著者
藤原 哲
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.11, no.18, pp.37-52, 2004-11-01 (Released:2009-02-16)
参考文献数
118

弥生時代における戦闘はどのようなものであったのか? その様相を具体的に明らかにすることが本論の目的である。こうした問題を検討するため「武器」と「殺傷人骨」を取り上げ,対人殺傷の分類・検討を試みた。研究の方法としては「殺傷人骨」を主な資料とし,「武器」と「殺傷人骨」との関係から,弥生時代における対人殺傷方法の型式的な分類を行う。先ず「武器」を至近距離戦用武器(短剣),接近戦用武器(刀剣類),遠距離戦用武器(弓矢)の3種に大別する。これに基づき,対人殺傷方法を,I・至近距離武器による殺傷,II・接近武器による殺傷,III・遠距離武器による殺傷,そしてIV・遠・近距離武器の殺傷に区分する。この区分により「殺傷人骨」をいくつかのカテゴリーで分類した結果,「殺傷人骨」に見られる弥生時代の殺傷方法も極めて多岐に及ぶことが明らかにできた。特に弥生時代前半(早期~中期)は短剣による(背後からの)殺傷や,弓矢による(側・背後からの)殺傷などが多く,数人単位の戦闘が主であると考えた。また,矢合戦や暴力的儀礼(殺人)の可能性も指摘した。これに対し,弥生時代後半の殺傷人骨には,鉄剣や鉄刀などが想定される鋭利な殺傷痕跡や遠・近距離武器複数の殺傷から「まず矢を射て,最後に剣で止めをさす」といった戦闘が考えられた。また特に,中期末~後期には1遺跡から大量に殺傷人骨が出土する例が認められた。以上の結果から,弥生時代の具体的な戦闘は小規模な「奇襲・襲撃・裏切り」や儀礼的な争いなどが中心であり,弥生時代後半,特に中期末~後期には激しい「集団戦」の比重が高まると想定した。これらの変化には政治力・動員力の確立や,金属器の流通といった社会的な背景が想定され,弥生時代の戦闘は単なる「戦い」から「戦争」へと移る過渡的な「未開戦」段階にあると評価した。
著者
植田 文雄
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.12, no.19, pp.95-114, 2005-05-20 (Released:2009-02-16)
参考文献数
60

祭祀形態の一つとして,祭場に柱を立てる立柱祭祀が世界各地の民族例に存在する。日本列島では,上・下諏訪大社の「御柱祭」が著名であるが,一般論としてこの起源を縄文時代の木柱列など立柱遺構に求める傾向が強い。しかしこれまで両者の関連について論理的に検証されたことはなく,身近にありながらこの分野の体系的研究は立ち遅れている。また,しばしば縄文時代研究では,環状列石や立石も合わせて太陽運行などに関連をもたせた二至二分論や,ラソドスケープ論で説明されることも問題である。そこでまず列島の考古資料の立柱遺構を対象に,分布状況や立地環境から成因動機・特性を考察し,立柱祭祀の分類と系統の提示,およびそれらの展開過程について述べた。考察の結果,列島では三系統の立柱祭祀が存在し,それらが単純に現在まで繋がるものでないことを指摘した。次に視点を広げ,人類史の中での立柱祭祀を考究するために,世界の考古・歴史資料を可能な限り収集し,列島と同手法で時間・空間分布や立地環境,形態などの特性について検討した。対象とした範囲はユーラシア大陸全般であるが,古代エジプト,南・北アメリカの状況も触れた。合わせて類似する儀礼として,樹木の聖性を崇拝する神樹信仰をとりあげ,列島と関係の深い古代中国の考古資料と文献資料から,神樹と立柱が同義であったことを指摘した。さらに,近代以前の人類誌に立柱祭祀と神樹信仰の事例を求め,世界的な分布状況や特性を検討し,その普遍性について述べた。そして,これら考古・歴史・民族資料を総括して史的展開過程の三段階を提示し,立柱祭祀の根源に神樹信仰が潜在することも論理的に示すことができた。また,普遍的には死と再生の祭儀が底流しており,列島の縄文系立柱祭祀はその典型であることが理解された。新石器時代当初には,生産基盤の森や樹木への崇拝から神樹信仰が生まれ,自然の循環構造に人の死と再生を観想して立柱祭祀がもたれたと考えられる。その後は,各地域の史的展開のなかで各々制度や宗教に組み込まれつつ,目的も形態も多様化したのである。
著者
工藤 雅樹
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.1, no.1, pp.139-154, 1994-11-01 (Released:2009-02-16)
参考文献数
122

古代蝦夷については,アイヌ説と非アイヌ説の対立があることはよく知られている。戦後の考古学研究の成果は,東北北部でも弥生時代にすでに稲作が行なわれていたことを証明し,近年の発掘調査によって奈良,平安時代の東北北部の集落が基本的には稲作農耕をふまえたものであることも確実とされるに至っている。このようにして蝦夷日本人説は一層の根拠を得たと考える人もいる。しかし蝦夷非アイヌ説の問題点のひとつは,考古学的にも東北北部と北海道の文化には縄文時代以来共通性があったし,7世紀以前の東北北部はむしろ続縄文文化の圏内にあったと考えられ,アイヌ語地名が東北にも多く存在することなど,蝦夷アイヌ説が根拠とすることのなかにも,否定しえない事実があることである。もうひとつの問題点は,蝦夷非アイヌ説が稲作農耕を行なわない,あるいは重点を置かない文化を劣った文化と見なす考えを内包していることである。この点を考え直し,古代蝦夷の文化の縄文文化を継承している側面を正当に評価する必要がある。従来の蝦夷非アイヌ説は地理的には畿内に,時間的には稲作農耕の光源で東北の文化を見た説,蝦夷アイヌ説は地理的には北海道に,時間的には縄文文化に光源を置いて蝦夷の実体を照射した説,と整理しなおすこができる。しかし二つの異なる光源でそれぞれに浮かびあがるものは,どちらも東北の文化の実体の一側面にほかならない。北海道縄文人が続縄文文化,擦文文化を経過して歴史的に成立したのがアイヌ民族とその文化であると見るならば,これは東日本から北日本にかけての典型的縄文文化の担い手の子孫のたどった道のひとつということになり,早くから稲作文化を受容し,大和勢力の政治的,文化的影響を受けた,もうひとつの典型的縄文文化の担い手の子孫のたどった道と並列させることができる。古代蝦夷は両者の中間的な存在で,最後に日本民族の仲間に入った人々の日本民族化する以前の呼称とも,北海道のアイヌ民族を形成することになる人々と途中までは共通の道をたどった人々とも表現できる。このように考えると,現段階では蝦夷がアイヌであるか日本人なのかという議論そのものが,意味をなさないといっても過言ではないのである。
著者
景山 真二 石原 聡
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.8, no.11, pp.153-160, 2001-05-18 (Released:2009-02-16)
参考文献数
11

島根県大社町出雲大社境内に所在する出雲大社境内遺跡で平成12年4月に巨大な柱根3本が束ねられた状態で出土した。それまで出雲大社境内は,防災工事等により縄文時代晩期から近世の遺物が出土しており,周知の遺跡であった。平成11年9月から出雲大社による地下祭礼準備室増設工事の事前調査として発掘調査が行われ,勾玉などの祭祀遺物の出土・大規模な礫集中遺構の検出などによって現状保存が決定した矢先,巨大柱が出土したのである。巨大柱3本の柱材を束ねて1本とする構造は,出雲国造千家家に伝わる『金輪御造営差図』に描かれた構造とほぼ一致しており,これまで文献史学・建築史学で高層建築であると言われてきた出雲大社本殿が考古学からアプローチできるようになった。柱周辺からは,本殿建設に使用したとみられる鉄製品が多量に出土している。柱の上面からは,釘・鎹・帯状鉄器など多種の鉄製品が出土しているが大型の鉄製品が多く,建設された建物が大規模であったことを物語っている。また宇豆柱の直下より鉄製の釿2点が出土している。遺存状況が非常に良好であり,古代末から中世初頭の工具の変遷を考える上で重要な遺物である。巨大柱遺構の年代は,遺構内出土土器から12世紀後半から13世紀代の年代が考えられ,また使用された木材は,炭素同位体比による年代測定の結果西暦1215~1240に伐採された木材であるという結果が得られており,文献史料との対応関係から宝治2(1248)年に造営された本殿跡である可能性が高い。当遺跡では他に古墳時代前期から近世に至る各時代の出雲大社の歴史を物語る遺構・遺物が確認されており,祭祀遺跡から考古学だけではなく,文献史学・建築史学・宗教史学など多方面に波紋を投げかける契機となった。
著者
大西 秀之
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.10, no.16, pp.157-177, 2003-10-20 (Released:2009-02-16)
参考文献数
63

“トビニタイ文化”とは,形質的・遺伝的に系統を異にするオホーツク文化集団と擦文文化集団が,北海道東部地域において接触・融合し形成された文化コンプレックスである。そこでの異系統集団の接触・融合は,単に考古資料のレベルのみならず,まさに個人の遺伝レベルにおいても生起していたことが明らかにされている。しかし,これまで,どれくらいの規模の擦文文化集団が“トビニタイ文化”の集落に入り込み,そこでどのような社会的関係を取り結んでいたのか,という問いに対する十全な回答は提起されてこなかった。そのような課題を踏まえ,本稿では,“トビニタイ文化”における異系統集団の多層的な社会関係へのアプローチを試みる。こうした目的の下,本稿では,土器群の組成について検討をおこなった上で,“トビニタイ文化”の住居址の属性分析を加える。まず,土器群の組成からは,時期的・地域的に差異を示しつつも,搬入品や模倣品を含めた“擦文式土器”の割合が増加する反面,土器群に占めるトビニタイ土器の割合が低下し,一次接触地帯では土器群の主体がトビニタイ土器から“擦文式土器”に移行してしまう,という傾向が捉えられる。しかし反面,住居址の属性分析からは,その多くがオホーツク文化の系譜に位置づけられるものであり,また擦文文化的な属性はトビニタイ土器製作集団の側が主体的に受容したものである,という結論が導びかれる。以上の結果を是認する限り,“トビニタイ文化”の主要な担い手は,あくまでもオホーツク文化の末裔たるトビニタイ土器製作集団であると想定せざるをえない。さらに,住居址から想定される居住形態に依拠するならば,“トビニタイ文化”の集落における擦文文化集団は,常態として,彼等が単独で世帯を形成することなく,トビニタイ土器製作集団を主体とする世帯のなかに同居していたとの推論が成り立つ。最後に,そうした擦文文化出自の人物の同居は,ひとつの可能性として「婚入」によって生起したという仮説を提起する。
著者
松田 宏介 青野 友哉
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.10, no.16, pp.93-110, 2003-10-20 (Released:2009-02-16)
参考文献数
33

礼文華遺跡は北海道南部噴火湾北岸に位置し、続縄文時代前半の恵山文化の貝塚遺跡として著名である。この遺跡は1960年代および1990年代に数次にわたる調査がなされ、土器・石器・骨角器をはじめ動物遺存体・人骨といった考古学・人類学研究にとって貴重な資料を提供してきた。しかし、1960年代の調査報告書は刊行されておらず、断片的に資料が紹介されるのみであった。今日の恵山文化の研究においても、本遺跡の資料は恵山文化成立期の噴火湾岸の様相の把握や、広域土器編年の確立という点で、重要な意味を持っている。そのため、礼文華遺跡出土資料を公表し、再検討を加えることは意義のあることと考え、その手始めに出土土器群について資料紹介することとした。検討の結果、東北地方北部からの二枚橋式の波及による恵山式の成立後も、在地系統の土器群が構成上一定の割合を占めること、さらには二枚橋式と在地の両系統の要素をあわせ持つ土器群が存在することの2点が明らかになった。そしてそれら相互の編年的関係と、土器群の構成について見通しを提示し、本遺跡における土器群の構成が周辺の遺跡に比べ、やや特異な様相を示す可能性を指摘した。
著者
宇田川 洋
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.1, no.1, pp.155-167, 1994-11-01 (Released:2009-02-16)
参考文献数
67

北海道の擦文文化(8~13世紀頃)の指標である擦文土器の中には,底部外面に記号状のものが線刻されているものがある。「刻印記号」と呼んでいるが,浅鉢や坏形土器に多く認められる。道内で36遺跡から発見されているが,その分布は,日本海岸北方域,石狩川上流域,石狩川下流域・千歳川流域・小樽方面域,日本海岸南方域という日本海側に偏っている。そこで考えられるのは,日本海を挟んだ大陸側との文化交流である。シベリア大陸では,女真文化から後期青銅器文化の時代のものが報告されている。それらには,北海道の記号と類する「×」「-」「○」記号およびそれらの変種を含んでいる。その目的は,「護符の役割」「陶工記号」などがいわれている。中国大陸における場合は,金代から新石器文化の時代まで幅広く認められている。戦国~周代が特に多いようであるが,中国の研究者によると,それらの多くは甲骨文字あるいは金文に関係するものの如く説かれている。さらに新石器時代のそれについては,とくに仰韶文化に多く見られ,甲骨文字につながる要素を含むといえる。ここで問題にすべき資料がある。それは続縄文時代の余市町フゴッペ洞窟の岩壁画といわれるもので,「仮装人像」(シャーマン)の具象から抽象へすなわち記号化のプロセスが刻まれている。そして記号化されたものは,擦文土器の刻印記号とかなり類似しているものである。フゴッペ洞窟の例に類するものは,小樽市手宮洞窟においても発見されており,それは早くから鳥居龍藏らによって突厥文字との関係がいわれているものである。ところで,最近,シベリアでの古代突厥文字(ルーン文字)が再評価されてきている。それはヨーロッパのステップ地帯とアジア地域のものに分けられているが,後者の8~10世紀のルーン文字が北海道と関連する可能性が指摘できる。それらは,ストレートに結びつくことはないにしても,直接に日本海を渡った文化の流れが想定できるのである。現在,渤海と北日本との関係が注目されてきつつあるが,それに関連する問題提起として,当論文が役立てば幸いである。
著者
久世 建二 北野 博司 小林 正史
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.4, no.4, pp.41-90, 1997-10-10 (Released:2009-02-16)
参考文献数
51

野焼き技術を実証的に復元するためには,野焼き実験と考古資料の焼成痕跡(黒斑など)を突き合わせることが必要である。よって本稿では,覆い型野焼きの実験から明らかにできた「野焼き方法と黒斑の特徴の対応関係」を基にして,弥生土器の黒斑の特徴から野焼き方法を推定した。野焼き実験では条件設定の仕方が重要だが,本稿では,稲作農耕民の伝統的土器作り民族例を参考にして,野焼き方法の観察点を設定した。黒斑の特徴から推定された弥生土器の野焼き方法について,器種差や時間的変化を検討した結果,弥生時代の野焼きの方法は,以下の点で土器の作りに応じた工夫がなされていたことが示された。第一に,弥生土器の野焼き方法は,珪酸分に富む草燃料からできる灰が土器を覆うことにより,比較的少ない燃料で効率的に焼成できる「覆い型」であり,灰による覆いを作らない縄文時代の「開放型」とは大きく異なる。「覆い型」は,薪燃料が少なくてもすむ点で,低地に進出した稲作農耕民に適した野焼き方法と言える。そして,弥生時代にやや先行する韓国無文土器と弥生前期土器の黒斑が強い共通性を示すことや,弥生早期の有田七田前遺跡では弥生系の壺は覆い型,縄文系の深鉢・浅鉢は開放型というように野焼き方法が異なることから,「覆い型野焼きは水田稲作と共に朝鮮半島から日本に伝わった」ことが明らかになった。第二に,野焼き時の土器の設置角度は,各時期とも,相対的深さと頸部の括れ度に応じて調整されている。これは,(1)括れの強い器形では内面の火回りを良くするためより垂直に近い角度で設置する,(2)浅めの器形では内面に灰が溜って大きな黒斑ができないように,横倒しに設置する,という工夫を反映していると考えられる。
著者
中村 五郎
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.9, no.14, pp.53-70, 2002-11-01 (Released:2009-02-16)
参考文献数
41

(1)法薬尼が高野山奥之院に造営した経塚(以下,高野山奥之院経塚という)の特色は,第一に女性が造営した経塚からきわめて高い水準の埋納品を発見し,第二に空海の加護で将来,弥勒菩薩の出現に会って仏の恩恵にあずかることへの強力な願望,第三に涅槃思想の存在である。筆者は法薬尼を堀河天皇の中宮篤子内親王と考え,造営の目的は天皇の追善で,中宮が崩御する直前に埋経した。まれに見る弥勒信仰の高揚は,天皇を追慕する人々が弥勒菩薩の出現の暁に天皇と再会したいという特異で熱烈な目的があったと推測する。中宮は熱心な仏教徒で民衆の仏教思想も受容していた。(2)経塚の造営者は通常その身元が判らないことが多く,また,造営者達の信仰が把握できない場合も少なくない。その一方で,経塚全体からみるとごく少数例だが藤原道長・同師通・白河院(上皇)のように膨大な情報量を持つ人物の経塚造営もある。高野山奥之院経塚の法薬尼を堀河中宮(以下,中宮という)としたことで一例追加された。経塚造営という習俗の始まりは道長の金峯山での埋経にあり,これら4人は当時の最上流の人々で,道長のみは数十年間遡るが,他の3人の間には近親関係がある。政治権力が集中した道長と白河院とに現世肯定的な思想があるが,とくに,中宮の場合には対照的に現世否定的な思想が明らかで民衆の間の信仰が最上流に波及したもので興味深い。(3)比叡山で活躍した最澄は人はすべて成仏できると主張し,道長の曾祖父・祖父は天皇家との婚姻関係を軸に政治権力を強化し,同時に比叡山を財政的に援助して聖職者への影響力を強めた。そして,彼ら摂関家の政治権力は道長の時期に絶頂に達し,道長は比叡山の信仰を基に経塚を造営した。摂関政治に反発した天皇家側は,後三条天皇の時期に権力を奪いかえし,次代の白河院は道長と同様に金峰山に埋経し,その後は熊野詣に熱心で,孫の鳥羽院も熊野詣で納経していた。(4)経塚造営を含めた浄土信仰や涅槃思想などは,主に聖が布教して成長する民衆の間に広まった。京都周辺の聖の行動範囲は洛北などの聖地を本拠に,叡山・南都などの本寺と京都の信者の間を往復した。広域的な聖の行動範囲では京都と荘園,あるい同一領主の荘園間の交流を利用した例もある。これらの思想・信仰は,社会階層でも地域的にも広まりを見せてやがて鎌倉仏教を成立させた。

5 0 0 0 OA 弥生の石棒

著者
秋山 浩三
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.9, no.14, pp.127-136, 2002-11-01 (Released:2009-02-16)
参考文献数
23

西日本でも近年,縄文時代の代表的な石製呪術具である石棒類(石棒・石刀・石剣)の研究が盛んになってきた。とくに小林青樹や中村豊らを中心とする研究者によって西日本各地の関連資料の集成作業がなされ,重要な成果が公表された。そのなかで,『河内平野遺跡群の動態』(大阪府・近畿自動車道関連報告書)に収載されていた石棒の一部に関しては,掲載方法の不備(図面・記載の欠如)もあって,上記集成書からは遺漏してしまっている。それらの報告補遺を端緒とし,(旧)河内湖南岸域の諸遺跡から出土している石棒類を再検討する。その結果,この地域の石棒類には,弥生時代に属する遺構からの出土例が比較的多くみられ,"弥生時代の石棒"の存在を確実視できる。さらに,同様の観点で近畿地方各地の関連データを検索するならば,近畿一円に類似した現象を追認でき,それらの多くは縄文晩期末(突帯文)・弥生前期(遠賀川系)土器共存期の弥生開始期~弥生中期初頭(第II様式)という,一定の継続した時間幅のなかに位置付けられることが明らかになった。この現象は,ことに大阪湾沿岸域で比較的顕著で,なかでも近畿最古期の環濠集落を成立させた地域周辺で際立っている。従来の研究において,弥生時代の石棒に関しては,縄文時代の石棒類とは異なる原理で生まれたと評価されることが主流で,縄文時代から継承するあり方で遺存する諸例に対し積極的に言及されることがなかった。しかし,このような石棒類を分析するならば,弥生開始期における縄文・弥生系両集団の接触・「共生」(共存状態)・融合という過渡的様相のなか,両系集団の間にはおおむね当初段階からかなり密接な関係が,使用していた土器の種類や経済的基盤の違いをこえて達成されていたと想定できる。これは,縄文・弥生系集団による隣接地内における共生の前提であり背景であった。さらに,祭祀行為自体の特性から推測すると,このような弥生開始期やそれ以降の普遍的な弥生文化の定着後においても,石棒類が直ちには消滅せずに根強く存続した要因として,弥生文化の担い手の主体的な部分が在来の縄文系集団に依拠・由来していたことによる,という見通しを得ることができる。
著者
川根 正教 石川 功 植木 真吾
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.12, no.20, pp.111-133, 2005-10-20 (Released:2009-02-16)
参考文献数
21

寛永通宝は,江戸時代を通じ数次にわたって鋳造された近世の代表的な銭貨である。文献資料から鋳造年代がある程度判明していること,各時期に鋳造された寛永通宝にはそれぞれ形態的特徴が認められることから,考古学的手法によって分類・編年を行うことにより,遺構や遺物の年代を推定する資料として有効な活用を図ることができる。また,文献史学・経済史学や自然科学などとの学際的研究を行うことによって,流通や銭貨製作の具体的様相を理解することも可能となろう。本稿では,千葉県三輪野山道六神遺跡B地点の近世墓から発掘調査によって出土した寛永通宝銅銭を研究対象資料とする。同一時期に鋳造された寛永通宝には様式(style)という概念を,彫母銭を同一とすると考えられる寛永通宝には型(pattern)という概念を与え,寛永期から元文・寛保;期までに鋳造された寛永通宝銅銭を文字形態などによってIa様式・Ib様式・IIa様式・IIb様式・IIIa様式・V様式の5様式に大分類し,同時に判明する資料については型分類を合わせて行なった。そして,分類した様式及び型について,計測値による形態的特徴の検討,金属成分分析による元素組成の特徴を検討した。その結果,各様式と各型は輪・郭の径及び重量などに固有の形態的特徴をもち,また銅・錫・鉛の主要元素や鉄・砒素・アソチモソなどの微量元素からなる元素組成の特徴も,各様式及び各型に認められることが判明した。このことから,各時期に鋳造された寛永通宝の銭貨としての品質的特徴は,該期の鋳造技術の水準や金属生産量と関連しつつ,貨幣経済発展に対応する幕府の銭貨政策を極めて端的に反映していることが明らかになった。
著者
吉本 洋子 渡辺 誠
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.1, no.1, pp.27-85, 1994-11-01 (Released:2009-02-16)
参考文献数
280

従来人面把手とよばれていたものは,実際には把手としては機能せず,宗教的機能をもった装飾と考えられる。本稿は,その宗教的機能を解明するための基礎的研究として,それらの時期的・地理的分布を明らかにすることを目的にしている。そのために機能の違いを想定して煮沸用の深鉢形土器に限定し,他の器種と区別した。その分布は北海道から岐阜県にかけての東日本に集中し,293遺跡より443例出土していることが判明した。人面装飾付土器が主体で94%を占め,土偶装飾付土器は少ない。人面装飾付土器は形態上4類に分類される。I類は胴部に,II類は口縁部に,III類は口縁部上に人面装飾がみられる。そしてIV類はIII類がさらに発達して大型化・立体化したもので,顕著に把手状を呈するようになる。それらのうち始めに出現したのはII類で,縄文時代前期前葉である。中期初頭にはIII類の発達が著しく,中期前半にはIV類が発達し,併せてI類や土偶装飾付土器もみられるようになる。しかし中期後半には急速にIV類などが減少し,もとのII・III類のみになる。地域的にみても,IV類は主に長野県・山梨県・東京都に集中している。時期的にも地理的にも勝坂式文化圏に相当し,同文化圏の代表的な遺物である。IV類の特徴である大型化などについて,それを客観的に理解できるように顔面サイズの測定を行った。その結果I~III類とIV類との大小2群に分かれることが判明した。しかし正確にはIV類にも大小2群が含まれていて,共存している。そのサイズは,高さ・幅とも13cmが目安である。その顔が成人女性であることは,耳飾りをつけていることから明らかである。そのうえ出産を表現した例さえある。また頭上や向かいあって男性を示すマムシとセットをなすことがあり,性的結合によって生じる新しい命としての食べ物を,神と共に食べた宗教的な行事を示唆している。そのうえその直後に,けがれを恐れて底を抜いたことを証明するような埋設例もみられるのである。時期的・地理的分布状態の正確な把握を基礎として,原日本文化である縄文文化の精神世界を実証的に明らかにしていきたい。

5 0 0 0 OA 埴輪の鳥

著者
賀来 孝代
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.9, no.14, pp.37-52, 2002-11-01 (Released:2009-02-16)
参考文献数
107

埴輪の鳥の種類には鶏・水鳥・鵜・鷹・鶴か鷺があり,それらを実際の鳥の姿や生態と照らして検討した。鳥の埴輪は,種類によって出現時期や配列場所が異なっていることから,すべての種類の鳥が同じ役目を担っていたのではなく,種類ごとに,それぞれ違う役割をもっていたに違いない。鳥の埴輪としてひとくくりにせず,別の種類の埴輪と考えるべきである。埴輪の鳥の種類を見分けるために,元となる鳥の特徴を,埴輪にどう表現したかを観察した。鳥類という共通性があるために,種類を越えた同じ表現もあるが,種類ごとに違う表現もあり,埴輪の鳥の種類を見分ける手がかりを得ることができた。体の各部分の表現を細かく見ていくと,初めはモデルとなる鳥を実際に見て作るが,早い段階で表現がきまってしまい,大多数が実際の鳥ではなく,鳥の埴輪を見て作っていることがわかる。鳥の種類も限られており,自由に鳥を埴輪に写したり,表現したりはできなかったことを示している。鳥の埴輪から鳥の埴輪をつくることによって起きる,表現の混在や簡略化の移り変わりを検討したが,そこには古墳時代の人々の観察眼と,観察の結果を埴輪に反映する独自性を読みとることができた。
著者
前川 要
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.12, no.19, pp.51-72, 2005-05-20 (Released:2009-02-16)
参考文献数
70

近年,都市史研究の分野では,前近代における日本都市の固有な類型として,古代都城(宮都)と近世城下町が抽出され,これらを現代都市と対峙させ「伝統都市」と位置づけることによって,新たな都市史の再検討がはじまりつつある。本稿では,こうした方法を念頭に置きながらも,都城にも城下町にも包摂されない日本固有の都市類型として,中世の「宗教都市」を具体的な発掘調査事例に基づいて分析しようというものである。そして近江における「湖東型」中世寺院集落=「宗教都市」を,戦国期城下町・織豊系城下町などとならんで近世城下町へと融合・展開する中世都市の一類型として位置づける必要性を主張するものである。特に,「都市考古学」という立場に立ち集落の都市性を見ていくという観点から,V.G・チャイルドの10個の都市の定義の要素のうち,3つの要素(人口の集中,役人・工匠など非食料生産者の存在,記念物・公共施設の存在=直線道路)に着目して中世近江の寺院集落の分析をした。その結果,山の山腹から直線道路を計画的に配置し,両側に削平段を連続して形成する一群の特徴ある集落を抽出することができた。これを,「湖東型」中世寺院集落と呼称し,「宗教都市」と捉えた。滋賀県敏満寺遺跡の発掘調査成果を中心に,山岳信仰および寺院とその周辺の集落から展開する様相を4っの段階で捉えた。また,その段階の方向性は直線道路の設定という例外はあるものの,筆者が以前提示した三方向性モデルのうちII-a類に属すると位置づけた。そして,特に4つの段階のうちIII期を「湖東型」中世寺院集落の典型の時期と捉え,その形成と展開および他地域への伝播を検討してその歴史的意義を検討した。その結果,この都市計画の技術や思想が,北陸の寺内町や近江の中世城郭やさらには安土城に採用された可能性を指摘した。その成立時期については,佐々木六角氏の観音寺城や京極氏の上平寺城の事例を見ると,武家権力が山上の聖なる地を勢力下において「山上御殿」が成立してくる時期とほぼ一致すると考えた。日本都市史においては,中世都市のひとつの類型として,「宗教都市」を挙げることができるが,特に「湖東型」中世寺院集落は,個性ある「宗教都市」の一つとして重要な位置を占める。それは,戦国期城郭へ影響を与えたのみならず近世城下町へ連続する安土城の城郭配置や寺内町吉崎の都市プランに強い影響を与えたことが想定できるからである。
著者
児玉 大成
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.12, no.20, pp.25-45, 2005-10-20 (Released:2009-02-16)
参考文献数
113

ベンガラは,褐鉄鉱または赤鉄鉱から得る方法があり,一部は後期旧石器時代より確立された技術として生産された。縄文時代のベンガラ生産は,原料を粉砕,磨り潰されるところまでは理解されているものの,きめ細かく均一的な粒子を得るための調製方法については未解明な部分が多い。北海道南部から東北北部に形成される亀ヶ岡文化の遺跡では,赤鉄鉱の出土が目立ち,宇鉄遺跡においては2,300点,約65kgもの赤鉄鉱とベンガラ付着石器や土器が数多く出土している。小稿では,宇鉄遺跡の赤色顔料関連資料の分析と顔料の製造実験を通して実証的なベンガラ生産の復元を試みた。その結果,赤鉄鉱を叩き割りして頁岩部分とコークス状部分とを分離させ,次にコークス状の赤鉄鉱のみを粉砕し,さらに磨り潰したものを水簸による比重選鉱を行い,赤色の懸濁液を土器で煮沸製粉していたことが明らかとなった。このような煮沸製粉法によるベンガラ生産では,均一的な微粒子粉末を得ることができ,より多量な生産を容易に可能とする。こうした技術を必要とした背景には,亀ヶ岡文化が多様な赤彩遺物を増大させたことと密接に関係するものと考えられる。
著者
宇野 隆夫
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.6, no.7, pp.25-42, 1999-05-14 (Released:2009-02-16)
参考文献数
42

本稿では古墳時代中・後期また飛鳥時代を,弥生時代的な食器様式から律令制的な食器様式への転換過程を考える上で非常に重要な変革期と位置づけて,中国・朝鮮との関係を考慮しながら考察を加えた。方法は,個々の器種の型式に加えて,使用痕観察による使用法の復元を重視した。その結果,倭は5世紀に,中国華北に源流をもつ食器文化を朝鮮半島から本格的に導入したと考えた。華北的な食器文化とは,食膳具における杯の卓越・身分制的使用,煮炊きにおける竈・蒸器・鍋の使用,酒造をはじめとする貯蔵具の多様な使用である。これに韓独特の陶器高杯使用法が加わり,また倭の伝統的な土器高杯の使用の存続と須恵器蓋杯の創出があって複雑な様相を呈した。その結果,煮炊き・貯蔵においては華北的な方式の導入が順調に進んだが,食膳具では祭祀・儀礼的な意味を与える使用法が存続したと理解した。ただし5世紀の段階では,階層あるいは集団の違いによる渡来文化受容の水準差が存在した。これに対して6世紀には,日本列島中央部において,階層をこえて華北的な食器文化が定着した。同時に食膳・煮炊き具の両者にわたって東西日本の顕著な地域差が生じることとなった。この二者は共に次の時代を準備するものであるが,特に東日本において須恵器蓋杯と土器杯の写しの関係が生じてくることを,食膳具における華北的な身分制的使用法への転換のはしりとして重視した。7世紀には,従来の東西日本の食器の在り方を統合し,また仏教の本格的導入を基礎として,食膳具による身分表示を体系化する方式を追求した。それは7世紀初めの金属器を頂点とする写しの方式の採用,7世紀末の土器・須恵器の法量分化・互換性の成立によって実現したが,すでに達成されていた煮炊き具・貯蔵具の変革に,この食膳具の変革が加わって律令制的食器様式が確立した。なお日本列島中央部における律令制的食器様式には,宮都的食器様式をはじめとするいくつかの地域的な様式があり,律令社会を考察するための有益な情報を提供している。
著者
吉本 洋子 渡辺 誠
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.6, no.8, pp.51-85, 1999-10-09 (Released:2009-02-16)
参考文献数
116
被引用文献数
1

筆者達は1994年刊行の本誌第1号において,人面・土偶装飾付土器のうち主流である深鉢形土器の場合について集成し,分類・分布・機能などの基礎的研究を行った。その後釣手土器・香爐形土器・注口土器,および関連する器形についても検討し,縄文人の死と再生の観念がさまざまな形をとって表現されていることが明確になってきた。そしてそれらの時期的・地理的分布範囲はすべて深鉢形土器のなかに包括されることが確定的になってきたため,深鉢の分布範囲についての基礎的研究は絶えず検討を加えておく必要性があると考え,その後5年間の増加資料を集成した。人面・土偶装飾付土器は,1994年では443例であったが,今回約36%増加し601例となった。しかし北海道西南部から岐阜県までという範囲には変化はみられず,四季の変化のもっとも顕著な落葉広葉樹林帯を背景としていることが確定的になった。その範囲内にあっては,山梨・福島県に増加率が高く,前者は特に最盛期のIV類の中心地であることをよく示している。また後者は隣接地域も含め,従来一般的に意識されている中部地方ばかりが,人面・土偶装飾付深鉢形土器の分布域ではないことを明示している。時期的にも,縄文中期前半に典型的な類が発達することには変化はないが,従来断片的であった前期の例が増加したことは,獣面把手から人面把手へ発展したという見方の成立し難いことが明確になった。そしてそのなかには炉内で五徳状に毎日火にかけられていた,機能的にも重要な例も含まれている。逆に後・晩期の例も増加し,弥生時代の人面・土偶装飾付深鉢や壷形土器への連続性も,一段と明らかになってきた。機能的には,足形の把手状装飾が新潟・福島県から青森県にかけてみられ,そのうえ福島県ではそれと人面とが同一個体のなかにセットでみられるものも出土し,女神の身体から食べ物が生み出される様子が一段と明確になってきた。
著者
阿部 朝衛
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.14, no.23, pp.1-18, 2007-05-20 (Released:2009-02-16)
参考文献数
70

現代人の利き手の約90%は右であり,とくに左右非対称の作業の時には,主としてその右手が用いられ,左手はその補助的役割を果たす。明らかに手は機能分化している。人類の進化とともに利き手は発達してきたと考えられる。したがって,この利き手の発達,機能分化はいつから始まったのかと問うことは自然である。こうした問題意識からの論考はいくつかあるが,その研究内容は,今まであまり紹介されてこなかった。そこで,主に旧石器時代人の利き手に関する研究を検討してみた。その結果,利き手研究の歴史は意外に古く,多くの重要な視点があることがわかった。同時に,その研究方法にはいくつかの課題が見出された。それらを統合すると,今後は,次の要件からの検討が必要である。(1)適切な資料・属性を選択し,その分析結果を的確に表示・図示する。技術形態学的方法を援用しながら,利き手に関する適切な属性の抽出と分析が必要である。(2)道具・対象物と手あるいは身体との相対的位置関係とその変化を把握する。技術形態学的方法に加えて,機能形態学の方法も必要である。(3)利き手を判断する際に,運動学的あるいは解剖学的・人間工学的観点からみて,経済的・効率的かつ安全な動作を基準とする。それらを無視するような動作とその結果物は,分析対象として適当ではない。(4)全体的には,製作使用実験,使用痕研究,民族誌の成果を参考とすることは当然であるが,運動学・解剖学・人間工学的成果の援用が必要である。上記の条件を満たすならば,資料が増加している現在にあって,十分に利き手を推定することは可能である。この利き手研究は,運動システムを背景とした動作によって残された遺物を研究し,行動学上での位置づけを行う上で重要な役割を担うものであり,当然,他の時代でも無視できない分野であろう。
著者
竹原 学
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.2, no.2, pp.191-200, 1995-11-01 (Released:2009-02-16)
参考文献数
23

This paper describes a peculiar anthropomorphic clay tablet found in the Eriana site and examines its relation with other clay tablets and figurines from the eastern Japan.Eriana is a Late to Latest Jomon settlement site situated in Matsumoto city, Nagano prefecture, a mountainous region in central Japan. It is well know for the discovery of over 800 pieces of clay earrings.An anthropomorphic clay tablet was found during the 1995 excavation performed by Matsumoto City Archaeological Museum. It was intentionally broken into two pieces and arranged on a buried stone. The breaking was done by a strike on the reverse side and a scar from the blow is evident. This is rare example of the deliberate breaking of clay tablet, and an important specimen for comparison with the ritual impairment of the clay figurines. The piece is somewhat rectangular in shape, measuring 15.8cm in length, 8.6cm in width and 2cm in thickness, and is made of relatively refined clay. The decorative patterns on the reverse side are similar to those on the initial to early Latest Jomon pottery, and this firmly established the dating of this artifact. A human image is portrayed on the tablet as if it was a two-dimensional clay figurine. The image is constituted of a head, torso and legs, each being separated by incised lines which perhaps define a jaw line and a hemline of clothing. Arc-shaped eyebrows, nose, breasts, skirt-likeclothing and pubic region are depicted, with partial coloring in red.When compared with the clay figurines in eastern Japan, similarities are found with the later Late Jomon to early Latest Jomon figurines from the Tohoku and Kanto/Chubu regions such as the Yamagata and Mimizuku figurine types. These similarities are based on style, as well as the methods of depiction of eyebrows, nose, breasts and clothing. There are similarities with other anthropomorphic clay tablets from the northern Kanto region as well. Despite the fact that only faces are depicted on the other examples, patterns on the reverse side and expressions of the faces show the Eriana tablet is not an isolated example.Some scholars considered the anthropomorphic clay tablet as a variation of the clay figurine and its appearance was situated in the line of clay figurine development, while other scholars thought the two were different in terms of their function. The debate between the two groups of scholars has stagnated and the studies of the clay tablets have been pursued only in terms of representative types. Anthropomorphic clay tablets have been forgotten somewhat, partly because only a few specimens of them have been available for any detailed study. However, a few recent studies attempt to include all variations of clay tablets in a complete and detailed typology and chronology to understand their origins, developmentand decline. The discovery of the Eriana tablet should contribute to this trend, especially in terms of development and function of anthropomorphic clay tablet, and should help to end the old and forgotten debate on the tablet/figurine relationship.
著者
井出 靖夫
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.11, no.18, pp.111-130, 2004-11-01 (Released:2009-02-16)
参考文献数
53

古代本州北端に居住したエミシ集団は,これまで文献史料によって形作られたイメージが強く,考古学的にエミシ集団の特質について論じられることは少なかった。本州エミシ集団と律令国家との関わり合いや,人やモノの交流の様相についてなど考古学的に明らかにされるべき点は,数多く残されている。よって,本稿では東北地方北部のエミシ集団と日本国との交流に関して,考古学的に解明することを目的とし,またエミシ社会の特質についても明らかにしようと試みた。東北地方における遺物の分布,集落の構造,手工業生産技術の展開等の分析からは,本州エミシ社会においては9世紀後葉と10世紀中葉に画期が認められることが明らかとなった。9世紀後葉の画期は,本州エミシ社会での須恵器生産,鉄生産技術の導入を契機とする。9世紀中葉以前にも,エミシと日本国との問では,モノの移動や住居建築などで情報の共有化がなされていたが,国家によって管理された鉄生産などは城柵設置地域以南で行われ,本州エミシ社会へは導入されなかった。しかし,9世紀後葉の元慶の乱前後に本州北端のエミシ社会へ導入される。その後,10世紀中葉になるとエミシ社会では,環壕集落(防御性集落)という特徴的な集落が形成され,擦文土器の本州での出土など,津軽地方を中心として北海道との交流が活発化した様相を示す。このような9世紀後葉から10世紀中葉のエミシ社会の変化は,日本海交易システムの転換との関連性で捉えられると考えた。8・9世紀の秋田城への朝貢交易システムが,手工業生産地を本州エミシ社会に移して津軽地域のエミシを介した日本国一本州エミシ-北海道という交易ルートが確立したものと推測した。また交易への参加が明確になるにつれて,本州のエミシ文化の独自化が進んでいくことが明らかにされた。