著者
藤原 哲
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.11, no.18, pp.37-52, 2004-11-01 (Released:2009-02-16)
参考文献数
118

弥生時代における戦闘はどのようなものであったのか? その様相を具体的に明らかにすることが本論の目的である。こうした問題を検討するため「武器」と「殺傷人骨」を取り上げ,対人殺傷の分類・検討を試みた。研究の方法としては「殺傷人骨」を主な資料とし,「武器」と「殺傷人骨」との関係から,弥生時代における対人殺傷方法の型式的な分類を行う。先ず「武器」を至近距離戦用武器(短剣),接近戦用武器(刀剣類),遠距離戦用武器(弓矢)の3種に大別する。これに基づき,対人殺傷方法を,I・至近距離武器による殺傷,II・接近武器による殺傷,III・遠距離武器による殺傷,そしてIV・遠・近距離武器の殺傷に区分する。この区分により「殺傷人骨」をいくつかのカテゴリーで分類した結果,「殺傷人骨」に見られる弥生時代の殺傷方法も極めて多岐に及ぶことが明らかにできた。特に弥生時代前半(早期~中期)は短剣による(背後からの)殺傷や,弓矢による(側・背後からの)殺傷などが多く,数人単位の戦闘が主であると考えた。また,矢合戦や暴力的儀礼(殺人)の可能性も指摘した。これに対し,弥生時代後半の殺傷人骨には,鉄剣や鉄刀などが想定される鋭利な殺傷痕跡や遠・近距離武器複数の殺傷から「まず矢を射て,最後に剣で止めをさす」といった戦闘が考えられた。また特に,中期末~後期には1遺跡から大量に殺傷人骨が出土する例が認められた。以上の結果から,弥生時代の具体的な戦闘は小規模な「奇襲・襲撃・裏切り」や儀礼的な争いなどが中心であり,弥生時代後半,特に中期末~後期には激しい「集団戦」の比重が高まると想定した。これらの変化には政治力・動員力の確立や,金属器の流通といった社会的な背景が想定され,弥生時代の戦闘は単なる「戦い」から「戦争」へと移る過渡的な「未開戦」段階にあると評価した。
著者
工藤 雅樹
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.1, no.1, pp.139-154, 1994-11-01 (Released:2009-02-16)
参考文献数
122

古代蝦夷については,アイヌ説と非アイヌ説の対立があることはよく知られている。戦後の考古学研究の成果は,東北北部でも弥生時代にすでに稲作が行なわれていたことを証明し,近年の発掘調査によって奈良,平安時代の東北北部の集落が基本的には稲作農耕をふまえたものであることも確実とされるに至っている。このようにして蝦夷日本人説は一層の根拠を得たと考える人もいる。しかし蝦夷非アイヌ説の問題点のひとつは,考古学的にも東北北部と北海道の文化には縄文時代以来共通性があったし,7世紀以前の東北北部はむしろ続縄文文化の圏内にあったと考えられ,アイヌ語地名が東北にも多く存在することなど,蝦夷アイヌ説が根拠とすることのなかにも,否定しえない事実があることである。もうひとつの問題点は,蝦夷非アイヌ説が稲作農耕を行なわない,あるいは重点を置かない文化を劣った文化と見なす考えを内包していることである。この点を考え直し,古代蝦夷の文化の縄文文化を継承している側面を正当に評価する必要がある。従来の蝦夷非アイヌ説は地理的には畿内に,時間的には稲作農耕の光源で東北の文化を見た説,蝦夷アイヌ説は地理的には北海道に,時間的には縄文文化に光源を置いて蝦夷の実体を照射した説,と整理しなおすこができる。しかし二つの異なる光源でそれぞれに浮かびあがるものは,どちらも東北の文化の実体の一側面にほかならない。北海道縄文人が続縄文文化,擦文文化を経過して歴史的に成立したのがアイヌ民族とその文化であると見るならば,これは東日本から北日本にかけての典型的縄文文化の担い手の子孫のたどった道のひとつということになり,早くから稲作文化を受容し,大和勢力の政治的,文化的影響を受けた,もうひとつの典型的縄文文化の担い手の子孫のたどった道と並列させることができる。古代蝦夷は両者の中間的な存在で,最後に日本民族の仲間に入った人々の日本民族化する以前の呼称とも,北海道のアイヌ民族を形成することになる人々と途中までは共通の道をたどった人々とも表現できる。このように考えると,現段階では蝦夷がアイヌであるか日本人なのかという議論そのものが,意味をなさないといっても過言ではないのである。
著者
中村 五郎
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.9, no.14, pp.53-70, 2002-11-01 (Released:2009-02-16)
参考文献数
41

(1)法薬尼が高野山奥之院に造営した経塚(以下,高野山奥之院経塚という)の特色は,第一に女性が造営した経塚からきわめて高い水準の埋納品を発見し,第二に空海の加護で将来,弥勒菩薩の出現に会って仏の恩恵にあずかることへの強力な願望,第三に涅槃思想の存在である。筆者は法薬尼を堀河天皇の中宮篤子内親王と考え,造営の目的は天皇の追善で,中宮が崩御する直前に埋経した。まれに見る弥勒信仰の高揚は,天皇を追慕する人々が弥勒菩薩の出現の暁に天皇と再会したいという特異で熱烈な目的があったと推測する。中宮は熱心な仏教徒で民衆の仏教思想も受容していた。(2)経塚の造営者は通常その身元が判らないことが多く,また,造営者達の信仰が把握できない場合も少なくない。その一方で,経塚全体からみるとごく少数例だが藤原道長・同師通・白河院(上皇)のように膨大な情報量を持つ人物の経塚造営もある。高野山奥之院経塚の法薬尼を堀河中宮(以下,中宮という)としたことで一例追加された。経塚造営という習俗の始まりは道長の金峯山での埋経にあり,これら4人は当時の最上流の人々で,道長のみは数十年間遡るが,他の3人の間には近親関係がある。政治権力が集中した道長と白河院とに現世肯定的な思想があるが,とくに,中宮の場合には対照的に現世否定的な思想が明らかで民衆の間の信仰が最上流に波及したもので興味深い。(3)比叡山で活躍した最澄は人はすべて成仏できると主張し,道長の曾祖父・祖父は天皇家との婚姻関係を軸に政治権力を強化し,同時に比叡山を財政的に援助して聖職者への影響力を強めた。そして,彼ら摂関家の政治権力は道長の時期に絶頂に達し,道長は比叡山の信仰を基に経塚を造営した。摂関政治に反発した天皇家側は,後三条天皇の時期に権力を奪いかえし,次代の白河院は道長と同様に金峰山に埋経し,その後は熊野詣に熱心で,孫の鳥羽院も熊野詣で納経していた。(4)経塚造営を含めた浄土信仰や涅槃思想などは,主に聖が布教して成長する民衆の間に広まった。京都周辺の聖の行動範囲は洛北などの聖地を本拠に,叡山・南都などの本寺と京都の信者の間を往復した。広域的な聖の行動範囲では京都と荘園,あるい同一領主の荘園間の交流を利用した例もある。これらの思想・信仰は,社会階層でも地域的にも広まりを見せてやがて鎌倉仏教を成立させた。
著者
前川 要
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.12, no.19, pp.51-72, 2005-05-20 (Released:2009-02-16)
参考文献数
70

近年,都市史研究の分野では,前近代における日本都市の固有な類型として,古代都城(宮都)と近世城下町が抽出され,これらを現代都市と対峙させ「伝統都市」と位置づけることによって,新たな都市史の再検討がはじまりつつある。本稿では,こうした方法を念頭に置きながらも,都城にも城下町にも包摂されない日本固有の都市類型として,中世の「宗教都市」を具体的な発掘調査事例に基づいて分析しようというものである。そして近江における「湖東型」中世寺院集落=「宗教都市」を,戦国期城下町・織豊系城下町などとならんで近世城下町へと融合・展開する中世都市の一類型として位置づける必要性を主張するものである。特に,「都市考古学」という立場に立ち集落の都市性を見ていくという観点から,V.G・チャイルドの10個の都市の定義の要素のうち,3つの要素(人口の集中,役人・工匠など非食料生産者の存在,記念物・公共施設の存在=直線道路)に着目して中世近江の寺院集落の分析をした。その結果,山の山腹から直線道路を計画的に配置し,両側に削平段を連続して形成する一群の特徴ある集落を抽出することができた。これを,「湖東型」中世寺院集落と呼称し,「宗教都市」と捉えた。滋賀県敏満寺遺跡の発掘調査成果を中心に,山岳信仰および寺院とその周辺の集落から展開する様相を4っの段階で捉えた。また,その段階の方向性は直線道路の設定という例外はあるものの,筆者が以前提示した三方向性モデルのうちII-a類に属すると位置づけた。そして,特に4つの段階のうちIII期を「湖東型」中世寺院集落の典型の時期と捉え,その形成と展開および他地域への伝播を検討してその歴史的意義を検討した。その結果,この都市計画の技術や思想が,北陸の寺内町や近江の中世城郭やさらには安土城に採用された可能性を指摘した。その成立時期については,佐々木六角氏の観音寺城や京極氏の上平寺城の事例を見ると,武家権力が山上の聖なる地を勢力下において「山上御殿」が成立してくる時期とほぼ一致すると考えた。日本都市史においては,中世都市のひとつの類型として,「宗教都市」を挙げることができるが,特に「湖東型」中世寺院集落は,個性ある「宗教都市」の一つとして重要な位置を占める。それは,戦国期城郭へ影響を与えたのみならず近世城下町へ連続する安土城の城郭配置や寺内町吉崎の都市プランに強い影響を与えたことが想定できるからである。
著者
井出 靖夫
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.11, no.18, pp.111-130, 2004-11-01 (Released:2009-02-16)
参考文献数
53

古代本州北端に居住したエミシ集団は,これまで文献史料によって形作られたイメージが強く,考古学的にエミシ集団の特質について論じられることは少なかった。本州エミシ集団と律令国家との関わり合いや,人やモノの交流の様相についてなど考古学的に明らかにされるべき点は,数多く残されている。よって,本稿では東北地方北部のエミシ集団と日本国との交流に関して,考古学的に解明することを目的とし,またエミシ社会の特質についても明らかにしようと試みた。東北地方における遺物の分布,集落の構造,手工業生産技術の展開等の分析からは,本州エミシ社会においては9世紀後葉と10世紀中葉に画期が認められることが明らかとなった。9世紀後葉の画期は,本州エミシ社会での須恵器生産,鉄生産技術の導入を契機とする。9世紀中葉以前にも,エミシと日本国との問では,モノの移動や住居建築などで情報の共有化がなされていたが,国家によって管理された鉄生産などは城柵設置地域以南で行われ,本州エミシ社会へは導入されなかった。しかし,9世紀後葉の元慶の乱前後に本州北端のエミシ社会へ導入される。その後,10世紀中葉になるとエミシ社会では,環壕集落(防御性集落)という特徴的な集落が形成され,擦文土器の本州での出土など,津軽地方を中心として北海道との交流が活発化した様相を示す。このような9世紀後葉から10世紀中葉のエミシ社会の変化は,日本海交易システムの転換との関連性で捉えられると考えた。8・9世紀の秋田城への朝貢交易システムが,手工業生産地を本州エミシ社会に移して津軽地域のエミシを介した日本国一本州エミシ-北海道という交易ルートが確立したものと推測した。また交易への参加が明確になるにつれて,本州のエミシ文化の独自化が進んでいくことが明らかにされた。
著者
関根 達人 佐藤 里穂
出版者
日本考古学協会 ; 1994-
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
no.39, pp.91-111, 2015-05
著者
伊藤 武士
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.7, no.10, pp.127-137, 2000-10-04 (Released:2009-02-16)
参考文献数
13

秋田県秋田市に所在する秋田城跡は,古代日本最北の城柵官衙遺跡である。律令国家により天平五年(733)に出羽柵として創建され,その後秋田城と改称された。8世紀前半から10世紀にかけて律令国家体制下における出羽国の行政及び軍事の拠点として蝦夷や移民の支配と統治を行った。奈良時代には出羽国府が置かれていたとされ,また近年は,日本海を通じた大陸の渤海国や北方地域との外交と交流の拠点としての役割も注目されている。秋田城跡では1972年以降秋田市教育委員会による継続調査が実施され,外郭区画施設及び政庁などの主要施設や実務官衙などの所在と変遷が確認され,城内外の利用状況も明らかになりつつある。近年の調査では,外交交流,行政,軍事などの面において,秋田城が城柵として果たした役割やその特質に関わる重要な成果があがっている。第63次調査では,鵜ノ木地区から上屋と優れた施設を伴う8世紀後半の水洗便所遺構が検出されている。便所遺構の寄生虫卵の分析から,ブタを常食とする大陸からの外来者が使用した可能性が指摘され,奈良時代に出羽に来航した渤海使や,外交拠点として秋田城が果たした役割との関連性が注目されている。第72次調査では,画期的内容の行政文書が漆紙文書として多数出土している。それらは,移民や蝦夷などの住民の把握と律令的支配を行うための死亡帳,戸籍,計帳様文書などであり,古代律令国家の城柵設置地域における地方行政制度や住民の構成と生活実態を知るうえで重要な成果となっている。また,第72次調査では,9世紀前半の非鉄製小札甲も出土している。平安時代前期の非鉄製小札甲の出土例や伝世品はなく,日本古代の甲の変遷を考えるうえで重要な成果となっている。漆紙文書や小札甲の出土は,秋田城が平安時代に行政と軍事の枢要機関として果たした役割を示唆している。秋田城跡の調査においては,今後も行政や軍事といった城柵としての基本的機能や役割を追究すると共に,最北の城柵としての特質についても解明していく必要がある。
著者
大西 秀之
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.10, no.16, pp.157-177, 2003-10-20 (Released:2009-02-16)
参考文献数
63

“トビニタイ文化”とは,形質的・遺伝的に系統を異にするオホーツク文化集団と擦文文化集団が,北海道東部地域において接触・融合し形成された文化コンプレックスである。そこでの異系統集団の接触・融合は,単に考古資料のレベルのみならず,まさに個人の遺伝レベルにおいても生起していたことが明らかにされている。しかし,これまで,どれくらいの規模の擦文文化集団が“トビニタイ文化”の集落に入り込み,そこでどのような社会的関係を取り結んでいたのか,という問いに対する十全な回答は提起されてこなかった。そのような課題を踏まえ,本稿では,“トビニタイ文化”における異系統集団の多層的な社会関係へのアプローチを試みる。こうした目的の下,本稿では,土器群の組成について検討をおこなった上で,“トビニタイ文化”の住居址の属性分析を加える。まず,土器群の組成からは,時期的・地域的に差異を示しつつも,搬入品や模倣品を含めた“擦文式土器”の割合が増加する反面,土器群に占めるトビニタイ土器の割合が低下し,一次接触地帯では土器群の主体がトビニタイ土器から“擦文式土器”に移行してしまう,という傾向が捉えられる。しかし反面,住居址の属性分析からは,その多くがオホーツク文化の系譜に位置づけられるものであり,また擦文文化的な属性はトビニタイ土器製作集団の側が主体的に受容したものである,という結論が導びかれる。以上の結果を是認する限り,“トビニタイ文化”の主要な担い手は,あくまでもオホーツク文化の末裔たるトビニタイ土器製作集団であると想定せざるをえない。さらに,住居址から想定される居住形態に依拠するならば,“トビニタイ文化”の集落における擦文文化集団は,常態として,彼等が単独で世帯を形成することなく,トビニタイ土器製作集団を主体とする世帯のなかに同居していたとの推論が成り立つ。最後に,そうした擦文文化出自の人物の同居は,ひとつの可能性として「婚入」によって生起したという仮説を提起する。
著者
山田 康弘
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.4, no.4, pp.1-39, 1997-10-10 (Released:2009-02-16)
参考文献数
247

本稿は縄文時代の子供の埋葬例を集成・検討することによって,当時の人々の生活史の一端を明らかにすることを目的としたものである。まず,初めに集成した子供の埋葬例を年齢段階順に新生児期・乳児期・幼児期・小児期・思春期の5段階に区分し,埋葬形態を施設・単独葬か合葬か・合葬の場合の相手の性別・単葬か複葬かというように分類したうえで,各地域・時期別にそれぞれの埋葬形態を把握した。その結果,子供の埋葬形態は,大人のそれと同じように単独単葬例が最も多く,土器棺葬例は幼児期以前に,多数合葬例は幼児期以降に多いという傾向性が明らかになった。また,埋葬時に付加された様々な属性,埋葬姿勢・位置・赤色顔料の散布・土器棺内の人骨の週齢・合葬人骨の性別・装身具の着用などを検討し,次の点を指摘した。埋葬姿勢は大人とあまり変わらない。埋葬位置は住居跡に絡んで検出される場合が多い。赤色顔料の散布は新生児期からされるが,地域性がある。土器棺内から出土した新生児期の人骨は週齢38週以上のものが多く,新生児早期死亡例と考えられる。また,土壙などに埋葬されたものは38週以下のものが多い。大人と子供の合葬例では,乳児期以前は女性と合葬されることが多く,幼児期以降には男性と合葬されるようにもなる。これは子供の行動範囲が幼児期を境に変化したことを意味する。装身具の本格的な着用は幼児期以降に行なわれるが,玉類・貝輪を中心とした首飾りや腕飾りに限られ,頭飾りや腰飾りなどは存在しない。これは装身具の着用原理が大人と子供で異なっていたためと考えられる。次に大人と子供の埋葬例が検出された6遺跡の事例を検討し,埋葬時に付加された属性の差異について具体的に明らかにした。これらの諸点を総合して,当時の子供の立場が年齢によって変化することを述べ,子供が大人になるまでの生活史モデルを提示した。
著者
高島 英之
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.7, no.9, pp.53-70, 2000-05-15 (Released:2009-02-16)
参考文献数
20

集落遺跡出土の墨書・刻書土器は,村落の内部における祭祀・儀礼等の行為に伴って使用されたものである。土器に墨書する行為は,日常什器とは異なるという非日常の標識を施すことであり,祭祀用に用いる土器を日常什器と区別し,疫神・祟り神・悪霊・鬼等を含んだ意味においての「神仏」に属する器であることを明記したものであると言える。墨書土器は,集落全体,もしくは集落内の1単位集団内,或いはより狭く単位集団内におけるところの1住居単位内といった非常に限定された空間・人的関係の中における祭祀や儀礼行為に伴って使用されたものであり,記された文字の有する意味は,おそらくそれぞれの限定された空間や集団内において共通する祭儀方式の中でのみ通用するものであり,個々が多様な時間的・空間的広がりの中で機能したと考えられる。文字を呪術的なものとして受容したところに,古代の在地社会の特質があるわけであり,祭具として東国を中心とする在地社会に浸透していったと見られるのである。
著者
吉本 洋子 渡辺 誠
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.1, no.1, pp.27-85, 1994-11-01 (Released:2009-02-16)
参考文献数
280

従来人面把手とよばれていたものは,実際には把手としては機能せず,宗教的機能をもった装飾と考えられる。本稿は,その宗教的機能を解明するための基礎的研究として,それらの時期的・地理的分布を明らかにすることを目的にしている。そのために機能の違いを想定して煮沸用の深鉢形土器に限定し,他の器種と区別した。その分布は北海道から岐阜県にかけての東日本に集中し,293遺跡より443例出土していることが判明した。人面装飾付土器が主体で94%を占め,土偶装飾付土器は少ない。人面装飾付土器は形態上4類に分類される。I類は胴部に,II類は口縁部に,III類は口縁部上に人面装飾がみられる。そしてIV類はIII類がさらに発達して大型化・立体化したもので,顕著に把手状を呈するようになる。それらのうち始めに出現したのはII類で,縄文時代前期前葉である。中期初頭にはIII類の発達が著しく,中期前半にはIV類が発達し,併せてI類や土偶装飾付土器もみられるようになる。しかし中期後半には急速にIV類などが減少し,もとのII・III類のみになる。地域的にみても,IV類は主に長野県・山梨県・東京都に集中している。時期的にも地理的にも勝坂式文化圏に相当し,同文化圏の代表的な遺物である。IV類の特徴である大型化などについて,それを客観的に理解できるように顔面サイズの測定を行った。その結果I~III類とIV類との大小2群に分かれることが判明した。しかし正確にはIV類にも大小2群が含まれていて,共存している。そのサイズは,高さ・幅とも13cmが目安である。その顔が成人女性であることは,耳飾りをつけていることから明らかである。そのうえ出産を表現した例さえある。また頭上や向かいあって男性を示すマムシとセットをなすことがあり,性的結合によって生じる新しい命としての食べ物を,神と共に食べた宗教的な行事を示唆している。そのうえその直後に,けがれを恐れて底を抜いたことを証明するような埋設例もみられるのである。時期的・地理的分布状態の正確な把握を基礎として,原日本文化である縄文文化の精神世界を実証的に明らかにしていきたい。
著者
植田 文雄
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.12, no.19, pp.95-114, 2005-05-20 (Released:2009-02-16)
参考文献数
60

祭祀形態の一つとして,祭場に柱を立てる立柱祭祀が世界各地の民族例に存在する。日本列島では,上・下諏訪大社の「御柱祭」が著名であるが,一般論としてこの起源を縄文時代の木柱列など立柱遺構に求める傾向が強い。しかしこれまで両者の関連について論理的に検証されたことはなく,身近にありながらこの分野の体系的研究は立ち遅れている。また,しばしば縄文時代研究では,環状列石や立石も合わせて太陽運行などに関連をもたせた二至二分論や,ラソドスケープ論で説明されることも問題である。そこでまず列島の考古資料の立柱遺構を対象に,分布状況や立地環境から成因動機・特性を考察し,立柱祭祀の分類と系統の提示,およびそれらの展開過程について述べた。考察の結果,列島では三系統の立柱祭祀が存在し,それらが単純に現在まで繋がるものでないことを指摘した。次に視点を広げ,人類史の中での立柱祭祀を考究するために,世界の考古・歴史資料を可能な限り収集し,列島と同手法で時間・空間分布や立地環境,形態などの特性について検討した。対象とした範囲はユーラシア大陸全般であるが,古代エジプト,南・北アメリカの状況も触れた。合わせて類似する儀礼として,樹木の聖性を崇拝する神樹信仰をとりあげ,列島と関係の深い古代中国の考古資料と文献資料から,神樹と立柱が同義であったことを指摘した。さらに,近代以前の人類誌に立柱祭祀と神樹信仰の事例を求め,世界的な分布状況や特性を検討し,その普遍性について述べた。そして,これら考古・歴史・民族資料を総括して史的展開過程の三段階を提示し,立柱祭祀の根源に神樹信仰が潜在することも論理的に示すことができた。また,普遍的には死と再生の祭儀が底流しており,列島の縄文系立柱祭祀はその典型であることが理解された。新石器時代当初には,生産基盤の森や樹木への崇拝から神樹信仰が生まれ,自然の循環構造に人の死と再生を観想して立柱祭祀がもたれたと考えられる。その後は,各地域の史的展開のなかで各々制度や宗教に組み込まれつつ,目的も形態も多様化したのである。
著者
川根 正教 石川 功 植木 真吾
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.12, no.20, pp.111-133, 2005-10-20 (Released:2009-02-16)
参考文献数
21

寛永通宝は,江戸時代を通じ数次にわたって鋳造された近世の代表的な銭貨である。文献資料から鋳造年代がある程度判明していること,各時期に鋳造された寛永通宝にはそれぞれ形態的特徴が認められることから,考古学的手法によって分類・編年を行うことにより,遺構や遺物の年代を推定する資料として有効な活用を図ることができる。また,文献史学・経済史学や自然科学などとの学際的研究を行うことによって,流通や銭貨製作の具体的様相を理解することも可能となろう。本稿では,千葉県三輪野山道六神遺跡B地点の近世墓から発掘調査によって出土した寛永通宝銅銭を研究対象資料とする。同一時期に鋳造された寛永通宝には様式(style)という概念を,彫母銭を同一とすると考えられる寛永通宝には型(pattern)という概念を与え,寛永期から元文・寛保;期までに鋳造された寛永通宝銅銭を文字形態などによってIa様式・Ib様式・IIa様式・IIb様式・IIIa様式・V様式の5様式に大分類し,同時に判明する資料については型分類を合わせて行なった。そして,分類した様式及び型について,計測値による形態的特徴の検討,金属成分分析による元素組成の特徴を検討した。その結果,各様式と各型は輪・郭の径及び重量などに固有の形態的特徴をもち,また銅・錫・鉛の主要元素や鉄・砒素・アソチモソなどの微量元素からなる元素組成の特徴も,各様式及び各型に認められることが判明した。このことから,各時期に鋳造された寛永通宝の銭貨としての品質的特徴は,該期の鋳造技術の水準や金属生産量と関連しつつ,貨幣経済発展に対応する幕府の銭貨政策を極めて端的に反映していることが明らかになった。
著者
竹原 学
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.2, no.2, pp.191-200, 1995-11-01 (Released:2009-02-16)
参考文献数
23

This paper describes a peculiar anthropomorphic clay tablet found in the Eriana site and examines its relation with other clay tablets and figurines from the eastern Japan.Eriana is a Late to Latest Jomon settlement site situated in Matsumoto city, Nagano prefecture, a mountainous region in central Japan. It is well know for the discovery of over 800 pieces of clay earrings.An anthropomorphic clay tablet was found during the 1995 excavation performed by Matsumoto City Archaeological Museum. It was intentionally broken into two pieces and arranged on a buried stone. The breaking was done by a strike on the reverse side and a scar from the blow is evident. This is rare example of the deliberate breaking of clay tablet, and an important specimen for comparison with the ritual impairment of the clay figurines. The piece is somewhat rectangular in shape, measuring 15.8cm in length, 8.6cm in width and 2cm in thickness, and is made of relatively refined clay. The decorative patterns on the reverse side are similar to those on the initial to early Latest Jomon pottery, and this firmly established the dating of this artifact. A human image is portrayed on the tablet as if it was a two-dimensional clay figurine. The image is constituted of a head, torso and legs, each being separated by incised lines which perhaps define a jaw line and a hemline of clothing. Arc-shaped eyebrows, nose, breasts, skirt-likeclothing and pubic region are depicted, with partial coloring in red.When compared with the clay figurines in eastern Japan, similarities are found with the later Late Jomon to early Latest Jomon figurines from the Tohoku and Kanto/Chubu regions such as the Yamagata and Mimizuku figurine types. These similarities are based on style, as well as the methods of depiction of eyebrows, nose, breasts and clothing. There are similarities with other anthropomorphic clay tablets from the northern Kanto region as well. Despite the fact that only faces are depicted on the other examples, patterns on the reverse side and expressions of the faces show the Eriana tablet is not an isolated example.Some scholars considered the anthropomorphic clay tablet as a variation of the clay figurine and its appearance was situated in the line of clay figurine development, while other scholars thought the two were different in terms of their function. The debate between the two groups of scholars has stagnated and the studies of the clay tablets have been pursued only in terms of representative types. Anthropomorphic clay tablets have been forgotten somewhat, partly because only a few specimens of them have been available for any detailed study. However, a few recent studies attempt to include all variations of clay tablets in a complete and detailed typology and chronology to understand their origins, developmentand decline. The discovery of the Eriana tablet should contribute to this trend, especially in terms of development and function of anthropomorphic clay tablet, and should help to end the old and forgotten debate on the tablet/figurine relationship.
著者
吉本 洋子 渡辺 誠
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.6, no.8, pp.51-85, 1999-10-09 (Released:2009-02-16)
参考文献数
116
被引用文献数
1

筆者達は1994年刊行の本誌第1号において,人面・土偶装飾付土器のうち主流である深鉢形土器の場合について集成し,分類・分布・機能などの基礎的研究を行った。その後釣手土器・香爐形土器・注口土器,および関連する器形についても検討し,縄文人の死と再生の観念がさまざまな形をとって表現されていることが明確になってきた。そしてそれらの時期的・地理的分布範囲はすべて深鉢形土器のなかに包括されることが確定的になってきたため,深鉢の分布範囲についての基礎的研究は絶えず検討を加えておく必要性があると考え,その後5年間の増加資料を集成した。人面・土偶装飾付土器は,1994年では443例であったが,今回約36%増加し601例となった。しかし北海道西南部から岐阜県までという範囲には変化はみられず,四季の変化のもっとも顕著な落葉広葉樹林帯を背景としていることが確定的になった。その範囲内にあっては,山梨・福島県に増加率が高く,前者は特に最盛期のIV類の中心地であることをよく示している。また後者は隣接地域も含め,従来一般的に意識されている中部地方ばかりが,人面・土偶装飾付深鉢形土器の分布域ではないことを明示している。時期的にも,縄文中期前半に典型的な類が発達することには変化はないが,従来断片的であった前期の例が増加したことは,獣面把手から人面把手へ発展したという見方の成立し難いことが明確になった。そしてそのなかには炉内で五徳状に毎日火にかけられていた,機能的にも重要な例も含まれている。逆に後・晩期の例も増加し,弥生時代の人面・土偶装飾付深鉢や壷形土器への連続性も,一段と明らかになってきた。機能的には,足形の把手状装飾が新潟・福島県から青森県にかけてみられ,そのうえ福島県ではそれと人面とが同一個体のなかにセットでみられるものも出土し,女神の身体から食べ物が生み出される様子が一段と明確になってきた。
著者
谷井 彪 細田 勝
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.2, no.2, pp.37-67, 1995-11-01 (Released:2009-02-16)
参考文献数
102

東日本の縄文時代中期終末から後期にかけては,関東での急激な集落規模の縮小,柄鏡型住居(敷石住居を含む),東北での複式炉をもつ住居の出現,住居数の増加など,縄文時代でも最も栄えたとされる中期的社会から後期的社会へと大きく変貌を遂げる。土器群も隆帯が文様描出の基本であった中期的な土器から,磨消縄文が卓越する後期的土器へと変っていく。しかし,関東と東北では大木式,加曽利E式などのように共通的文様要素がありながら,その構成で異なった土器が分布する。これは住居跡形態でみられたような差と同じような差ともいえる。後期への土器の変化もそれぞれ独自な展開をしているため,両地域土器群の平行関係は関東,東北の研究者間にずれがあり,共通した認識が得られていない。この原因は,編年的研究の方法及び型式理解の混乱に起因している。我々の編年的研究の目的はまず型式学的細分があるのではなく,住居跡出土土器を基本単位として,それぞれ重ね合わせ,さらに型式学的検討を加えて有意な時間差を見出そうとするものである。本稿では関東,東北で異系統とされる土器を鍵として,両地域の土器群の平行関係を検討した。その結果,従来関東の中期末の確固とした位置にあるとされた加曽利EIV式が段階として存在せず,加曽利EIII式後半と称名寺式段階へと振り分けて考えた方が,合理的に解釈できることを明らかにした。また,東北で加曽利EIII式後半に平行する土器群として関東の吉井城山類の影響を受けた,いわゆるびわ首沢(高松他1980)類の出現段階が挙げられ,多くの研究者が大木10式とする横展開のアルファベット文の段階は,後期称名寺式出現期に平行するとした。また,本稿で取り上げた類が決して固定的でないことを明らかにするため,吉井城山類,岩坪類について,各種の変形を受けて生成された土器群を紹介し,相互の関係,時間的展開を通して土器群の実態を検討した。関東と東北の関係でみれば,全く異なるようにみえる土器でも,相互に共通した要素がうかがえ,交流の激しさ,それぞれの地域の独自性を知ることができる。また,関東地域での地域性についても同様なことがあり,このような地域間の差異こそ縄文人の独自性と創造性,人々の交流の結果であり,そこにこそ縄文人の生き生きとした姿を垣間みることができる。
著者
景山 真二 石原 聡
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.8, no.11, pp.153-160, 2001-05-18 (Released:2009-02-16)
参考文献数
11

島根県大社町出雲大社境内に所在する出雲大社境内遺跡で平成12年4月に巨大な柱根3本が束ねられた状態で出土した。それまで出雲大社境内は,防災工事等により縄文時代晩期から近世の遺物が出土しており,周知の遺跡であった。平成11年9月から出雲大社による地下祭礼準備室増設工事の事前調査として発掘調査が行われ,勾玉などの祭祀遺物の出土・大規模な礫集中遺構の検出などによって現状保存が決定した矢先,巨大柱が出土したのである。巨大柱3本の柱材を束ねて1本とする構造は,出雲国造千家家に伝わる『金輪御造営差図』に描かれた構造とほぼ一致しており,これまで文献史学・建築史学で高層建築であると言われてきた出雲大社本殿が考古学からアプローチできるようになった。柱周辺からは,本殿建設に使用したとみられる鉄製品が多量に出土している。柱の上面からは,釘・鎹・帯状鉄器など多種の鉄製品が出土しているが大型の鉄製品が多く,建設された建物が大規模であったことを物語っている。また宇豆柱の直下より鉄製の釿2点が出土している。遺存状況が非常に良好であり,古代末から中世初頭の工具の変遷を考える上で重要な遺物である。巨大柱遺構の年代は,遺構内出土土器から12世紀後半から13世紀代の年代が考えられ,また使用された木材は,炭素同位体比による年代測定の結果西暦1215~1240に伐採された木材であるという結果が得られており,文献史料との対応関係から宝治2(1248)年に造営された本殿跡である可能性が高い。当遺跡では他に古墳時代前期から近世に至る各時代の出雲大社の歴史を物語る遺構・遺物が確認されており,祭祀遺跡から考古学だけではなく,文献史学・建築史学・宗教史学など多方面に波紋を投げかける契機となった。
著者
高瀬 克範
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.11, no.18, pp.149-158, 2004-11-01 (Released:2009-02-16)
参考文献数
48

先史時代研究のなかで,通事的な多様性のみならず,共時的な多様性までをも優劣関係のもとに評価してしまう価値観は,たとえ顕在的ではないとしてもいまなお息づいている可能性が高い。こうした評価軸のなかでは,決して積極的な位置づけがあたえられることがない地域は必ず存在しており,そうした歴史を偏見や差別,一方的な価値観の押しつけを排しながら,いかにして取り扱ってゆくべきかはいまだ解決していない大きな課題といえる。ここでは,「非文明」の評価をめぐる問題を作法としてまとめ,「文明」研究とはことなる注意点についての覚書きとした。「非文明」をとりあつかう際の姿勢としてまず指摘されるのは,一国史の枠組みを対象化し,それとの距離のとりかたに慎重になることである。さらに,「文明」中心の歴史叙述のなかで常識化してきた,「文明」にとって都合がよい論理に疑問を呈してゆく批判的な態度も必要である。こうした姿勢がないかぎり,「文明」を中心とした価値観のなかに埋もれた「非文明」の正当な歴史的価値を引き出すことは非常に難しくなってしまう。つづいて,「非文明」を扱う際の手法として指摘されるのは,物質文化の定性的な側面のみならず定量的な側面にも十分な配慮を行うこと,さらに,モノの系統性に引きずられた解釈をおこなうのではなく,実用的機能・社会的機能をふくめて,それぞれの時期・地域で機能・用途論的な分析をともなっていることである。これらは「文明」についてもあてはまるが,「非文明」では両者への十分な配慮を怠ると誤った判断を誘発しやすいという点で重要な意味を持っている。
著者
阿部 朝衛
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.14, no.23, pp.1-18, 2007-05-20 (Released:2009-02-16)
参考文献数
70

現代人の利き手の約90%は右であり,とくに左右非対称の作業の時には,主としてその右手が用いられ,左手はその補助的役割を果たす。明らかに手は機能分化している。人類の進化とともに利き手は発達してきたと考えられる。したがって,この利き手の発達,機能分化はいつから始まったのかと問うことは自然である。こうした問題意識からの論考はいくつかあるが,その研究内容は,今まであまり紹介されてこなかった。そこで,主に旧石器時代人の利き手に関する研究を検討してみた。その結果,利き手研究の歴史は意外に古く,多くの重要な視点があることがわかった。同時に,その研究方法にはいくつかの課題が見出された。それらを統合すると,今後は,次の要件からの検討が必要である。(1)適切な資料・属性を選択し,その分析結果を的確に表示・図示する。技術形態学的方法を援用しながら,利き手に関する適切な属性の抽出と分析が必要である。(2)道具・対象物と手あるいは身体との相対的位置関係とその変化を把握する。技術形態学的方法に加えて,機能形態学の方法も必要である。(3)利き手を判断する際に,運動学的あるいは解剖学的・人間工学的観点からみて,経済的・効率的かつ安全な動作を基準とする。それらを無視するような動作とその結果物は,分析対象として適当ではない。(4)全体的には,製作使用実験,使用痕研究,民族誌の成果を参考とすることは当然であるが,運動学・解剖学・人間工学的成果の援用が必要である。上記の条件を満たすならば,資料が増加している現在にあって,十分に利き手を推定することは可能である。この利き手研究は,運動システムを背景とした動作によって残された遺物を研究し,行動学上での位置づけを行う上で重要な役割を担うものであり,当然,他の時代でも無視できない分野であろう。