- 著者
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谷岡 武雄
- 出版者
- 史学研究会 (京都大学文学部内)
- 雑誌
- 史林 = THE SHIRIN or the JOURNAL OF HISTORY (ISSN:03869369)
- 巻号頁・発行日
- vol.56, no.3, pp.319-350, 1973-05-01
個人情報保護のため削除部分あり駿河・遠江の両国々境に展開する大井川扇状地においては、散居景観が典型的に発達している。かかる集落型の起源について、従来は近世初期の成立にかかるものと考えられた。しかし筆者らは、居住地の時間的連続性・居住者の系統性・集落型の継承性という三方向から実態調査に基づくアプローチを行ない、いままでとは異なった結論を得るに至った。すなわち、台地の開析谷・扇側や扇裾の一部においては、大治四年の質侶荘立券文案に示されたごとき条里制に基づく土地割が残存している。また、向榛原の一部には堤防で囲われた輪中地形がある。したがって、洪水から比較的に安全な扇状地上位面(微高地) に居住し、しばしば氾濫する同下位面にて水田を営むという生活が、古代から行なわれてきたことは明らかである。しかも文安二年の請状や嘉吉三年の検地目録に記載された名主百姓の系統を引くものが、現在の散居農家の中に見いだされ、居住者の家系を若干は十五世紀前半まで、ごく一部は十二~十三世紀までさかのぼることができる。かかる事実のうえに立ち、上記立券文および検地目録、土地所有関係、本家~分家関係を検討した結果、この扇状地の大部分では、散居的開発→氾濫による耕地の荒廃→それの再開発という過程が繰り返されたけれども、居住条件が良好なところでは、全体として階層分化が進行し、居住密度が高まりながらも、同じような散居的集落形態が、歴史の諸時期を通じて継承されてきたことが判明した。十五世紀前半以降に見られる集落型の継承は、それ以前の時期においても行なわれたのではなかろうか。世界的に見て、dispersion intercalaire のタイプに属すると思われる日本の散居集落は、古代には集居集落との未分化なかたちであらわれ、遠隔地荘園が経営されるような pioneer fringe において、開拓に伴う集落型として顕現するに至ったように考えられる。There can be found a typical landscape in the boundary area between Suruga 駿河 and Tōtōmi 遠江. And it has been assumed that such a settlement-type has its origin in the early modern age. In this article I investigated this problem from three view points; that is, the continuity of the settlement area, pedigrees of the settlers and succession of the settlement-type. As the result of that investigation I found it out that in this fan man continued to live in just the same dispersed settlement from the early times. I think that type of the settlement existed not only after the first half of the fifteenth century but also before that time. The dispersed settlement of Japan which belongs to the type of the dispersion intercalaire appeared as the form not distinct from the amalgamated settlement in the ancient time and showed itself as reclamation work went on in the pioneer fringe in which remote manors was set up.