- 著者
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謝 銀萍
- 出版者
- 国際基督教大学キリスト教と文化研究所
- 雑誌
- 人文科学研究 (キリスト教と文化) = HUMANITIES (Christianity and Culture) (ISSN:24346861)
- 巻号頁・発行日
- no.52, pp.(237)-(257), 2020-12-15
本稿では、屏風絵地獄変の誕生に関わる絵師良秀、小猿、良秀の娘の死に着目し、それぞれをいかに理解すべきかを追及し、芸術における死の意味を突き止める。そして「戯作三昧」における馬琴像との関係性を踏まえ、芥川が本作を通して求めようとした芸術家のあるべき姿を明らかにする。先行研究では、芸術と権力、芸術と生活という二項対立の前提の下で、良秀の死が芸術至上の表現か、生活への敗北かと言われ続けてきた。けれども、小猿の死と良秀の娘の死を合わせて考えれば、むしろ「地獄変」は芸術対生活の構図から脱構築の作品として読める。小猿の殉死の前後に見られる良秀の表情の変化からすると、その死があってからこそ、良秀は家族愛という世俗観から抜け出し、完全な芸術家へ進化することに成功したといえる。小猿の人間的な一面に引き立てる良秀の原始的で野性的な意欲が、目の前の地獄よりも地獄である現実を受け止めさせたのであろう。良秀の意図的な自殺により、これまで亀裂のある良秀の両面が統合し、完全な芸術家かつ完全な人間像が完成する。良秀の死のタブー化と、威厳に感じられる屏風図より、命の代わりに永遠に超えられない芸術的な地位という良秀、いわば作者芥川の野心は実現したと指摘できる。また、良秀の娘の死は彼女が自主的に選んだものであり、父親の芸術に献身したといえる。彼女の悲劇的な死があったからこそ、地獄変の芸術的価値が昇華される。小猿、娘、良秀の死により、芸術至上のテーゼが見とれる同時に、世間の五常もまっとうとしている。このような設定により、芸術と生活の対立は和解され、立体的で人間らしい芸術家の形象が成り立つこととなる。 「地獄変」での大胆な試みの以前に、芥川は「戯作三昧」で芸術家を悩ませる外部的な影響要素と戦いながら、やっとのことで初心に咲き返し、一時的な三昧地を手に入れた馬琴像を構築した。しかし馬琴が到達した非日常的な空間はあくまで一時的なものであり、それが良秀の場合になると、その自殺により永遠なものとなってしまう。日常に縛り付けられる馬琴が人間の五常を凌駕する良秀へ変身するところに、売文、家族などに縛り付けられている芥川は作品の世界で、徹底的に芸術創作に取り込み、完全な芸術家となるという野心を実現したといえよう。