的に栽培することも見られ、農民の救荒的食料として期待された。戦国~江戸期には、尾張や摂津の湿地帯では、菱栽培が都市需要を見込んだ商品的作物として栽培された例が見られるが、菱を独占的排他的に栽培する菱場を設定するにはいたらなかった。葦・菱ともに浦や湖辺の湿地に用益が見られるが、それは湿地の多様な用益の一つとして進展するのであり、葦場として特化した用益地の設定には在地での抵抗が起こり、葦場は設定されても、限定的な方向が在地の相論・調停のなかで展開する。湿地用益は、特定の用益目的に限定される傾向にも向かうことは少なく、多様な主体と用益形態が展開しており、そうした方向が在地での相論・調停のなかで維持されてきた、と考えられる。「湿田」もこのような多様な用益形態の一つであろう。