著者
千葉 基次
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.6, no.7, pp.1-24, 1999

1895(明治28)年の"鳥居龍蔵第1回南満州地域踏査"は,支石墓研究の幕開けである。鳥居氏は,析木城の「姑嫂石」という「石室」をヨーロッパでいう"ドルメン"とみなした。現在の卓子形(式),北方式支石墓である。さらに,後年に鳥居氏は朝鮮半島にも踏査をひろげ,現在南方式とも分類される碁盤形の支石墓を認めた。鳥居氏は,卓子形と碁盤形二種の存在と分布の違いを指摘し,そして碁盤形を古式と考えた。一系一統論による支石墓研究は,ここに始まる。以後これは,1960年代末から有光教一,甲元眞之,石光濬氏等の一つの母体から複数の形が生まれると考える一系多統論による研究が提示されるまでの枠組みである。しかし,一系一統論による支石墓研究は,終焉していない。<BR>筆者は,遼東地域の積石墓,土器あるいは青銅器の資料をとおして得た知見をふまえ,朝鮮・韓半島地域では同型の磨製石剣が複数の形態の支石墓に副葬されることから,伝統的研究法に疑問を説いた。それは,卓子形は始めから卓子形であり,南方式・碁盤形は元をたどれば遼東半島地域の積石墓にまで遡れるとの指摘であり,"〓石墓"と名付けた。<BR>本文は,卓子形(式)・北方式支石墓を"支石墓"とする。支石墓は,左右の支石に対し,後支石の位置が分類の要であると考え,後支石を左右支石の小口外側に置く小関屯型と,小口内側に置く興隆型とに分けた。両者は,各々に付加要素を持つ支石墓があり,原型・古式の支石墓の推定,そして複数の形態が並行して作られている可能性の変遷と年代について述べてある。支石墓は,構造を共通にして遼寧省,吉林省,朝鮮・韓半島地域の複数の文化の中で作られたと考えられ,地域分離での論議は適切ではないと考える。共通の文化・社会が存在すると考えるのではなく,共通の原型を持ちながら幾つかの地域文化に作られ,固有化の変遷が示されていると考察した。

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