著者
及川 良彦 山本 孝司
出版者
THE JAPANESE ARCHAEOLOGICAL ASSOCIATION
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.8, no.11, pp.1-26, 2001

縄文土器の製作についての研究は,考古学的手法,理化学的手法,民族学的手法,実験考古学的手法などの長い研究史がある。しかし,主に製作技法や器形,施文技法や胎土からのアプローチがはかられてきたが,土器の母材となる粘土の採掘場所や採掘方法,土器作りの場所やそのムラ,粘土採掘場とムラの関係についての研究は,民族調査の一部を除き,あまり進展されずに今日に至っている。<BR>多摩ニュータウンNo.248遺跡は,縄文時代中期から後期にかけて連綿と粘土採掘が行われ,推定面積で5,500m<SUP>2</SUP>に及ぶ全国最大規模の粘土採掘場であることが明らかとなった。隣接する同時期の集落であるNo.245遺跡では,粘土塊,焼成粘土塊,未焼成土器の出土から集落内で土器作りを行っていたことが明らかとなった。しかも,両遺跡間で浅鉢形土器と打製石斧という異なる素材の遺物がそれぞれ接合した。これは,土器作りのムラの人々が粘土採掘場を行き来していることを考古学的に証明したものである。<BR>土器作りの根拠となる遺構・遺物の提示と粘土採掘坑の認定方法の提示から,両遺跡は今後の土器作り研究の一つのモデルケースとなることを示した。さらに,粘土採掘坑から採掘された粘土の量を試算し,これを土器に換算し,住居軒数や採掘期間等様々なケースを想定した。その結果,No.248遺跡の粘土は最低でも,No.248遺跡を中心とした5~10km程の範囲における,中期から後期にかけての1,000年間に及ぶ境川上流域の集落の土器量を十分賄うものであり,最低限この範囲が粘土の消費範囲と考えた。さらにNo.245遺跡は土器作りのムラであるだけでなく,粘土採掘を管理したムラであることを予察し,今後の土器生産や消費モデルの復元へのステップとした。以上は多摩ニュータウン遺跡群研究の一つの成果である。
著者
黄 慰文
出版者
THE JAPANESE ARCHAEOLOGICAL ASSOCIATION
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.6, no.8, pp.1-10, 1999

本文は中国の前期・中期旧石器考古学の最新の成果について報告し,それらに若干の考察を加えるものである。それは次の3つにまとめられる。<BR>(1)前期旧石器考古学の近年の最大の成果は,古地磁気法などによって180万年前(オルドバイ正磁極亜期),あるいはそれを溯る遺跡が発見されたことである。それが安徽省人字洞(200~240万年前),重慶市龍骨坡,河北省小長梁である。180万年前という年代は,東アフリカで人類が原人に進化した頃にあたり,人字洞の推定年代に至ってはホモ・ハビリスの段階に併行する。この年代における初期人類の存在は,世界の考古学界と人類学界の主流の学説に矛盾するが,それが事実とすれば,原人がユーラシアへ拡散した年代が溯る,あるいはその主人公がホモ・ハビリスなどかもしれないという新たな仮説を提唱することになろう。<BR>(2)モビウス氏が50年前に前期旧石器時代の旧大陸を「ハンドアックス文化圏」と「チョッパー―チョッピング・ツール文化圏」とに分けたモビウス・ラインは存在しない。アジアが属するとされた後者の文化圏は,気候変動が乏しく人類への圧力が弱かったので,文化的に停滞していたと見なされてきた。第四紀学と考古学の研究の進展によって,アジアの気候変動も他の地域と同様に激しかったこと,そしてアジアにもハンドアックスやクリーバーがあることが判明している。<BR>(3)中国では本格的に石刃技法と細石刃技術が始まるまでの3~26万年前頃を中期旧石器時代と考えた方がよい。その開始時期は中期更新世後葉にあたる。その文化的特徴として,丁村遺跡などでは後期アシュール文化の石器の組み合わせの,盤県大洞遺跡ではルバロワ技法の,水洞溝遺跡ではルバロワ技法と初期オーリニャック文化の石刃技法の影響が認められる。このように中期旧石器時代にもユーラシア東西間の人類の移住と文化交流があったのである。
著者
吉澤 悟
出版者
THE JAPANESE ARCHAEOLOGICAL ASSOCIATION
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.8, no.12, pp.69-92, 2001

火葬された遺骨を収める容器(骨蔵器)には,しばしば人為的な孔が開けられていることがある。本稿では,この穿孔の意味や背景を考えることから,奈良・平安時代(8~10世紀代)の人々が火葬墓を作る時にどのような思いを抱いてたのか理解しようとするものである。全国の穿孔のある骨蔵器86事例を集成し,その分布や時期別数量,使用器種,穿孔位置,大きさなどの傾向を検討した。さらに,これまでの研究で指摘されている穿孔の排水機能や信仰的用途について,一定の基準を設けて分別し,傾向をまとめた。結果,8世紀段階の穿孔は,比較的小さく排水機能に適したものが多く,9世紀前半を境にそれ以降は,孔が大きく多様な位置に穿孔したものが多くなり,信仰的な意味合いで穿孔されるようになる様子が捉えられた。つまり,穿孔は実用性から非実用性へと変化していたのであり,墓造りの意識自体それに伴って変化していたと推察された。<BR>この変化の背景を探るため,信仰的な遺物(鉄板,銭貨,呪砂など)と穿孔の共存関係を調べたところ,9世紀前半以降,墓における仏教的な儀礼の影響がみられ,それが非実用的な穿孔が増加させる原因であるとの推測を得ることができた。また,穿孔という行為が,一つの集団にどのように受け継がれて行くか,その流れを九州の池の上墳墓群を例にして調べてみた。結果,この墓地では,実用から非実用へと変化する全国的動向とは正反対に,最初の段階から非実用的な穿孔が行われ,後に実用化していた。また,穿孔をもたない一群とも有機的な関係が窺え,骨蔵器になにがしかの手を加える意識が伝承されていた様子を知り得た。これらから,骨壺への穿孔は,厳格な規範として行われたものではなく,加工行為自体を,集団が独自の伝承に基づいて行っていたと考えた。総じて,火葬墓の造営は,遺骨を保護する意識から遺骨を収める際の儀礼を重視する意識へと変化しており,それは,前時代(古墳時代)の遺体保護の観念が薄れ,後の時代(平安時代後期)の墓以外の場所で魂や霊の供養が行われるようになる,過渡的な段階を表象するものと推察した。
著者
網 伸也
出版者
THE JAPANESE ARCHAEOLOGICAL ASSOCIATION
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.12, no.20, pp.75-92, 2005

日本における瓦積基壇の成立は,大津宮周辺の古代寺院で初期の瓦積基壇建物が検出されていることから,百済滅亡と大津宮遷都が大きな画期になったと考えられる。実際に瓦積基壇建物が検出されている古代寺院の分布をみると,近江から南山背にかけて多く分布しており,大津宮との強い関連を想起させる。しかし,百済での瓦積基壇の展開を再検討し,日本の事例との比較を行なうと多くの相違点が指摘でき,百済滅亡後の渡来系氏族による新しい技術伝播として瓦積基壇の成立を単純に把握することができない。何よりも,ヤマト政権の中心地である飛鳥はもとより大和地域で初期の瓦積基壇建物がいまだ発見されていないのは等閑視できない事実である。<BR>この歴史的背景として,初期寺院造営において百済から全面的に造営技術を学んだが,百済で一般的であった瓦積基壇については積極的に採用しなかった姿勢を窺うことができる。そこには新しい文化技術を導入しつつも,掘立柱建物および石敷空間を重視する伝統的な宮殿構造に規制され,格式が高く既存の技術体系の中で受け入れやすい石積基壇は採用しても,外来的要素の強い瓦積基壇は認めない取捨選択が働いた結果が見て取れる。そして,日本で瓦積基壇が成立する素地として半世紀にわたる寺院造営技術の発達があり,大津宮遷都という飛鳥の伝統的呪縛から開放された新しい宮都で初めて寺院の基壇外装として瓦積基壇が定着し,近江と大和を結ぶ地域で大津宮周辺寺院とともに従来の大和諸寺院の影響を受けた瓦積基壇が展開したものと考えられる。<BR>さらに,瓦積基壇の初源は近江地域だけでなく,渡来系氏族が古くから居住した河内石川流域の新堂廃寺とともに,孝徳朝の難波遷都に伴う四天王寺の伽藍整備にも想定できる。難波長柄豊碕宮と想定される前期難波宮は後の朝堂院の原形となる広大な構造をもっており,律令国家成立期の画期的な宮として認識されている。四天王寺では百済との強い関連のもとに扶蘇山廃寺や定林寺と共通した伽藍で整備しており,大津宮と同じく開明的な都の整備の中で瓦積基壇の成立の端緒をみることができるのである。
著者
戸田 哲也 舘 弘子
出版者
THE JAPANESE ARCHAEOLOGICAL ASSOCIATION
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.8, no.11, pp.133-144, 2001

羽根尾貝塚と泥炭層遺跡は,神奈川県小田原市羽根尾において発見された縄文時代前期中葉の遺跡であり,1998年から1999年にかけて筆者等により発掘調査が行われた。<BR>遺跡はJR東海道線二宮駅西方約2.5kmに位置し,現相模湾より内陸に約1km入った地区にあたる。貝塚及び泥炭質包含層は地表下2~4mという深さに遺存しており,低位の幅狭い丘陵突端部の両側斜面と近接する同一地形の斜面計3カ所から発見されている。これらの斜面部には小規模な貝塚の形成のみならず,往時の汀線ラインに寄り着いたと考えられる多くの樹木類と木製櫂が点在している状況を加え,縄文前期海進により湾入した海水面汀線に沿った地点であったと考えられる。この汀線ラインには多くの人工遺物,自然遺物が廃棄されており,遺跡が埋没する中で低湿地化が進み,厚い堆積土の下に貝塚をも包み込むように泥炭層が形成されたのである。<BR>標高22~24mを測る斜面部には当初前期関山II式から黒浜式の古段階にかけて貝塚が形成された。この全く撹乱を受けていない貝層中には,土器・石器類そして多くの獣・魚骨と骨角器が良好な保存状態で遺存しており,当時の相模湾において船を用いたイルカ・カツオ・メカジキ・サメ・イシナギなどの外洋性漁労が活発に行われたことが知られる。さらに貝塚の端部には屈葬と考えられる埋葬人骨1体も遺されていた。<BR>貝層形成時及び直後の黒浜期に至ると貝塚こそ形成されなくなるが,貝層下端から斜面下方に残された泥炭質包含層中からは大量な廃棄された遺物類が出土した。<BR>多くの遺物が検出されたが,中でもシカ・イノシシの獣骨類とイルカ・カツオの魚骨類は足の踏み場もないほどのおびただしい量が出土しており,水辺の動物解体場を考えさせる状況であった。<BR>このように羽根尾貝塚と泥炭層遺跡からは縄文前期の相模湾岸で行われた陸上での動・植物採集活動と海浜での漁労という両面からの生活実態を知ることができる。また,その他の廃棄された漆器類,木製品類の豊かな木工技術を示す遺物を含めた文化遺物とともにまさに縄文前期のタイムカプセルといえる貴重な調査資料を得ることができた。
著者
坂本 嘉弘
出版者
THE JAPANESE ARCHAEOLOGICAL ASSOCIATION
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.13, no.21, pp.125-138, 2006

中世大友城下町跡は戦国時代「府内」と呼ばれた瀬戸内海の西端部の別府湾に注ぐ大分川の左岸の自然堤防上に立地する中世都市である。近年この「府内」が大分駅周辺総合整備事業に伴い大規模な発掘調査が実施されている。その結果,これまで古絵図からの復元や,文献史料で知られていた「府内」について,さらに都市構造や変遷・性格などが明らかになりつつあることを報告した。<BR>発掘調査にあたっては,考古学的な時間軸を明確にするために,「府内」から出土する土師質土器の編年作業を行った。その結果,14世紀初頭から16世紀末まで約300年間にわたる大まかな編年案を提示することが出来,「府内」各所での遺構の時期の並行関係をとらえることが可能になった。<BR>また,古絵図には「府内」を南北に貫く街路が四本描かれているが,これを東から,第1南北街路・第2南北街路と順に名づけ発掘調査した。大分川沿いにある第1南北街路は上市町・下市町・工座町の名称が示すように,発掘調査でも街路に沿って短冊形の地割が確認され,商工業者が居住する地域であることが裏付けられた。第2南北街路は,大友館や萬寿寺沿いに「府内」を貫く最主要街路である。この街路の大友館東側や萬寿寺西側については,町屋の状況を示す古文書も残されている。発掘調査では,その町屋の実像だけでなく,成立までの経過も明らかにすることが出来た。第4南北街路は,「府内」の西端の街路であるが,古絵図には街路西側にダイウス堂と記載された場所があり,キリシタン施設が想定されていた。発掘調査の結果,小児墓やキリシタン墓を含む13基の墓が検出され,宣教師たちが報告した墓地の南端にあたる可能性が強いと想定している。<BR>「府内」からは,多量の貿易陶磁器が出土する。特に,第1南北街路と第2南北街路を結ぶ横小路町で検出された遺構からは,中国・朝鮮のみでなく,タイ・ミャンマー・ベトナムなど東南アジアの陶磁器が集中的に出土し,中国南部と直接関わる人物の存在が指摘されている。<BR>また,キリシタンの活動に関連する遺物としてメダイがある。ヴェロニカのメダイ以外は,「府内」の第2南北街路と名ヶ小路との交差点部で検出された礎石建物付近で,分銅と共に製作された可能性が強いと考えられる。<BR>このように,16世紀後半の「府内」は海外との結びつきの強い特異な中世都市として存在する。残された史料も,古絵図,古文書,宣教師たちの報告など多彩であるが,これに考古資料が加わり,「府内」の実像がより立体的に明らかにされようとしている。
著者
植田 文雄
出版者
THE JAPANESE ARCHAEOLOGICAL ASSOCIATION
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.12, no.19, pp.95-114, 2005

祭祀形態の一つとして,祭場に柱を立てる立柱祭祀が世界各地の民族例に存在する。日本列島では,上・下諏訪大社の「御柱祭」が著名であるが,一般論としてこの起源を縄文時代の木柱列など立柱遺構に求める傾向が強い。しかしこれまで両者の関連について論理的に検証されたことはなく,身近にありながらこの分野の体系的研究は立ち遅れている。また,しばしば縄文時代研究では,環状列石や立石も合わせて太陽運行などに関連をもたせた二至二分論や,ラソドスケープ論で説明されることも問題である。そこでまず列島の考古資料の立柱遺構を対象に,分布状況や立地環境から成因動機・特性を考察し,立柱祭祀の分類と系統の提示,およびそれらの展開過程について述べた。考察の結果,列島では三系統の立柱祭祀が存在し,それらが単純に現在まで繋がるものでないことを指摘した。<BR>次に視点を広げ,人類史の中での立柱祭祀を考究するために,世界の考古・歴史資料を可能な限り収集し,列島と同手法で時間・空間分布や立地環境,形態などの特性について検討した。対象とした範囲はユーラシア大陸全般であるが,古代エジプト,南・北アメリカの状況も触れた。合わせて類似する儀礼として,樹木の聖性を崇拝する神樹信仰をとりあげ,列島と関係の深い古代中国の考古資料と文献資料から,神樹と立柱が同義であったことを指摘した。さらに,近代以前の人類誌に立柱祭祀と神樹信仰の事例を求め,世界的な分布状況や特性を検討し,その普遍性について述べた。そして,これら考古・歴史・民族資料を総括して史的展開過程の三段階を提示し,立柱祭祀の根源に神樹信仰が潜在することも論理的に示すことができた。また,普遍的には死と再生の祭儀が底流しており,列島の縄文系立柱祭祀はその典型であることが理解された。<BR>新石器時代当初には,生産基盤の森や樹木への崇拝から神樹信仰が生まれ,自然の循環構造に人の死と再生を観想して立柱祭祀がもたれたと考えられる。その後は,各地域の史的展開のなかで各々制度や宗教に組み込まれつつ,目的も形態も多様化したのである。
著者
井出 靖夫
出版者
THE JAPANESE ARCHAEOLOGICAL ASSOCIATION
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.11, no.18, pp.111-130, 2004

古代本州北端に居住したエミシ集団は,これまで文献史料によって形作られたイメージが強く,考古学的にエミシ集団の特質について論じられることは少なかった。本州エミシ集団と律令国家との関わり合いや,人やモノの交流の様相についてなど考古学的に明らかにされるべき点は,数多く残されている。よって,本稿では東北地方北部のエミシ集団と日本国との交流に関して,考古学的に解明することを目的とし,またエミシ社会の特質についても明らかにしようと試みた。<BR>東北地方における遺物の分布,集落の構造,手工業生産技術の展開等の分析からは,本州エミシ社会においては9世紀後葉と10世紀中葉に画期が認められることが明らかとなった。<BR>9世紀後葉の画期は,本州エミシ社会での須恵器生産,鉄生産技術の導入を契機とする。9世紀中葉以前にも,エミシと日本国との問では,モノの移動や住居建築などで情報の共有化がなされていたが,国家によって管理された鉄生産などは城柵設置地域以南で行われ,本州エミシ社会へは導入されなかった。しかし,9世紀後葉の元慶の乱前後に本州北端のエミシ社会へ導入される。その後,10世紀中葉になるとエミシ社会では,環壕集落(防御性集落)という特徴的な集落が形成され,擦文土器の本州での出土など,津軽地方を中心として北海道との交流が活発化した様相を示す。<BR>このような9世紀後葉から10世紀中葉のエミシ社会の変化は,日本海交易システムの転換との関連性で捉えられると考えた。8・9世紀の秋田城への朝貢交易システムが,手工業生産地を本州エミシ社会に移して津軽地域のエミシを介した日本国一本州エミシ-北海道という交易ルートが確立したものと推測した。また交易への参加が明確になるにつれて,本州のエミシ文化の独自化が進んでいくことが明らかにされた。
著者
馬場 伸一郎
出版者
THE JAPANESE ARCHAEOLOGICAL ASSOCIATION
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.14, no.24, pp.51-73, 2007

弥生時代の石器生産・流通論はその開始からその後の変化に分析の視角が集中する一方で,生産・流通出現前段階にある物資の流通との関連性については必ずしも充分な研究がなされているとは言えない。本稿の分析地域とした中部高地(長野・山梨県域)の特に長野盆地南部では弥生中期後葉以後,特定遺跡において労働力を集約化した石器生産と流通と,日本海沿岸地域からの玉類の流通が明瞭である。一方,縄文時代から弥生時代中期後葉の間には黒曜石石材の流通が認められる。それ故,異種の物資流通を比較検討するのに中部高地は格好の地域である。しかし,弥生時代の黒曜石研究では,原産地の利用実態,石材中継集落の有無,原産地遺跡と消費地遺跡の石材流通上の関係等,多くの事柄が未解明であり,石材流通の実態を復元することがまず必要である。それを本稿の目的とした。<BR>分析の結果,(1)弥生中期後葉栗林期に原産地組成に明瞭な変化があり,諏訪星ケ台系の石材に加え,和田和田峠系の石材が一定量組成すること,(2)弥生中期後葉は原産地組成が変化する時期であると同時に,佐久盆地の例が示すように原産地組成が遺跡単位で多様化する時期であること,(3)弥生中期後葉の消費地遺跡では諏訪星ケ台系・和田和田系の双方の石材が搬入され,その大半は集落内の石器製作で消費されていること,(4)弥生中期後葉には,屋外石材集積例の欠落,石材の小形化,石材出土量の減少が認められること,(5)弥生中期後葉には原産地遺跡と消費地遺跡の間に石材中継集落が認められないことが判明した。<BR>このように変化の画期の多くは弥生中期後葉に集中し,当該期は原産地での石材採掘活動を含む「集団組織的石材獲得・流通システム」が欠落しているとした。弥生中期後葉の栗林期は水田稲作を基幹生業とする社会変動期であり,大規模集落の形成・遺跡数増加・特定遺跡で労働力を集約した手工業生産にそれは象徴される。そうした社会変動と黒曜石石材の流通の変化は無関係ではなく,管玉・勾玉・磨製石斧といった交換財が新たに登場したことで,互酬性的な集団関係維持のための交換財であった黒曜石石材はその役目を終えたと考えた。