- 著者
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光平 有希
- 出版者
- 国際日本文化研究センター
- 雑誌
- 日本研究 (ISSN:09150900)
- 巻号頁・発行日
- vol.52, pp.33-59, 2016-03
人間が治療や健康促進・維持の手段として音楽を用いてきたことの歴史は古く、東西で古代まで遡ることができる。各時代を経て発展してきたそれらの歴史を辿り、思想を解明することは、現代音楽療法の思想形成の過程を辿る意味でも大きな意義を孕んでいるが、その歴史研究は、国内外でさかんになされてこなかった。 この音楽と治療や健康促進・維持との関係については、日本においても伝統芸能や儀礼の中で古くから自国の文化的土壌に根付いた相互の関連性が言及されてきた。しかしこのような伝統芸能や儀礼だけでなく、近世に刊行された養生書の中には健康促進・維持に音楽を用いることについていくつかの記述があることが明らかとなった。その中から本論では、養生論に音楽を適用した貝原益軒に焦点を当て、(1)貝原益軒における音楽思想の基盤、(2)貝原益軒の養生観、(3)貝原益軒の養生論における音楽の役割、(4)貝原益軒の養生論における音楽の効果と同時代イギリスの「非自然的事物」における音楽の効果との比較検討、と稿をすすめながら、益軒の考える養生論における音楽効果の特徴を解明することを研究目的とした。 その結果、『養生訓』『頤生輯要』『音楽紀聞』を中心とした益軒の著作の分析を通じて、益軒の養生論における音楽の適用の基盤には、『礼記』「楽記篇」を中心とした礼楽思想と、『千金方』や『黄帝内経』など中国医学古典に起源を持つ養生観があるということがわかった。そして、その基盤上で論じられた音楽効果に関しては、特に能動的に行う詠歌舞踏に焦点を当て、詠歌舞踏の持つ心身双方への働きかけが「気血」を養い、それが養生につながるという考えを『養生訓』から読み解くことができた。また、同時代イギリスにおいて書かれた養生論における音楽療法思想と益軒の思想とを比較してみたところ、益軒の音楽効果論には音楽の「楽」の要素を重視し、音楽が心に働きかける効果を特に重んじているという特徴が見られた。 このように益軒の養生論における音楽効果は、古代中国古典の思想を基盤としながらも、その引照に終始するのではなく、益軒の生きた近世日本の土壌に根付いた独自の観点から音楽の持つ心理的・生理的な効果を応用して、心身の健康維持・促進を図ることを目的として書かれているという点で、重要な示唆を含んでいると考えられる。