著者
中村 五郎
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.9, no.14, pp.53-70, 2002

(1)法薬尼が高野山奥之院に造営した経塚(以下,高野山奥之院経塚という)の特色は,第一に女性が造営した経塚からきわめて高い水準の埋納品を発見し,第二に空海の加護で将来,弥勒菩薩の出現に会って仏の恩恵にあずかることへの強力な願望,第三に涅槃思想の存在である。筆者は法薬尼を堀河天皇の中宮篤子内親王と考え,造営の目的は天皇の追善で,中宮が崩御する直前に埋経した。<BR>まれに見る弥勒信仰の高揚は,天皇を追慕する人々が弥勒菩薩の出現の暁に天皇と再会したいという特異で熱烈な目的があったと推測する。中宮は熱心な仏教徒で民衆の仏教思想も受容していた。<BR>(2)経塚の造営者は通常その身元が判らないことが多く,また,造営者達の信仰が把握できない場合も少なくない。その一方で,経塚全体からみるとごく少数例だが藤原道長・同師通・白河院(上皇)のように膨大な情報量を持つ人物の経塚造営もある。高野山奥之院経塚の法薬尼を堀河中宮(以下,中宮という)としたことで一例追加された。経塚造営という習俗の始まりは道長の金峯山での埋経にあり,これら4人は当時の最上流の人々で,道長のみは数十年間遡るが,他の3人の間には近親関係がある。政治権力が集中した道長と白河院とに現世肯定的な思想があるが,とくに,中宮の場合には対照的に現世否定的な思想が明らかで民衆の間の信仰が最上流に波及したもので興味深い。<BR>(3)比叡山で活躍した最澄は人はすべて成仏できると主張し,道長の曾祖父・祖父は天皇家との婚姻関係を軸に政治権力を強化し,同時に比叡山を財政的に援助して聖職者への影響力を強めた。そして,彼ら摂関家の政治権力は道長の時期に絶頂に達し,道長は比叡山の信仰を基に経塚を造営した。摂関政治に反発した天皇家側は,後三条天皇の時期に権力を奪いかえし,次代の白河院は道長と同様に金峰山に埋経し,その後は熊野詣に熱心で,孫の鳥羽院も熊野詣で納経していた。<BR>(4)経塚造営を含めた浄土信仰や涅槃思想などは,主に聖が布教して成長する民衆の間に広まった。<BR>京都周辺の聖の行動範囲は洛北などの聖地を本拠に,叡山・南都などの本寺と京都の信者の間を往復した。広域的な聖の行動範囲では京都と荘園,あるい同一領主の荘園間の交流を利用した例もある。これらの思想・信仰は,社会階層でも地域的にも広まりを見せてやがて鎌倉仏教を成立させた。

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