- 著者
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吉澤 悟
- 出版者
- THE JAPANESE ARCHAEOLOGICAL ASSOCIATION
- 雑誌
- 日本考古学 (ISSN:13408488)
- 巻号頁・発行日
- vol.8, no.12, pp.69-92, 2001
火葬された遺骨を収める容器(骨蔵器)には,しばしば人為的な孔が開けられていることがある。本稿では,この穿孔の意味や背景を考えることから,奈良・平安時代(8~10世紀代)の人々が火葬墓を作る時にどのような思いを抱いてたのか理解しようとするものである。全国の穿孔のある骨蔵器86事例を集成し,その分布や時期別数量,使用器種,穿孔位置,大きさなどの傾向を検討した。さらに,これまでの研究で指摘されている穿孔の排水機能や信仰的用途について,一定の基準を設けて分別し,傾向をまとめた。結果,8世紀段階の穿孔は,比較的小さく排水機能に適したものが多く,9世紀前半を境にそれ以降は,孔が大きく多様な位置に穿孔したものが多くなり,信仰的な意味合いで穿孔されるようになる様子が捉えられた。つまり,穿孔は実用性から非実用性へと変化していたのであり,墓造りの意識自体それに伴って変化していたと推察された。<BR>この変化の背景を探るため,信仰的な遺物(鉄板,銭貨,呪砂など)と穿孔の共存関係を調べたところ,9世紀前半以降,墓における仏教的な儀礼の影響がみられ,それが非実用的な穿孔が増加させる原因であるとの推測を得ることができた。また,穿孔という行為が,一つの集団にどのように受け継がれて行くか,その流れを九州の池の上墳墓群を例にして調べてみた。結果,この墓地では,実用から非実用へと変化する全国的動向とは正反対に,最初の段階から非実用的な穿孔が行われ,後に実用化していた。また,穿孔をもたない一群とも有機的な関係が窺え,骨蔵器になにがしかの手を加える意識が伝承されていた様子を知り得た。これらから,骨壺への穿孔は,厳格な規範として行われたものではなく,加工行為自体を,集団が独自の伝承に基づいて行っていたと考えた。総じて,火葬墓の造営は,遺骨を保護する意識から遺骨を収める際の儀礼を重視する意識へと変化しており,それは,前時代(古墳時代)の遺体保護の観念が薄れ,後の時代(平安時代後期)の墓以外の場所で魂や霊の供養が行われるようになる,過渡的な段階を表象するものと推察した。