- 著者
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青木 恭子
- 出版者
- 富山大学人文学部
- 雑誌
- 富山大学人文学部紀要 (ISSN:03865975)
- 巻号頁・発行日
- no.65, pp.59-82, 2016
帝政ロシアでは,ウラルの東に広がるアジア部分の帝国領(以下,本稿ではアジアロシアと呼ぶ)の植民および開発は,経済的にも政治的にも,そして安全保障上も重要な意味を持つ,国家的事業として推進されていた。その国家的事業の直接の担い手となるのは,ヨーロッパロシアから移住する農民である。彼らに期待されていたのは辺境地域の開拓だけにとどまらない。「ロシア」をウラル以東へ拡大し,「統一された不可分のロシア」を創り上げること,一言で言えば帝国の「ロシア化」の担い手となることもまた期待されていた。しかし,移住農民には帝国の一体化も「ロシア化」も全く関係のないことだった。彼らは政府の移住奨励策を利用しようとしていたが,だからといって政府の意向に従うわけでもなく,彼らなりの論理に基づいて行動していた。帝国統治の文脈でアジアロシア植民が持つ意味と,個々の移住農民の人生にとって移住という経験が持つ意味は,同じではなかった。本稿は,アジアロシア移住を農村社会および農民家族の伝統や慣習と関連づけて分析する試みである。移住前と移住後では農民家族のあり方に何か変化が生じているのか,生じたとすれば何がそれをもたらしたのか考察する。そして,国家的事業としてのアジアロシア入植という大きな枠組みに,移住農民家族の経験がどのように位置づけられるのか,考えていきたい。