著者
新堀 歓乃
出版者
The Society for Research in Asiatic Music (Toyo Ongaku Gakkai, TOG)
雑誌
東洋音楽研究 (ISSN:00393851)
巻号頁・発行日
vol.2006, no.71, pp.1-20, 2006

ご詠歌とは仏教的内容を持つ詞に節を付けた歌謡で、巡礼や葬式など様々な仏教儀礼でうたわれる。ご詠歌の詠唱はうたい手が自らの信仰を表現する手段のひとつであり、その信仰は不変のものとみなされるため、ご詠歌の詞や節を個人の趣向で勝手に変えることは許されず、常にひとつの「正しい」詠唱法が求められる。しかし、この「正しい」詠唱法を伝えるはずの楽譜は幾度も書き替えられ、また、実際の詠唱や口伝内容も時代とともに変容してきている。では、なぜ楽譜と口頭伝承を変容させてしまうことが、ご詠歌を「正しく」伝承することであるとみなされ得るのか。この問いに答えるべく、本稿では密厳流のご詠歌を例に挙げて、楽譜と口頭伝承が変容する過程を分析した結果、その変容のしくみを以下のように説明できた。<br>ご詠歌は、伝授者である師範から被伝授者である在家の一般信者へと規範が提示されることによって伝承される。その規範とは師範が「正しい」と認識している詠唱法であり、これが楽譜と口頭伝承を通じて伝えられる。そのとき、師範は正確な伝承を達成しようとする一方、自己の個性を表現しようとするため、師範各々の詠唱間にはしばしば相違が生じ、それゆえ、ご詠歌の伝承にはある種の不完全さが伴う。たいていの場合、師範はこの不完全さを「詠唱の幅」と呼び、豊かな音楽性として評価する。しかし、ご詠歌を「正しく」伝承しようとする意識から、師範たちが伝承の不完全な部分を「正しくない」「規範に反する」と判断した場合、師範同士で会議を開いてご詠歌の「正しさ」をめぐって議論し、規範を再構築する。そして、新たな規範と従来の楽譜や口頭伝承との間に齟齬が生じた場合には、新たな規範に従って楽譜と口頭伝承を変更する。それゆえ、楽譜と口頭伝承を変容させることが、ご詠歌を「正しく」伝承することであるとみなされ得るのである。

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